地球最後のアクアリウム

隣乃となり

地球最後のアクアリウム

「どうして入っちゃだめなんですか!」

 

ロポの悲痛な声に、窓口の男は、こっちだってやりたくてやっているんじゃないと言わんばかりに顔をしかめた。

「あのねお嬢さん、残念だけどここはお金がないと入れないんだ。君は何も持っていないでしょう。」

泣かれでもしたら困ると思ったのか、男はロポに諭すように優しく言った。

「でも、でも…。」

男の努力も虚しく、ロポの目はみるみる潤んでいく。そしてついに、わんわん泣き出してしまった。

「わたしにはお母さんもお父さんもいないの!大人をつれてきてって言われても、誰もいないの!」

ロポが泣き喚いてしまったものだから、男もどうすればいいのか分からず、あたふたするしかなかった。


そんな時、どこからか一人の女性が窓口にやって来て、泣いている少女と慌てふためく男を見てから凛とした声で言った。


「どうしたの?この子。」


その質問が自分に向けられているものだと気付いた男は、ビクッと体を震わせて、それから「勝手に泣いているんです。」と消え入りそうな声で言った。

「勝手に泣いてるって…なんで泣いているのよ。」

俯いて答えない男に呆れて、女性はロポの目の前にしゃがみこみ「どうしたの?」と聞いた。

「水族館に入りたいのに、入らせてくれないの。」

ロポは涙を手で拭きながら答えた。

それを聞いた男は「いや、だって子ども一人ですよ?お金も持っていないし…。」と反論したが、女性と目があうと声の勢いが消えてしまった。


女性は溜め息をつき、鞄から財布を取り出した。

「いくら?」

「え?」

「ここの入場料。大人一人と子ども一人でいくら?」

突然のことに男は困惑して、4050円 と2800円です、と言うだけなのに何度も噛んでしまった。

「さすが『地球最後のアクアリウム』ね。結構取るじゃない。」

そう言って女性は財布から一万円札を取り出し、トレーではなく直接男に手渡した。

「お釣りはいらない、って言いたいところだけど…いや、いいわ。やっぱりお釣りはいらない。あなたも大変なんでしょう。これはチップよ、チップ。」

男は受け取った皺のない綺麗な一万円札を見つめながら「はあ…」と間抜けな声を出した。

そして少ししてからまだチケットを渡していなかったことに気づき、慌てて発券して二人に渡した。


「それではいってらしゃいませ。地球最後の、アクアリウムへ。」


男はまだ放心しているのか、見送りの決まり文句を言いながらも、心ここにあらず、といった感じだった。


「おねえさん、ありがとう!」

もらったチケットを見つめながら、ロポは満面の笑みで言った。もうとっくに泣き止んではいたが、ロポの頬に残る涙の跡や赤く充血した目を見て、女性は苦笑した。

「おねえさんじゃなくて、ルナーレって呼んで。」

「るなーれ?」

「そう、ルナーレ。私の名前よ。」

「綺麗な名前だね。ルナーレさん。」

「ありがとう。ところで、あなたの名前は?」

ロポ!元気よく少女は言った。

いい名前ね。とルナーレが微笑む。 


「じゃあ行きましょう。アクアリウムが見たいんでしょう?」


そうして二人は、地球最後の水族館へ足を踏み入れた。





「ところで、あなたはなぜここに来たかったの?」

ルナーレが聞く。

二人並んでクラゲの水槽を観ているときだった。

「一目惚れした魚がいるの。今日は、その魚に会いにきた。」

ロポは、ぷかぷかと浮かぶほのかに青く透き通ったクラゲから目を離さないまま、真面目な顔でそう答えた。

「一目惚れって…」

とルナーレは苦笑しかけたが、ロポの真面目な顔を見て、本気なのだと悟った。

「どういう魚?」

ルナーレがクラゲの水槽に向き直って聞く。

ロポはうーん、と考えるそぶりを見せた後に言った。

「種類はわからないの。でもその子につけられてた名前はわかるよ。コエラっていうの。」

ロポは続けて言った。

「わたしがもっともっと小さい時に、まだ生きていたお母さんとお父さんが近所の水族館に連れて行ってくれたの。そこでコエラを見て、すごくびっくりした。こんなに綺麗な生き物がいるんだなって思った。でも、わたしが大きくなっていくうちに世界から水族館はなくなっていった。海の生き物の数が減ってしまったから。それで地球に残っている水族館は、もうここしかなくなったの。だから、もしコエラがまだ生きていたら、きっとここで暮らしている。」


「地球から水族館が消えたのは、すべて人間のせいよ。」


ルナーレは言った。まるで自分に言い聞かせているかのようだった。


「私ね、学者なの。海や海の生き物について調べているのよ。それで何度も痛いほど突きつけられてきた。人間が自然に、生き物に対してしてきた、酷い行いの数々を。」


ロポはルナーレの言葉を、真摯に聞いていた。


「コエラはもう、生きていないんじゃないかしら。」

さすがのルナーレも、そこまでは言えなかった。

でも、ロポもどこか心の片隅ではそう思っているのではないか。ロポの何かを諦めたような少し悲しげな表情を見て、ルナーレは辛くなった。


すぐに沈黙が訪れて、二人はしばらく、ゆらゆら揺れるクラゲを見つめていた。




「ロポ、聞きに行きましょう。」


ふと、ルナーレが言った。


「え?」

「だから、聞きに行くのよ。コエラがここにいるのかを。」

「え、でも…」

「会いたいんでしょ。もう一度。」


ルナーレが妙に積極的なことに驚いて、ロポは困惑しながらルナーレについて行った。



「コエラ?そんな名前の魚はいなかったような…。」


エイの水槽の掃除をしていたスタッフは、掃除をする手を止めて必死に考えてくれた。

「ちょっと他のスタッフにも聞いてみますね。」

そう言ってそのスタッフはどこかへ行ってしまった。


「親切なスタッフで良かったわ。」

ルナーレの言葉に、ロポはこくんと頷いた。

ロポが先程からあまり喋らないのは、緊張しているせいだろう。

コエラがいるのかいないのか、はっきりしてしまう。そのことが、ロポには怖かった。自分から望んでこの水族館に来たものの、いざコエラがいないという事実を突きつけられたら立ち直れなくなってしまうかもしれない。そんな不安が、ロポに纏わりついていたのだ。


「聞いてきました!」

小走りをしながらスタッフが戻ってきた。その顔は笑っていた。

「コエラっていう名前の魚、いましたよ!」

ルナーレとロポも顔を見合わせて、ぱあっと笑顔になった。




「ロポ、今からコエラと会えるのよ。どうして俯いているの。」

ルナーレは心配そうに言った。

「だって…これでもし、その魚がコエラじゃなかったら。たまたま名前が一緒だったってだけで、全然違う魚だったら…。」

ロポは俯いたまま辛そうに言った。

「大丈夫。」

ルナーレはロポの小さい背中をポンと優しく叩いた。

「大丈夫だから、行ってきなさい。」

ロポが顔を上げてルナーレを見る。

ルナーレは笑っていた。



「うん。」





そこは、他のフロアよりもさらに薄暗く、深い青色をしていた。ロポはゆっくり、慎重に、足を踏み入れた。


中央に、幻想的に光っている一つの大きな大きな水槽が見える。


その中で泳いでいるとある魚を見て、ロポは叫ぶように言った。


「コエラだ!」


少女の顔が、花が開いたかのように一瞬で明るくなった。

みるみる顔が喜びに満ちていく。


ロポは駆け出して、水槽にぶつかりそうな勢いで向かっていった。そして、指先でそっと水槽に触れて、言った。


「コエラ。ここにいたんだね。」


魚がロポに反応して、近づいてくる。

ロポは片手で口を押さえて、感動のあまり泣き出してしまった。 

魚は、そんなロポの姿を気にも留めず、斑点のような模様のついた体を優雅に翻し、ゆったりとひれを動かし、水と戯れていた。


「シーラカンスだったのね。」


いつの間にかロポの後ろに来ていたルナーレが感嘆の声を上げた。

生きた化石、シーラカンス。

その貫禄、迫力、そして美しさに、ロポもルナーレも飲み込まれていた。





いつの間にか二人は並び、長い間、水槽越しにコエラを見つめていた。 





「良かったわね。コエラに会えて。」

水族館を出て、二人は並んで歩いていた。

「うん。」

ロポは笑っていたが、まだ泣いた跡が残っている。

もちろん、それは喜びの涙なのだが。


「本当にありがとう。ルナーレさん。」

ロポが言った。

それを聞いたルナーレは照れくさそうに「どういたしまして」とぶっきらぼうに言った。だがその顔は微笑んでいる。



「ねえルナーレさん。」

ふいにロポが言った。

「わたし、あれが地球最後のアクアリウムだなんて、嫌だよ。」

「え?」

「もっと水族館を増やしたい。もうあんな悲しいことが起こってほしくない。もっとたくさんの魚に会いたいし、触れ合いたいの。」

ロポの声からは、強い意志が感じられた。

「そうね。」

ルナーレが言う。

「私も、水族館をなくしたくないわ。」


「じゃあさ」

ロポは上目遣いにルナーレを見た。

「考えようよ。どうしたらこの世界からアクアリウムを、魚たちをなくさないようにできるのか。」

「え?」

「わたし、勉強する。もっともっと魚について知りたい。それで、どうしたらもう二度と魚たちが酷いことをされなくて済むのか、その方法を見つけたい。」


ロポの声は、希望に満ち溢れている。



その言葉に、ルナーレは心を動かされた。

「ええ。そうしましょう。私があなたに教えるわ。」


そう言いながら、目の前の少女を見つめる。



『地球最後のアクアリウム』


その言葉が、もはやこの世界から忘れられる。それほどまでに水族館が再びありふれたものとなる、そんな時代がいつか必ず来るのだろう、という確信があった。


そしてその時代を作るのは、間違いなくこの少女だ。


いつか、アクアリウムが再び日常のものになる。

そんな希望をルナーレはこの少女に、ロポに、託すことにした。

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地球最後のアクアリウム 隣乃となり @mizunoyurei

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