◇30 something strange




 次の日。休日明けの月曜日。

 大型の台風の接近が白森だけでなく、日本中で伝えられる中、白森市では未だ雲1つない快晴であった。晴れ過ぎていてどこか気持ちが悪い。

 とかく奇妙な天気だった。洋書なんかであれば冒頭にストレンジデイとでも書かれるのかもしれない。もちろん読んだことはない。


 天笠と出かけた先週とは違って、今日はしっかり遅刻しない時間に起きた。というか昨日の起きた時間を引きずって逆に早く起きすぎた。

 現在、朝7時。いつもなら目覚ましもまだかからないこの時間に、既に玄関を出て歩き始めていた。

 絡まったコードをほどいて、いつも通り耳にイヤホンを1つ1つ差し込む。接続するのはいつも通り古ぼけた音楽プレイヤー。流れてくるのも同じあの曲。


 この時までは、僕にとっては変わらない日常だった。やっぱり天気予報はあてにならない、くらいのことをのほほんと考えていた。折り畳みの傘は一応カバンの中に入っているが、果たして使う機会があるのかどうか。


 そして、高い塀の道を曲がって大通りに出た時だった。


「お」「あ」


 鉢合わせしたその人物は僕のよく知る――というか昨日ぶりの――深路だった。

 制服姿の深路はいつもだったらそのままにしている黒髪を、なぜか後ろで1つにくくって纏めていた。


「お前――こんな早くからどうした?」

「それはこっちのセリフだ。津島はいつからこんな優等生になってしまったんだ?」

「あ? 僕はたまたまだよ、たまたま。昨日起きた時間が早かったから引っ張られたんだろ多分」

「奇遇だな。私もだ」


「……」「……?」


 昨日のことが頭によぎっていた。そんな僕の小さな沈黙には「なんだこいつ」と言いたげな表情が向けられている。まあ行こうぜ、と進行方向を指差し並んで再び歩き出す。


「なんで髪結んでるんだ?」

「今日体育があるだろう? 時間もあったから家で結んできた。――ほら」


 深路は通学カバンとは別に横から下げた布製の手提げの袋をこちらに揺らして見せる。

 おそらくジャージか何かが入っているのだろう。中からは紺色のものがちらっと覗かせている。

 だが、どこか内容が頭に入ってこない。“その”話題を無視することは、難しい。


「……昨日の。覚えてるか?」

「ああ。覚えているよ。昨日の今日で忘れるわけがないだろう?」


 結局、話題を昨日の話、事件の話へと無理やり移した――つもりだった。


「でも楽しかったな」


 身構えながら話を振ったばかりに、あまりに大外から飛んできた言葉にフリーズした。意味が分からなかった。

 でもすぐに気づく。


 ……そうか。こいつ、あの人形を見てないんだ。

 アレは本質的に死体となんら変わりがなかった。だからこその、三谷の反応だったのだ。


「私は、次出かけるのが凄く楽しみだよ。色々行きたい場所とやりたいことがあるんだ」


 あの惨状を見て同じことを言える自信は僕にはない。深路だってそうだろう。刹那的によぎった性悪説的思考をすぐに捨てた。


 それにしても警察署まで行っておいてポジティブすぎるというか、自分の事しか考えていないというか……。そんな思考にあてられてか、頭を重くしていた昨日のことがいつの間にか薄くなっていた。


「次行くなら白森の外に行きたいな、1回も出たことないんだ。独りだとなんか行く気にならないし」


 両親にどこかに連れて行ってもらった記憶もないので、僕は生まれてこの方白森市一筋の人間だ。こんなこと言っていると聞こえはいいが、怠惰なだけではある。誰かの誘い? 聞くまでもない。

 というか、「友達」と言われ一度遊びに行っただけで、今まで躊躇って言いだせなかった誘いが口からすらすらと。とは我ながら単純すぎないか。


「私も外に出たことはないぞ。別に何か不便があるわけでもない。ずっと長くいたらいつか幸運でも回ってくるかもしれないしな」


 深路は遠い目をしながら言う。

 幸運。僕には果たして回ってくるのだろうか。


「お前、覚えてるか? 僕、小学生のとき深路の都会への憧れを延々と聞かされたんだぜ?」

「ふっ。いや、全く記憶にないな。そんなこと言ってたか私?」


 緩やかに蘇ってきた記憶を確認すると、深路はすっとぼける。一瞬吹き出しかけていたが。

 

「いや絶対言ってたね。うん。これは間違いない。お前が一流企業に入社するところから始まるライフプランを僕は何となく覚えている。確か、」

「あーいい! もういい! わかったわかった。私は断固認めないが、その先を聞くと色々と不味いことになりそうだ。そこらへんでやめとこう。な?」

「いや不味いことってなんだよ」


 ぐっ、と親指を立てて肩を叩いてくる深路にツッコむ。というか結局認めはしないのか。

 深路は僕に何かを言い返そうと、自分の記憶を探るように僕の顔を見つめる。


 2秒。

 3秒。

 4秒。

 一度何か思いついたかのようにあ、と小さく声を出したが、何かが違ったのか、また同じ顔に戻って、むー、と唸り続ける。


「おーい。足止まってんぞー」


 呼びかけると、考え込んでいた当の相手が目の前にいないことに気づいて歩き出す。


「それで? 僕に言いたいことは見つからなかったんだろ?」

「――――あ、石見と仲直りしろ」


 おいおい……ナニカや過去のあれこれを除いた理論値を叩き出すな、このバカ。受け流せねーよ。

 しかし、なあ。言ってやったぜ、みたいな顔をされるとすごくピキっとくる。


「だが不思議だな。あいつ、あの頃とそんなに変わっているか? 私も会ってない時期があったから絶対ではないが」

「それいつの話だ? 中学の頃か?」


 興味はなかったが、違和のある深路の口ぶりは気になった。

 同じ中学校、だったよなこいつら。


「私は別に津島のように仲が悪くなったわけでもないがな。……まあ、一度話さない期間ができてしまうと会う気になれなかった」


 その理由は、分かる。

 高校に入ったばかりの自分が、同じことを深路に対して思っていたから。

 小学生の自分にとって、深路は本当に数少ない友達の1人だ。時が経って僕の憶えが薄くなっていたとしても、多くの思い出を共有していたことに間違いない。加えて悲しいことだが、入院で出鼻を挫かれた中学生時代に親しい友人はできていない。

 つまり繋がりの深さは僕にとって、人生において屈指。しかしそれだけの繋がりを持っていても、いっそこのまま会わない方が、という誰のためかわからない遠慮の心が実際に働いたのだ。


 再会した深路香奈は、その言葉が嘘に聞こえるほど大人びていて、記憶とは大きく違って見えていた。


「それまでにいろいろ考えることも多くてな。高校に入ったあたりでようやく気持ちが定まった。その副産物さ」


 石見と、僕と、周囲の人間とだって自分からコミュニケーションを取ろうとする――そんなこいつの姿を当時は信じがたく。


 僕は幼馴染の変化を見たくなかった。

 深く向き合ったものごとが、まるっきり形を変えてしまうことは恐ろしい。

 この世には正解などないと再認識させられ、どこへも進めなくなりそうになる。

 それは人間関係に留まらない、普遍的な世界の取り決めだ。


 何を思い、その結論に至ったのか。

 未だ真面目に取り合わないで現実からの逃げ道を作ろうとする自分には、理解できないのだろう。……こんな諦観が良い証だな。


 毎日のように顔を合わせるようになり、良くも悪くも人間たかだか3年間では本質的に変わらないってことだけは分かったけどね。俺も、こいつも。


 ――だけど。


「石見に対してはそう単純じゃないんだな、これが」


 変化が嫌だ、というのは確かにそう。

 だが深路とも高校で再会し、友達だったという条件は同じ。同じ空間で生活していれば否が応でも話す機会は生まれ、なんだかんだと結局つるむような関係に至っている。


 つまるところ、仲直りなんて土台無理な話だ。だって自分自身ですら2人の違いを言語化できないのだから。

 石見は僕がなぜ自分を嫌うのか分からない。奴が特別何かした訳ではないのだから分かるはずもない。だのに、何かを知った風に一歩引いた笑みを浮かべることを、声色を、雰囲気を、すべてを、目の奥から繋がる脳が拒絶しろと叫ぶのだ。再開してから、ずっと。


 小学生の時は……どうだったかな。深路は奴を変わっていないと言う。どこか周りから浮いている八方美人。表面上は確かにそうだ。僕の、記憶上の昔の『僕』だけが分かる違和感があるのだろ――――やめだやめだ。昔から絵を描かなかったし、深路の時のように気づけるわけがない。


 とにもかくにも本能、直感、なんだっていい。思考のリソースを割くことが面倒臭い。もうそれだけの区分なのだ。


 深路は「お前らの問題だから、特に私から口出すことはないが……」と一度置いて、


「私は運命なんて言葉は信じていないが、津島がいて、三谷がいて、石見がいる。この学校に来て本当に良かった気がするんだ」


 なんてことを言いだした。

 思わず深路の顔を見つめるが、目の前のそいつはいたって真面目な顔をしてそんなことを言っている。

 普段なら絶対大笑いしていただろう。大丈夫かお前、と。なぜだか口から出てこない。


「だから――いつでもいいから」


 その先を深路は言わなかった。

 僕が黙っていると、深路もそのまま遠い目をして沈黙した。



「そういや、お前なんで三谷のとこの中学に通ってたんだ?」


 話が途切れたその後に、僕は深路にできるだけそれとなく言った。

 これは深路に聞きたかった質問の1つで、ずっと聞けていなかったもの。滅多にしなかった話をした今が格好のタイミングに思えた。そうでもないと、昔の、それも少し切り出しづらい話なんて死ぬまで聞けないだろう。


 僕と深路は西白森小学校の時の同級生で、卒業した後に僕は東白森へと移った。

 連絡は取っておらず、てっきりそのまま学区域の中学校へと行ったのだとばかり思っていた。三谷や石見と同じ、少し南寄りの中学校と知ったときは驚いたものである。


 僕の内向けの勝手な葛藤を、「それなら簡単なことさ」と、こっちを見た深路は何でもないことのように答えた。


「津島が西白森からいなくなった少し後に、私の家も引っ越したのさ。白森のちょっと南側の方にな」

「そうか……深路も引っ越してたのか」

「まあ色々あったからな」


 年単位の疑問はあっさり解ける。あまりにも過ぎるほどだ。答えだってあまりにも単純で、至極当然のことでしかない。往々にしてそんなもの、か?

 聞いた後からの考えでしかないのだが、どうして僕はこんなことすら聞くのを躊躇っていたのだろうか。


 ……なんだか自分が馬鹿に思えてきた。


 僕らはそうして、昔の話をしながら高校までの道を歩いた。自分という存在を確かめるよう、いつぶりかわからないぐらい、聞けていなかったことをたくさん。深路に訝しまれていないだろうか。

 1つ聞けば1つ思い出す。他人に合わせて歩いているのに、登校時間はいつもの半分以下にも思えた。


 学校前の大通りに出ても、まだ生徒の影は微塵も存在していなかった。そりゃそうだ。僕ならまだ寝ている時間だし。


「あ、昼飯買わなきゃ」


 大通りに曲がったすぐ目の前のところにあるコンビニが目に入った。いつもと勝手が違ったからあやうく忘れるところだった。

 コンビニに入って、すぐのところにある小さめの買い物かごを持つ。僕が目指すのは――おにぎりじゃなくてパンにしようかな――奥の菓子パンなどが並ぶコーナーだ。


「深路は何がいいと思う?」


 何を選ぶか少し気になった。というか、何でもいいから深路に話しかけたかっただけのような気もする。

 この前学食のパンを買っていたときは、たしかハムサンドみたいなものを選んでいた憶えがある。


「今のお前の好みなんて私は分からんぞ? あのクソ不味いおにぎりを買ってくるような奴なんて」

「クソまず……? あ、ネギ味噌醤油コーンのことか?」

「具の中身なんて言われても分からん。私が貰ったやつだ」

「わさびカルビマヨネーズの方は普通においしかったぞ。あと、別にあげてないからな。勝手に食っただけだからなお前」


 そうだっけ、と思いっきり顔を作ってとぼける深路。


「ま、そんな前のことは流しといてやる。僕の好みとか考えないでさ、今深路が一番おいしそうだと思ったやつ挙げてくれよ」

「そうか。なら……んー……これだな」


 そういって、深路が手に取ったのは、菓子パン――の横の棚に置いてあるコーヒーゼリーだ。っておい。


「パンのところで言ったつもりだったんだけど……」

「そんな話は全く聞いてないぞ。はい。いやーすまないな、ご馳走になるよ」


 そう言って手渡してきた…………は?


「いつから僕が奢る話になったんだ?」

「違うのか? わざわざ私に聞いてくるから買ってくれるのかと思ったぞ」


 そんなことをぬかす深路。「なわけねーだろ」と言う声は聞いていないのか聞こえないのか、未だコーヒーゼリーのあった洋菓子コーナー周辺を物色している。どっちであっても自然にできるこいつは本当にいい性格している。


「仕方ないな、買うよ。これでいいんだろ?」


 死ぬほど甘そうなモンブランや抹茶ケーキを見て、うーん、と何かを迷っている女を止める。幸いコーヒーゼリーはざっと見た感じでは一番安いし、別に僕はそれほど狭量じゃない。

 適当に近くにあった菓子パンを2つばかり掴んで一緒に籠の中に放り込んだ。


「うむ、苦しゅうない」


 会計を済ませて、コーヒーゼリーを深路に渡そうとする。しかし、荷物になるから津島が持っていてくれ、ということで菓子パンと同じビニール袋に入れた。


 コンビニを出て学校まで道のりを再開する。少し時間を潰したつもりだったが、それでも他の生徒の姿は未だなく、どころか人通り自体が少なく閑静なものである。


「こんなに人いない時間ってあるんだな。初めて見たわ」

「たまに生徒会で早く来ることもあるから私は珍しく感じないな。遅刻魔の津島は最近見慣れたもののはずだろ」

「そういえばそうだ。なんか見覚えあると思ったら忘れてた」


 皮肉を飛ばされているうちに正門へ無事到着した。門は閉まっているので、空いている隣の小さな扉から内側に入る。7時半より前は正門が開いていない、という事象をまさか自分で体感する日が来るとはなあ。


「登校日も少ないんだから、残りはちゃんと来いよ」

「……終業式っていつだっけ?」

「今週の木曜だ阿呆」


 はいはい。しばらくは外出しないし余裕だっての生徒会役員様よ。

 校舎までの道に作られた小さなビオトープを並んで抜ける。


「……さ」

「ん?」


 小さく深路が呟いた言葉は聞こえなかった。


「あれ?」


 その代わり奥の駐輪場、止めてある赤い自転車が目に留まった。

 あのスポーツタイプの奴はたしか三谷のものだ。――おいおい。あいつまでこんな早く来てるのか?


「深路、あれ見ろよ」

「ん? 三谷の自転車だな。こんな時間に来ているのか?」


 私たちを棚に上げるが、と深路。それは間違いないな。

 三谷はあんな風でも優等生の部類なのだが、それでもこんな時間から学校に来ているのは変だ。昨日のこともあるから少し心配、なんて言ったら三谷に笑われるだろう。

 大方部活で用事でもあるのだろうか。はたまた絵でも描いているのか。僕らは首を傾げながら苦笑いした。


 ビオトープを抜けると公園の噴水のような円形デザインの溜め池に出くわす。生物部が整備しているこのナントカ池を通過すれば昇降口へと辿り着く。3か所ある透明な扉のうち、唯一開いている右側の扉から入った。2年生の靴箱は並んでいる中の真ん中だ。


 何の気なしに開いた三谷の靴箱には上履きだけが揃えて入っている。

 小さな疑問は動きを止めるほどではなく、靴を履き替えようと自分の下駄箱から上履きを地面に落とした時だった。


 ――世界が止まった。

 心臓の動きも、呼吸すらも全てを忘れて、視線は向けたある一点へと釘付けになる。


 この角度から見える池の反対側のふちに「何か」があった。

 そして「ナニカ」もそこにいる。これまでに見たことのない、夥しい量が――。


 思考が世界に追いつくと同時に体の感覚が戻り、止まっていたものを一気に噴き出すかのように心臓が全開で動き出す。血流が脳まで行き渡ると、手のひらの隙間から零れる水のように激しい頭痛の感覚が滲み出る。

 背筋へと走る悪寒とそれを塗りつぶすほどの拍動に身を任せ、靴下のままその場所へと走り出る。


「……はっ、ふっ、はっ」


 荒い呼吸。コントロールを失った身体。地震のように揺れる視界。網膜の情報を拒絶する脳。オーバーヒートして止まらない汗。惨状に呆然と立ち尽くす、僕。

 からだが、この感覚をおぼえている。


「……おいどうした!? ……ぁ」


 突然の奇行に面食らっていた深路も後から追いついた。僕の肩を叩いた手はすぐに固まり、そのまま力なく下に降ろされる。


 そこには、最近見たばかりの、人のようなものがあった。


 左足。

 右足。

 左腕。

 切断、されている。


 唯一残った右腕の手が握るべっとりと血の付いたのこぎり。

 乱雑に置かれた左手が奇妙なものを描いていた。


 今までと異なっていたのは、それらすべてに群がり、纏わりつく、尋常でない量のナニカ。


 そして、その顔は。



 ――昨日見たばかりの三谷だった。


「……ぃ…………?」


 喉を通って出てくる空気は、最早声としての形をなさなかった。



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