駅の待合室にて
平城 司
南田
――なんでや。
その言葉の代わりに、南田は駅の待合室で短い息を吐き捨てた。尻を打ち付ける勢いで座ると、待ち受けていた椅子は思いのほか固く、それでまた苛つく。
慣れた駅だが、待合室を使うのは初めてだった。十人程度しか座れない駅のホームにある小さな待合室。大抵満員になっているそこも、始発からダイヤが乱れているせいか今日は南田を含めて一人しかいない。若い女性だ。きっと彼女も、ガラス張りの小部屋から見える景色が煙るほどの雨に予定を狂わされた被害者なのだろう。
七月も半ば。大雨が電車のダイヤを乱す日が続いていた。今日もそうだ。今週だけで三回も、南田はこれに巻き込まれている。
南田の勤め先の最寄り駅は、一時間に一本電車走るかどうかというお粗末な路線上に存在する。するとどうなるか。一度ダイヤが乱れると、実質運転見合わせに近い状態に陥る。
自分に落ち度は一つもない。仕方がないと思いつつも、暑さと湿気で苛立ちは増すばかりだ。
不便な路線でしか通勤方法がないことを理解している勤め先は、南田に対して寛容だった。遅れたり、出勤できなかったりということに苦言を呈されたことは一度もない。
しかし南田本人には、勤め先に対する申し訳なさと自分が抱えている期限付き仕事。憂鬱と焦燥感が湿気とともにまとわりつく。そんな不快感を煽るように、遅延の報せとそれに対する謝罪のアナウンスが繰り返されていた。
上司に連絡がつく時間まであと十五分。
暇つぶしに動画でもと、スマホに指を滑らせて赤い四角に白い三角マークのアイコンをタップした。おすすめ欄に並ぶ動画は、怪談話をしているものや心霊スポットに突撃しているもので埋め尽くされている。
昔はテレビでこういうのをよく見ていたなと、先週から何となく見始めたことがきっかけだった。特別ホラーが好きというわけではないが、懐かしさと「適度な恐怖は脳の癒しになる」という、大昔テレビで聞いた脳科学者の言葉を信じて、今では休憩時間や食事中に視聴するのが習慣になっていた。
『オカルトライター・
この折立操という男は自身のチャンネルを持ってはいない。オカルトライターとして書くことが本業だからということを誰かの動画で話していた。しかし、この手の動画にはよく出演している。精悍な顔つきに似合わない、もっさりとした髪とファッション。話をまとめるのは上手く、声が落ち着いた低めのトーンで聞きやすい。南田の中では好きな語り部の一人だ。
動画が始まるとチャンネルの主である男がお決まりの挨拶をし、お馴染みという程度にゲストとして折立を紹介する。軽い雑談をした後、折立が「先日取材を終えた話で」と本題に入った。
『この前、田舎帰ってましてね。でもまあ、どこでもできる仕事なもんですから。取材できそうなネタないかなと思ってDM確認しとったんです。そしたら『俺のバイト先に青い男がいるから取材してほしい』って内容が目に留まりまして』
『青い男?』
『笑っちゃいますよね。そんなもんブルーマンかデスラー大佐しかおらんやろって』
『今の子、デスラー大佐わかりますかね?』
『気になったら調べりゃええんですよ。でね、話戻りますけど、こういうしょーもない話っていっぱいくるんですよ。その一つやと思ってスルーしようとした時、妹が言うたんです。それ、良くないよって』
『出た。妹さん』
チャンネルの主の男が待ってましたと言わんばかりのリアクションをする。
『折立の妹』は、折立が怪談を語る上でよく登場する。非常に強い霊感を持っているそうだ。折立は『妹の話』として彼女の経験した出来事を怪談として語ることが多い。その話でなくても、折立が取材を行っている際に助言や警告をしてくれる形で登場する。顔出しはしていないので、南田にとって『折立の妹』は架空の人物、漫画やアニメのキャラクターに近い存在だ。
『画面も内容も見てないのにいきなりそんなん言うから、ああいつものかと思って。事情聞いたんです。そしたら「DMかなんか見てんのやろ? 送り主の子、その子自身に関係ない悪意に巻き込まれてる」って言うんです』
折立の妹の発言が常人に理解できないのはいつものことだ。それはそれとして、つくづく迷惑な話だなと南田は思う。恨みの相手に「うらめしや」したり、心霊スポットを荒らして祟られたりは自業自得だが「関係のない悪意」が見えないものから向けられるとは。
しかし、そういうのは多々あるというのが『折立の妹』の主張であり、折立自身もそうだと考えているとのことだ。
『ほお~。それで?』
『妹の“感”がそう言うならそうなんやろと思って、連絡とって、現地まで取材しに行きました』
実際に行ったのか。青い男ってなんだ。どう青いんだ。内容は気になる。しかし、時計を見ればもうすぐ上司に電話が繋がる時間だった。
念のため駅員に状況だけ聞いておこう。南田は動画を一時停止し、重い腰を上げる。そして、扉を見て、体が硬直した。
待合室の扉の前に、人がいた。女だ。ぐっしょりと濡れて顔に張りついた長い髪。目は見えない。唇は不自然なほど釣り上がっていた。両手をガラスにべったりついて、時折首をかく、かくと左右に折る仕草をする。服はいかにもオフィスカジュアル。いたって普通だ。しかしそうでないのは、今の時期には相応しくないコートを着ていることだった。大量に水分を含んだコートからは、止めどなく水滴が流れ落ちている。
南田はこの時生まれて初めて『悪寒が走る』という体験をした。あれほど暑苦しく感じていたのに、熱も湿気もどこかに吹き飛んでしまうほど、空気が、体が冷えている感覚。そして、目元が見えないその女が「自分を見ている」と確信できてしまう恐ろしさ。
「お兄さん」
女と見つめ合ったまま固まっていた南田の体を動かしたのは若い女性の声だった。振り返ると、待合室にいた若い女性が背後に立っている。彼女は南田の表情を見た後、ドアの方に視線を向ける。
「見えてるんやね、それ」
女性が小さな声で南田に問いかけた。それ、というのが待合室の扉に張りつく女のことを言っているのは明白だ。南田が小さく首を縦に振ると、彼女は小さくため息をつく。
「大丈夫大丈夫。たまたまやからね、見えたのは」
女性が腕を大きく開く。そして、勢いよく手を打ち鳴らした。パァンッと大きく良い音が狭い室内に響き渡る。瞬間、部屋にあの暑苦しさが戻ってきた。あれほど不快に思っていたのに、今は心地が良さすら覚える。
扉に目をやれば、張りついていた女はいなくなっていた。
「どっか行ったから、怖がらんでええよ」
女性は静かにそう言うと、再び奥の席に腰かけた。
怖がらなくていいと言われも、今のは――あれはなんだったのか。色々聞きたいことがあって言葉にならない。立ち尽くしたまま、あーとか、そのーとかを繰り返す南田に、女性は小さく笑みを漏らす。
「ああいうのはね。自分が憑きやすそうな人に憑いてくの。ほっといたら諦めるかと思ったけど、お兄さんが出て行こうとしたからチャンスやと思ったんやろね」
「ああいうのってその、ユーレイ的な、そういうのです、か?」
「うん、そう。そうやと思ってる。私とお兄さんが同じ頭の病気でも持ってるんやったら話は別かもしれんけど。リアクションからして、見たのは初めてなんかなって思うし」
「はじめて、です」
テレビや動画で見聞きしてきた体験談なんてものは、どこか遠くのもの。それこそフィクションの世界に近いものだと楽しんできた。今の出来事を他人の怪談話として聞いていたら、そんなに怖いことかと少しがっかりしたかもしれない。そんなことでも、目の前で起こるとここまで恐ろしいのかと実感する。
そして、この女性がいなかったら自分は――。
「あの、本当にその、ありがとうございます」
「お礼言われるほどのことでもないよ。用事あったんちゃうの?」
女性の言葉にはっとして腕時計を確認する。上司に連絡がとれるようになる時間は過ぎ、あと五分で始業となることに気が付いた。
「あ、そ、そうです。そうなんです。すいません」
「あれはもう近くにおらんけど、不安やったら塩持ち歩くとええよ。天然のやつ」
「はい! ありがとうございます!」
アドバイスまでくれたその謎の女性に何度も頭を下げつつ、待合室を出る。女性はひらひらと手を振って南田を見送った。
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