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ただでさえ目出し帽の生地が顔の肌に触れる感触が我慢ならないのに、勘の鈍い警官に当たってしまって根津の頭には血が上って仕方がなかった。ここまで察しが悪いとわざとかとも思えてくる。警察の間では要人警護の秘術として牛歩戦略が伝わっているのだろうか。
「署長が乗っているのはわかっているんだ」
そう言って根津は銃口で後部座席の人影を差した。銃口を向けられた人影が緊張したのがわかった。銃口に従って警官の視線も後ろへ移動した。その瞳が何かに気づいて大きく開かれる。その隙に根津はその頭に銃口を押し付けた。
「降りてこい」
後部座席の人影に、根津は静かに告げる。顎で外を指し示すと、糸で引かれるように人影がドアの方へ動いた。
署長がドアに手を掛けた瞬間に、根津はそのドアを思いっきり引っ張る。バランスを崩してパトカーから転げ落ちそうになった署長の腕を掴む。外に出てきたのは根津が思ったよりも若い男だった。根津は彼の体を乱暴に引き起こす。盾のように署長を自身の体の前に引き寄せると、素早く銃口をその背中に向け直した。
余計なことをするな、と根津は視線で運転席の警官に伝えた。だがその必要はなさそうだった。彼はぼんやりとした視線で眺めているだけだった。こちらの隙を探ろうともしていなければ、拳銃を取ろうと腰に手を伸ばしてもいない。難解な映画を見せられている時のように目の前の景色をただ眺めているだけのように根津には見えた。
勘の悪い警官の理解が追い付いてしまわないように、根津は急いで署長をマーチまで連れて行く。重いバッグのように署長を後部座席に押し込み、自身もその隣に乗り込んだ。
根津がドアを閉める直前にマーチが加速を始める。先ほどとは打って変わって軽快な走行から、ご機嫌な住井の顔が浮かぶ。
「房緑組までぶっ飛ばしていくわよ」
先ほどまで浮かべていた鬼気迫る表情の痕跡が微塵もない調子のいいセリフを住井は恥ずかしげもなく口走る。
「気を付けてくれよ、特に警察には」
根津も彼女の軽口に応じるくらいには上機嫌だった。仕事を終えた達成感は他の方法では得難いほど心地が良い。根津はうつぶせになった署長の腕を後ろに回して、結束バンドで縛った。それかれ署長の体を半分回転させると、絹を裂くような音を立ててガムテープをロールからはがし、小気味よく署長の口に貼りつけた。署長は諦めたのか根津に抗うことなくガムテープを受け入れた。根津は簡易猿ぐつわの仕上がりに満足して、手のひらでポンっと叩く。
トンネルを抜けたマーチは市街地へ向けて走っていた。パトカーから署長誘拐の連絡を受けて増援がやって来るとも限らない。住井は裏道へ入っていった。空はすっかり暗くなり、山道には街灯も少ない。道はほとんどマーチの貸し切り状態だった。
根津は背もたれに身体を預けて、座る姿勢を崩した。
「しかし警察署長がこんなに簡単に捕まるとは信じられないな」
まだ喜び足りていない彼は誰に言うでもなくそう言った。その瞬間に、それまで静かにしていた署長が落ち着きを失くしたように暴れ始めた。
逃亡する意思を取り戻したのかと思い、根津は腰に仕舞った拳銃に手を伸ばした。だが署長は縛られた腕ではなく、もっぱら顎を動かしていた。口をふさいだガムテープをどうにか外そうとしているようだった。根津に気づかれても署長は必死に続けていた。それどころか彼は根津に目で訴えた。
「黙れ」
話したいことがある、そう署長から視線を送られた根津が一括する。交渉は聞き始めた時点でこちらの分が悪くなる。根津はそう思っていた。
署長は根津の命令に反して、モゴモゴと声を出し始めた。
「一言だけ言わせてあげれば」
前を向いたまま住井が言う。根津は小さくため息をついて、署長の口のガムテープの端をつまんだ。
「いいか、一言だけ言ったらすぐに貼り直すからな」
署長の目をまっすぐ見て根津が念を押した。署長は落ち着きを取り戻して、ゆっくりと頷く。それを確かめてから根津がガムテープをはがした。
「俺は署長じゃない」
根津がガムテープをはがし切らないうちに男は叫んだ。
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