第35話 空気の読める俺が空気の読めないお嬢様を説得する

 俺が次にナタリアの後ろを見たときにはそこにはもうミレーヌたちはいなかった。


 彼女たちは、はるか後方に下がっていた。

 

 それにしてもあの一瞬で……なんという速さなのだろう。

 

 しかし、よかった。


 これでなんとか最悪の事態にはならずにすんだ。


 だが……奴隷紋を二回も彼女たちに使ってしまった。


 これでまた……彼女たちの俺に対する憎しみと怒りを増幅させてしまった。


「フウ……フウ……殺す……あの女……」


「グルぅ……あの女……ライナス様を……よくもライナス様を……」


 はるかに遠くに離れた今でも全方位から強烈な殺意が感じられる。


 それに正確には聞き取れないが、何かをうめいている声も聞こえる。


 ついでに怒り狂ったような獣の遠吠えや唸り声のようなものが方方から聞こえてくる。


 明らかに先ほどよりもミレーヌたちの殺気は増している。


 やはり……奴隷紋を使ったことが彼女たちの怒りに火をつけてしまったようだ。


 ……俺、この後……屋敷まで生きてたどり着けるのかな……。


 俺は先行きの不安を感じながら、なんとも言えない思いを抱いていた。


 と、ナタリアも周囲の異常に気がついたようで、あたりを伺っている。


 が……ナタリアはただ首をかしげて、


「やはりこの地区は危険ですわね……魔獣がこんなにも近くにいるなんて……」


 と、神妙な面持ちをするだけであった。

 

 まったく……呑気なものだな。

 

 魔獣なんかよりはるかに危険な存在が近くにいるというのに……。

 

 それにしても、このナタリアというお嬢様……相当鈍いようだな……。

 

 気の所為かお付きの衛兵二人も妙に疲れ切った顔をしているし。

 

 きっといつもこのお嬢様に振り回されているのだろう。

 

 鈍い者が主人だと周りの者は苦労するからな……。

 

 その点、俺は人の空気を読むのに長けている。

 

 コミュニケーションを取るのは苦手だが、それだけは自信がある。

 

 なにせ俺はこの5年間にわたって、アリスやここにいるケモノ娘たちに取り囲まれていた。


 そして、彼女たちの気持ちを抜け目なく察知してきた。


 そのおかげで、なんとか彼女たちの不満や不平をギリギリのところで抑えて、切り抜けてきたのだ。

 

 そう……文字どおり命に関わることだから、片時も気を抜かずに……。

 

そういう意味では、レベルは上がらなかったが、俺のコミュ力は大きく上がったのかもしれない。


 が……人の元来の性分まで変わるものではない。


 苦手なものは苦手なままである。


 現にこの5年間、どれだけ俺は神経をすり減らしたことか……。

 

 そのストレスのせいで、最近髪も薄くなってしまった気がする……。

 

 俺は後頭部をさっと撫でる。

 

 転生しても、一生女性に縁のない人生確定かもしれない……。

 

 ……愚痴っていてもしかたがない。

 

 まずはこの空気の読めないお嬢様をどうにかしなければ。


「えっと……ナタリア様……あなたのような高貴なお方がなぜこのような場所にいらしゃったのですか?」

 

 と、俺は地面に膝をついて、臣下の礼を行い、頭を下げる。

 

 人に媚びへつらうのは、前世の時から慣れているからお手の物だ。


「……面をあげなさい。そのような形式的な儀礼はわたしには不要ですわ。単刀直入にいいましょう。わたしはここに今日正義をなしにきたのですわ」

 

 と、ナタリアはリアルでは滅多に耳にしない言葉を口にしながら、俺のことを睨みつける。


 いやまあ……ゲームの世界とはいえ、『正義』なんて普通に生きていたら、この世界でも滅多に聞かない。


「……その……正義とはいったい……失礼ながらわたしにはさっぱり理解が——」

 

 俺は、顔を上げて、精一杯の笑顔をつくりながら、ナタリアを見るのだが……。

 

 ナタリアは俺の言葉が終わる前に、


「その気色の悪い笑みは不要ですわ。そして言い訳も……」


 と、口をはさむと、そのまま勢いよくまくしたててくる。


「あなたには嫌疑がかかっているのですわ。周辺の村々を襲って、略奪を繰り返し、哀れな娘たちを奴隷にして、そして、ここで、その……その……いかがわしい……」

 

 と……なぜかそこでナタリアはしどろもどろになり、恥ずかしそうに顔を紅潮させる。

 

 隣にいる衛兵がそそくさと近づき耳打ちをして、


「……ナタリア様……娼館ですよ」


「もう! わかっていますわ。ただわたくしは乙女としてそのような言葉を使うのが——と、とにかくあなたが卑猥な業を行っているということはわかっているのですわ!」

 

 ナタリアはそういうと、仕切り直しとばかりに、片手を大仰に振って、


「さあ大人しく観念なさい!」

 

 と、宣言する。


 その表情はまさにわれに正義ありといった堂々したものであった。


「い、いや……しかしわたしはそのようなことは——」


「おだまりなさい! あなたの周囲を見なさい! この街区には女性たちしかいませんわ。そして、彼女たちの表情を……あの目を見ても、まだ言い訳をなさるおつもりなのですか!」

 

 と、ナタリアは、あたりをぐるりと見回す。

 

 と、そこには遠くから殺気立ったケモノ娘たちが、恨めしそうにこちらを睨んでいた。

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