アンリ、女子に屈する
放課後にアンリはレオナードの協力のもと、裏庭でひたすらに炎をエーテルへと変換する。二人の練習はすっかり日常に溶け込んでいた。
本日最後の授業を終えて、アンリは速足で裏庭へと急ぐ。駆け足で廊下を行くアンリの足音は軽く、息が弾んだ。
そうして廊下を曲がろうとしたところで、彼女たちは現れた。数人の女子生徒たちは長い髪をリボンで結い、または背中に流している。小さな靴を履いたたくさんの足がかつかつと音を立てて、アンリを取り囲んだ。
目を白黒させるアンリの前に、廊下の奥からしずしずと一人の女子が現れる。彼女は豊かな金髪を惜しみなく背中へと流し、一際華やかな雰囲気を放っていた。強く香る甘いにおいは、薔薇に似ている。
「アンリ様、ですわね? 私、セレナ=ウィルソンと申します」
ウィルソン。確か、この国の伯爵家の一つだ。
甘ったるい声と香りが、アンリの五感をくらくらと刺激した。思わず怯むアンリに構わず、彼女たちはすり寄ってくる。かわいらしく囀るように、アンリを見上げていた。
アンリが返事に困っていると、彼女はおもむろに口を開く。
「レオナード殿下と、放課後をともに過ごしていらっしゃると伺いましたわ」
アンリがそれに言葉を返す前に、取り巻きたちが口々に話はじめた。
「私たちも殿下とお話ししたいのです。よければ、今からの練習をご一緒しても?」
「いいえ、あなたは殿下のお時間をいただきすぎですわ。私たちも、殿下とお話ししてみたいのに」
「そうですわね。殿下には、休息が必要ですわ」
アンリの背中に、じんわりと嫌な汗がにじんだ。かあっと頬が熱くなり、どうすればいいのか分からなくなる。
「え、えっと、その」
しどろもどろのアンリに構わず、女子の一群はずいずいとアンリに迫る。セレナは物憂げにため息をつき、しとやかな仕草で頬に手を当てた。
「殿下は、前々から私たちとお茶会をするお約束をしていらっしゃるのです。そのお暇もないくらいお忙しいのは、私たちも心配ですの」
あ、と、アンリの口から間抜けな声が漏れた。そうだ。レオナードの世界は、アンリのそれなんかよりもずっと広い。それをうっかり、忘れていた。
「殿下は、あなたたちとお約束があるんですか?」
「ええ」
自信たっぷりに、セレナは言う。ここぞとばかりに、取り巻きの女子たちが口々に追従した。かわいらしく鈴の転がるような声が、アンリを包囲する。
「セレナ様は、殿下の婚約者候補ですのよ」
「お時間を作ってさしあげて」
「お茶会は殿下みずからお約束してくださったので、私たちも楽しみにしていますの」
「あなたからも殿下に言ってくださらない? 私たちはいつでも待っております、と」
アンリは、何も言い返せない。言葉が喉元で詰まって、いつもの反抗心すら湧いてこなかった。
(そうだ。春からずっと、僕と一緒にいてくれていたけど)
アンリの知らないレオナードの姿を、まざまざと見せつけられていた。レオナードはみんなに慕われている。彼の周りにはたくさんの人々がいて、彼女みたいに結婚相手になるだろう人もいる。
当たり前のことなのに、なぜか酷く胸が痛んで、足が竦んだ。
こんな苦しみは、知らない。アンリはなんとか「それは、殿下ご本人が決めることじゃないですか」と声を絞り出した。
「だからあなたたちが口を出す権利は、ないはずだ」
「ええ。ですから、殿下が、私たちとお茶をされるとお決めになられたのですよ」
胸を張り、セレナが諭すように言う。その威風堂々とした姿にアンリの中で一瞬、強い感情が閃いた。しかしそれもすぐに勢いを失い、力なく腿の横で手が揺れる。それを腹の前で組み、アンリはちいさくうなだれた。
歯を食いしばって、視線を床へと下げる。彼女に反論できる材料を、アンリは持ちえなかった。
「……は、い。殿下に、言ってみます……」
アンリは屈した。セレナはレオナードの婚約者候補だという。それに引き換えアンリは、きっとこの一年だけの関係だ。だったらこの先人生をともにする(かもしれない)彼女といた方が、彼のためになるのだろうか。
それにアンリは、自分がレオナードの親しい人である自信がなかった。ただ、レオナードが隣にいてくれるから、甘えているだけ。
世界が途端に崩れていくような心もとなさに、アンリはゆっくり顔を上げた。勝ち誇ったようにセレナが笑い、口元を手で押さえる。
「ええ、ぜひそうしてくださいまし」
アンリが一歩ゆっくり踏み出すと、彼女たちは一斉に道を開けた。ぱたぱたという足音が、いやに耳に残る。セレナがゆったりと手を振り、穏やかな声でアンリを見送った。
「本日のご練習も、お疲れの出ませんよう。アンリ様」
自分の濃い影を踏んで、アンリは歩き出した。女子生徒たちはくすくす笑いながら、アンリを見送る。
その中、セレナが鈴の転がるような声で一際高く笑った。
「殿下になにとぞ、よろしくお願いいたしますわ」
アンリのその鼻腔には、彼女たちの香水の甘ったるさが残っていた。
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