第2話 安穏の音
突然転がり込んできた濡れ鼠三匹を、宿の看板娘は驚きながらも嫌な顔せず歓迎した。
「あらまぁ、びしょ濡れね。父さん、タオル持ってきて」
「お、おう」
娘にせっつかれて、父親らしき男がバタバタと奥へ引っ込む。すぐに戻ってきた男の手には、真っ白で清潔なタオルが幾つか収まっていた。
娘は瑠璃の頭を包むようにタオルを渡すと、帆夏と桃乃にも同じように渡そうとする。しかし帆夏がびくりと肩を竦めて桃乃の腕に腕を絡めたのを見て、苦笑してそのまま手渡した。
「すみません、ちょっと人見知りが酷くて」
その酷さと言えば、なんとコンビニ店員相手にも吃るレベルである。懐いた相手には四六時中くっつく程なので、面食らう人も多い。
「ああ、いいのいいの。こっちこそ不躾にごめんね」
「いえ……」
娘は気を悪くした風もなく、からりと笑った。快活で、人好きのする愛嬌のある娘だ。そしてカウンターの裏へ回って、記入用紙とペンを手に取る。
「泊まりでいいのかしら。何泊?」
人見知りの帆夏と未だ喋らない桃乃に代わって瑠璃が娘の前に立つ。
「取り敢えず二週間ほどお邪魔したいのですが……これくらいで足ります?」
もらったは良いものの実際に使用したことはないので相場がわからず、瑠璃は巾着から金貨を一枚取り出して首を傾げた。
そして相手の反応にぴしりと固まる。
「金貨!? ちょっと貴女、こんなところでそんなもの出したら悪党に取られちゃうわよ。二週間なんて銀貨一枚で十分よ」
「え」
ひっくり返った声に、瑠璃まで驚いたように目を丸くする。どうやら国王陛下は、自分たちの身に余る金銭を渡していたらしかった。
(……流石、金貨を食べて育ったと言われる国王陛下)
この国は他の国と比べても裕福らしく、侍女からその噂を教えられた時は下世話な帆夏が尻上がりの口笛を吹いていた。
「代わった服装だけど見るからに訳ありっぽいし、もしかしていい所のお嬢様なの?」
「えーと、まあ。あはは」
訳ありには違いないので、それっぽく笑って誤魔化してみる。
「大丈夫よ、うちは誰でも歓迎だから。軽く説明させてもらうわね」
「はい、お願いします」
建物は三階建てて、二階と三階が客室となっているらしい。宿には大浴場が付いているが、部屋ごとに小さめのバスルームも付いている。トイレとは別なのが有難い。
朝晩食事付きで、事前に申請すれば昼食もバスケットで包んでくれるらしい。食堂は一階、つまりここが酒場兼食堂として利用出来るとのこと。
「本来であればここで皆食べるんだけど。明日明後日くらいは、部屋に持っていくわね」
瑠璃の後ろに一瞬目をやって、パチリと海月の看板娘がウィンクした。
なんて気の利く女性だろう。
うっかり惚れてしまいそうなほどかっこいいなと心の中で瑠璃が呟く。
「何から何まで、本当にありがとうございます。助かります」
「いいのよこれくらい。それよりいつまでもそんな格好じゃ風邪引いてしまうし、早く受付を終わらせてしまいましょう。お名前と年齢だけ教えてくれる?」
「私は有馬瑠璃、後ろのボブが一ノ瀬帆夏、もう一人が星守桃乃です。年齢は十八歳」
「上が家名かしら。東洋の出身?」
「ええ、実は。なのであまりこの国に詳しくなくて……何分急いでいたものですから」
整った顔と二枚舌と揶揄される口を駆使して、淑やかにそう微笑んでみせる。
途端看板娘の表情が同情したものに変わり、後ろから湿った視線がビシバシと叩き付けられた。素知らぬ顔で微笑みをキープする瑠璃の手を両手で掴み、看板娘は凛々しく告げた。
「何か困ったことがあったら何時でも言ってちょうだい。私も父さんも力になるから」
「とても心強いです」
「いいのよ。さあ、これが貴女たちの部屋の鍵よ。お風呂沸かしてあるから、好きな時に入ってちょうだいね」
205、と彫られた木彫のチャームが付いた鍵を渡される。それを受け取り、瑠璃は二人を促して部屋へと向かった。
❋
南向きのシンプルな部屋だった。
チェストに小さなテーブルとソファ、それにキングサイズのベッド。質素ながら、オーナーのセンスが要所で光る居心地のいい空間だ。
朝になれば、大きな窓は陽射しをたっぷりと取り入れるだろう。
は、と誰かが息を吐く。
漸く一息つける空間に入ることが出来た。ここにいるのは三人だけ、他には誰もいない。
今まで無理やり瑠璃を立たせていた何かが、体からずるりと抜けていく気がした。
「桃乃!」
「るり……」
ドアを閉めて鍵を掛ける。
そうして三人だけの完璧な空間を作った瑠璃は、勢い良く桃乃に抱きついた。力の抜け切った桃乃では瑠璃を支えることも出来ず、二人でずるずると座り込む。
ぎゅっと拳を握り締めた帆夏も、二人の体に腕を回した。
「るり、なつ……ちがうの、私色目なんか使ってない」
鍵がかかったように喋らなかった口でやっと放った言葉がそれか。
怒りのあまり桃乃の首に回した腕に力がこもる。ぐぇ、なんて音がしたが気にするものか。
「なんで謝るの……」
「るり?」
「なんで謝ったりするの! 桃乃は何にもしてない! 言いよってきたのは向こうで、迷惑してたのは桃乃でしょ!? どうして謝るの、どうして桃乃が悲しまなくちゃならないの!?」
「るり……」
棘のある言葉を吐く口とは裏腹に、普段の瑠璃は穏和だ。滅多なことでは怒らず、陰口も本気で気にしていない程度には他人に無関心。
そんな彼女が、声を荒あげ目に涙を溜めて怒っている。
「怒れよ! 怒って、泣いて、悲しいって言って! プライドを踏みにじるような、惨い扱いに怒ってよ!! ……ももはなんにも悪くない。謝ったりなんか、しないでよ……」
瑠璃の悲痛な叫び声に、呆然とした桃乃が帆夏を見る。
いつも気丈な親友が泣いている光景は、少なからず桃乃の心に打撃を与えたのだろう。
けれど、帆夏とて怒っているのだ。
「ねぇ、桃乃。瑠璃の言う通り、桃乃はちっとも悪くないよ。百向こうが悪ぃじゃん。心優しいお前が、桃乃が、心を揺らす必要なんて、微塵もないんだよ」
穏やかな声と、優しい温度の指が桃乃の頬を撫でる。
じわりと心が綻んで、暖かくなるような気がした。
冷たく凍っていた心が、溶かされる感覚。
「……ふ、っく」
気付けば桃乃は、ぼろぼろとこぼれる涙を抑えられないでいた。
悔しい、酷い、怖い。胸に巣食った感情が、雫としてこぼれ落ちる。
瑠璃と帆夏を引き寄せて、肩に顔を埋めた。柔らかい猫っ毛と、滑らかなストレート。甘酸っぱいラズベリーと爽やかなレモンの香り。
安心する、二人の姿。
すり、と擦り寄れば桃乃を抱き締める二人も桃乃に擦り寄った。
「桃乃、大丈夫。何も怖くない」
「もう寝よう。朝起きたら朝ご飯食べて、それからこれからの事を考えよ」
濡れて邪魔な制服は脱ぎ捨てて。
髪を結っていたリボンも、手を彩っていた指輪も、耳に煌めくピアスも取って。下着だけを身につけたまま、三人はベッドに潜り込んだ。
帆夏が左で瑠璃が真ん中、右は桃乃。
お泊まりの時の、いつもの位置で三人は眠りについた。
何も怖いことの無い、優しく暖かな場所で。
❋
柔らかなベッドの上で無垢な少女が三人、子猫のように身を寄せ合っている。
月光が仄かに照らし出す光景は神聖で美しい。
ゆっくりと起き上がり、桃乃は瑠璃の頬にかかった髪をそっと払った。
それから帆夏と瑠璃の額にキスを落とす。
妖精の羽音のような囁きが、夜の静寂を微かに揺らした。
「ありがとう、私の大切な女の子たち」
――ずぅっと、一緒にいよう。
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