ゴキブリと花

桜森よなが

第1話 ゴキブリと呼ばれている女の子

 あなたはゴキブリに優しくすることができますか?

 この問いにハイと答えられる人は、はたして存在するのだろうか。

 完全に差別やイジメをなくすことなんてできない。人間は嫌いなモノに優しくなれないからだ。

 人間には好き嫌いがある。全てを好きになることなんて、不可能なのだ。嫌いなモノをなくすことなんてできない。

 嫌いなモノに対して、人間はこれでもかというほど残酷になれる。それは、私の体験が幾度も証明してきた。

 私はイジメられている。ただのイジメではない。人間が虫に対して行うような、イジメる対象を見下した残酷なイジメだ。

 実際、私はみんなから虫として扱われている。しかも、おそらく多くの人間にとって、嫌いな虫のトップに君臨するであろう虫――――ゴキブリに。


「死ね。ゴキブリ。おれの視界に映るな」


 いつものように、私はイジメられていた。じめじめとした雨の日の午後。昼休み中の教室。そこで、私は十数人による誹謗中傷と暴行を受けている。


「死ね。死ね。どっかいけ。おまえが視界に映ると、飯がまずくなる」


 私を囲んでいる男女が罵倒を浴びせながら、うずくまっている私を踏んでくる。まるで虫を踏み潰すかのように……。

 教室にいる他の生徒たちは、だれもこのイジメを止めようとしない。遠くから見ているだけだ。先生は教室にいない。いたとしても、イジメを止めないだろうが。

 いや、これはみんなにとってイジメじゃないのか。みんなにとって私はゴキブリだから――。ゴキブリに出会ったら叩き潰すのが、人間にとって一般的な行いだ。みんなは、人間にとって当然の行動をしているだけなのだ。

 泣きたくなる。泣きそうになる。

 でも、泣かない。絶対泣かない。泣いてなんかやらない。

 正直に言うと、心の中では泣いている。みっともない悲鳴を上げて、号泣している。しかし、表面上は泣かないことが私のせめてもの抵抗なのだ。泣くわけにはいかない。だって、泣く姿を見せたら哀れに思われそうで……。それだけはイヤだった。だから、私はヤツラを鋭く睨み続ける。

 私を囲んでいるヤツラは、不快そうに眉根を寄せる。ヤツラの一人――ブサイクな男が、私にペッとツバを吐いてきた。私の顔にかかる。


 汚い。

 キタナイキタナイキタナイ!

 うずくまっている私を、ヤツラは見下しながら去っていく。

 ……死ね。

 シネシネシネシネシネ!


 呪詛の言葉を心の中で繰り返しながら、ヤツラを見送る。ヤツラは席に座って弁当を食い始めた。昼休みが始まって、すでに二十分以上経過している。昼休みはあと半分くらいしか残っていない。ゴキブリである私に、ヤツラはそんなにも時間を費やしたのだ。ご苦労なことだ。

 私は制服のポケットからティッシュを取り出し、顔にかけられたツバを拭いた。それだけでは汚さと不快感を拭えなかったので、手洗い場に行って顔を洗う。

 何度も何度も洗って、ようやく汚さと不快感が消えたので、ゆっくりと教室に戻る。

 教室に戻りたくないな、帰りたいな。


 そう思いながら教室に入ると、ヤツラが一斉に冷たい目で私を見てきた。チッという舌打ちが聞こえる。

 私は泰然とした態度で歩く。自分の席――窓際じゃない方の端の一番後ろに座り、弁当を食べ始める。

 私の周りには誰もいなかった。みんな私から三席分くらい前に離れている。つまり、私だけ教室の後ろの方で昼食をとっているのだ。だが、これはいつものことだ。もう慣れてしまった。


「たくっ、あいつ、なんで教室で食ってんだよ。トイレで食えっての」


 誰かがそう言ったのが聞こえた。

 誰がトイレなんかで食うか。残念ね、どんなことされようと、私は教室で食うから。

 胸の内でそう宣言する。


「ねーねー、この前あの映画見たんだけどさー、私感動して映画館で号泣しちゃったー」

「あー! 私もそれ見たー! 超泣けたー!」


 自分より四席分くらい前で机をくっつけあって弁当を食べている女子二人が、そのような会話をしているのが聞こえてきた。そのまま話を聞いていると、どうやら最近話題の恋愛映画について話しているみたいだ。

 自分も先週その映画を観た。

 その映画のストーリーは、要約するとこんなかんじだ。主人公の女の子がずっと好きだった男の子と恋仲になった。しかし、ある日その男の子が事故で死んでしまう。主人公は恋人の死に絶望するが、紆余曲折を経てその悲しみを乗り越える。そういうストーリーだ。


 この映画は評判が良いらしい。だが、正直言って、その映画に対して私は腹が立っただけだった。

 安易に泣かせようとしているのが鼻につく。それに、そのカップルは美男美女だった。これだけで私は観る気を失くした。というのは、それは汚い世界の上で成立している綺麗ごとだからだ。もし、そのカップルがブサイク同士だったら、あまり感動しないし、そもそも観る気も起きないだろう。その感動は、美男美女だからこそ成立しているのだ。


 しかし、よく考えてみると、世の中なんてのは全てそうだ。美しい舞台に立てるのは、綺麗なモノたちだけだ。全ての綺麗ごとは、汚いことの上で形成されている。綺麗ごとを言えるのは……綺麗ごとを楽しめるのは、綺麗なモノたちだけだ。汚いモノは、汚く生きていくしかないのだ。

 私は思わず大きな溜息を吐いてしまう。

 早く帰りたいな、帰りたいな、帰りたいな、帰りたいな。

 キイイインコオオオンカアアアンコオオオオオン――――と昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。

 授業の準備をしなくちゃ。

 ノートや教科書を出そうとする。そこで気付く、机の中が空っぽなことに。

 クスクスと小さく笑う声が聞こえた。やられた……さっき手洗い場に行ったとき、なにかされたんだ。

 クソ。クソ。シネ。シネ。シンジャエ!


 どうしようか……。教科書を借りるにも、もう借りる時間がない。まぁそもそも借してくれるような知り合いなど、私にはいないのだけど。

 はぁっと溜息を吐く。あきらめることにした。

 先生が来て、授業が始まる。五限目は現国の授業だ。教科書がないので、ぼーっとして授業を過ごしていると、


「よーし、ではここ、橘、読め」


 先生に指名される。

 こんなときにかぎって……。


「すいません……、教科書忘れてしまって」

「あーん?」


 先生は露骨に機嫌を悪くする。

 この現国の先生は差別をすることで有名だ。男子には厳しく、女子には優しい。しかし女子とはいっても、私みたいなブサイクには男子以上に態度が悪い。


「じゃあ、隣に見せてもらえ」


 現国の先生は、私を睨みながら言った。

 私は隣の男子を見た。隣の男子はチッと舌打ちをして、嫌そうな顔をしながら机をくっつけて、しぶしぶ私に教科書を見せてきた。

 そんな私を見て、女子たちがクスクスと笑っている。

 最悪。死ね。死んじゃえ。硫酸が顔にぶっかかって、顔がぐちゃぐちゃになっちゃえばいいのに……。

 私は文章を音読し始めた。ページを繰ると、隣の男子が不機嫌そうに顔を歪める。たぶん、私に教科書を触られたくないのだろう。


 私は声も醜い。中学生の頃に自分の歌声をスマホで録音したことがあったが、あまりのひどさにショックを受けた。それ以来、声をなるべく出さないようにしている。出したとしても、なるべく小さい声を出すようにしている。

 今音読している声も、たぶん先生にギリギリ聞こえるくらいの小さい声だ。でも、先生は文句を言わない。義務的に読ませているに過ぎないからだ。

 読み終わり、それから少し経って授業は終了した。その後の休み時間、さっき私に教科書を見せてくれた男子が、他の男子たちとこんな会話をしているのが聞こえてきた。


「くそ、なんであんなブスに教科書見せなきゃいけねぇんだよ」

「どんまい」

「災難だったなー」


 丸聞こえだっつうの……いや、聞こえてもかまわないのか。


「ほれほれ、橘菌!」

「おい、やめろって! 汚ねぇ!」


 私に教科書を見せてくれた男子が、教科書を他の男子になすりつけている。

 小学生かよ……。小学生の頃に同じようなことを幾度となくされていたが、まさか高校生にもなってされるとは思わなかった。

 バッカみたい。そう思ったが、しかし精神的にかなりダメージを負っているのを私は感じた。小学生の頃も辛かったが、今はそれ以上に辛いようで、私は今すぐ死にたくなるくらい嫌な気分になっていた。


 ……教科書を探そう。

 教科書を探しに行くことにした。まず、教室のゴミ箱を見る。バラバラに引き裂かれた教科書やノートがゴミ箱の中で発見された。でも、これで全部じゃない。私は教室を出て、トイレに向かった。

 トイレのゴミ箱にも、バラバラに引き裂かれた教科書とノートが見つかった。

 あーあ。また買い換えないとな……。

 


          *



 放課後。バッグの中に筆箱を入れているとき、私の二席前で男子二人がこのような会話をしていた。


「ごめん。おまえの貸してくれたシャーペン壊しちゃった……。何円した? 弁償するよ」

「いいよ、べつにそれくらい。たいした額じゃないしさ」

「そうか。悪いな……」

「気にすんなって!」

「……優しいな、おまえ」


 私は自分でもゾッとするくらい冷めた気持ちで、その光景を眺めていた。

 ムカツク……。普段私にひどいことしているくせに……そのような友情ごっこ……反吐が出る。

 友達に対しては優しい彼らだが、私に対しては同じ人間か疑うくらいにひどい。

 何が優しいだ。私に対しても優しくしてから言え。

 私は嘆息して、バッグのチャックを閉めた。教室を出ていく。スーパーに寄って買い物をしてから、家に帰った。

 家に着くとすぐに手洗いとうがいをして、私は台所で料理を作り始める。


「ただいまー」


 父が帰って来た。


「あれ、おまえまだ飯作ってねーの?」

「う、うん、ちょっと待ってて」

「なにしてんだよ、ったく、早く作れよ」

「ご、ごめん……」


 父は私に冷たい。私がブサイクだからだ。私がもっと美人だったら、態度がもっと柔らかかったんだろうか。

 私はちっちゃいころから父にブサイクと言われ続けた。ちっちゃいころの私はそんな父に認めてほしくて、勉強も運動も頑張った。

 でも、百点を取っても、かけっこで一番になっても、「よくがんばったな。でも、これで顔さえよければなー」と顔について言及されるのだ。

 この前、教室で男子たちが今人気である歌手についての話をしていたとき、こんなことがあった。「あの歌手歌うまいよなー」と言った男子に対して、別の男子が「でも、あいつブスじゃん」と言っていたのだ。

 歌手だけでなく、スポーツ選手やそれ以外の職業の人も、こういうふうに言われているのをよく耳にする。


 そう、結局顔なのだ。

 どれだけ勉強ができようが、運動ができようが、歌が上手かろうが、顔が悪かったらダメなのだ。

 男子はよく知らないが、少なくとも女子は、勉強も運動もできるブスより、馬鹿で運動音痴な美人のほうがちやほやされる。

 だから、私は最近以前ほどがんばらなくなった。どうせがんばっても、私は正当な評価を受けられない。どれだけがんばろうが、ブスはただのブスなのだ。

 ご飯を作り終えて、父と一緒にご飯を食べる。その最中、


「ねぇ、お父さん」


 私はなぜだか父に話しかけてしまった。話しかけなくてもいいのに……。


「なんだ?」

「今日の肉じゃが、どうかな?」

「まぁまぁだな。でも、母さんの方が数倍良かったな。あと顔も」

「そ、そう……」


 なにも、顔のことまで言及しなくてもいいじゃない……。これだからお父さんは……。

 五年前に交通事故で死んだ母親は、美人で料理上手だった。母が死んでからは私が料理をしているのだが、どれだけ私が料理を美味しく作ろうと、父はこんなかんじなのだ。

 父はいつも私と母親を比べていた。母が死んでからは、よりいっそうその傾向が強くなったような気がする。父はいつになったら、私をちゃんと見てくれるんだろうか。いや、きっと、そんな日は来ないんだろうな……。

 私は肉じゃがを見ながら、溜息を漏らしてしまう。


 父だけじゃない、母も私に冷たかった。私にちっともかまってくれなかった。誕生日やクリスマスにプレゼントを一度ももらったことがない。おこづかいすらもらったことがない。授業参観にも一度も来てくれなかった。浮気する父への怒りをよく私にぶつけた。ストレス発散と言って、私を頻繁に殴った。

 そんな母親だからだろうか、母の葬式で私は全く泣かなかった。正直母親が死んでうれしかったくらいだ。

 私はまた溜息を漏らしてしまう。父は私の溜息など全く気にかけず、テレビに夢中だ。


 ご飯を食べ終わった後は食器を洗って、それが終わったらお風呂に入った。お風呂から出ると、すぐ私はベッドに入った。

 はぁ。疲れた。もう寝よう。

 少し早いが、もう寝ることにしよう。

 朝が怖い。また地獄の日々が始まると思うと、憂鬱で憂鬱でしかたがない。朝なんて来ないでほしい。このまま眠りに落ちて、一生眠ったままになればいいのに……。

 でも、朝は来てしまう。気づいたら、小鳥たちがチュンチュンと、朝の到来を祝福していた。カーテンの隙間から、陽光が私の目に降り注ぐ。

 ああ、来てしまった。ああ、また地獄が始まる。

 私はくじけそうになりながらも、重い足を何とか動かして今日も生きていくのだ。

 昨日は地獄。今日も地獄。明日も、明後日も、明々後日も、その次の日も、そのまた次の日も……。

 地獄→地獄→地獄→地獄→地獄→地獄→地獄→地獄→地獄→地獄→地獄→地獄――――

 そんな地獄の日々を乗り越えて、私は二年生になった。

 そして、運命の人と出会うのだ。

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