月曜日

@ishigami0705

月曜日

7/8、雨が降っていた。開け放たれた窓からざあざあと雨音が響き渡る中、もうひとつ、カリカリと文字を書くような音が部屋に響いていた。

私の名前は石神千尋、今年で19歳を迎えた浪人生だ。看護師の母と工場勤務の父との間に第二子として生まれた。兄は現在東京に上京しており、平日の昼間なんかは特に独りでいることが多い。とはいえ、もう19歳にもなるし日々勉強の毎日だ。家に誰かがいようといまいと関係ない。寂しさを感じることなんてないし、今年の目標は受験に受かることなのだから勉強に集中してればいいのだ。

今日もまた10時に起き、寝ぼけ眼でリビングへ降りたあと軽い朝食を取り、歯磨き、洗顔を済まし、2階の自室へと戻り単語帳を開く。この1連の動作は最近めっきり染み付いた癖のようなものになってしまっている。朝10時に起きるのは少し遅いからここだけ直したいな、なんて思うけれどそんなことは無理だと過去の経験から分かっているので最近はすっかり諦めてしまっている。

小一時間かけ、今日の分の単語帳の暗記を済ませたら、スマホへと意識が向く。また悪い癖だ。単語帳の暗記が終わるとついスマホへと手が伸びてしまう。この癖は直さなければいけないが怠惰な性格が災いしてなかなか直せずにいる。この癖はまだ直せるというのに。

スマホをひとしきり触ったあと、ふと時計に目を向けて驚く。14時になっていたのだ。浪費した時間を取り戻そうと、慌てて数学の問題集を開く。

数学の問題集と格闘すること3時間半、不意にドアをノックする音が聞こえた。「千尋、行くよ」。母さんだ、と思うと同時に今日が月曜日であることを思い出す。浪人生というものは学校がないから曜日感覚が狂って困るな、なんて思いつつ部屋着から外着へ着替え、母親の車へと乗り込む。今日は週に一度の診察の日だ。

目的の場所へと着き、受付を済ませたあと、待合席に座り英文法の参考書を開く。ここのクリニックはよく待たされる。医者が1人の個人クリニックなので1.2時間待ちなんてザラだ。英文法の参考書がちょうど区切りのいい辺りに差し掛かった所で声がかかる。「石上千尋さん」。「はい」と返事をし、診察室へと向かう。

「調子はどうですか」毎週お決まりの台詞が飛んでくる。「まあ、安定してます」こちらも毎週お決まりの返答をする。夜は寝れてるか、食欲はあるか、などの質問をされ、それら全てに「はい」と答えたあと、「それじゃあ先生を呼んできますね」と言い、看護師は診察室から退席した。五分ほど経ち、先生が「こんばんは」といいながら診察室に入ってきた。先生の質問も毎度似たようなもので、調子はどうか、夜は眠れてるか、勉強の進捗はどうか、などを聞いてくる。私もまた毎度同じように、安定してます、眠れてます、ぼちぼち進んでます、とだけ返す。その後は軽い世間話をして診察は終わる。診察時間は5分ちょっとだ。正直待ち時間の割に合わなないな、なんて思うけどしょうがない。今の私にとってこのクリニックはある種生命線のようなものなのだから。

薬局へ行き、薬を受け取ったあと、車に戻る途中で母親から「なんか食べてく?」と聞かれる。これも毎週恒例のものだ。クリニック帰りに外食をして帰るのが私の密やかな楽しみなのだ。今日は某チェーン店でラーメンを食べた。ラーメンを食べるといつも学校帰りに友達とラーメンを食べに行ったことを思い出す。楽しかった思い出だ。もう1回あの頃に戻れたら、なんて毎回ラーメンを食べる度に思う。

食事を済まし、家路に着いた頃にはもう時計は22時半を回っていた。さっさと風呂に入って寝よう、と思い風呂の準備をしてると母親から声がかかる。「千尋、薬」。すっかり忘れていた。

そういえば先週から薬の量が増えたんだっけな、なんて思いながら夕食後の薬を飲む。

なんの薬かというと、向精神薬だ。




私、石神千尋は去年の8月から鬱病をわずらっている。きっかけは些細なものだった。今ではすっかり無くなったが小さい頃から絶えなかった父と母の喧嘩、その際の父親の怒ると物にあたって物を壊す癖、嫌なことがあるといつも私で憂さ晴らしをする兄、家に引きこもった兄の代わりにいい大学に行かなくちゃと自分で自分を追い詰めていた高校生活の勉強のストレス、この他にもいろいろあった。なんでもよかった。トドメとなったものはおそらく受験のストレスだ。鬱病と診察された時は正直ほっとした。その時にはもう勉強が嫌で勉強が手に着いていなかったから。怠惰じゃないんだ、鬱病のせいなんだって、大義名分を手に入れたようでどこか心地良さすら感じた。学校も今までほど行かなくて良くなった。だからいつも午後からの別室登校をしていた。自分だけ特別扱いされてるみたいでこれもまたどこか心地よかった。

勉強はストレスだったが、学校は楽しかった。友達とする中身なんてほとんどない馬鹿話、一緒にするゲーム、恋心を抱く人との挨拶、その人と放課後一緒にする勉強、どれも幸せだった。

7月から続いていた縮まりもせず、遠のきもしない恋心を抱く人との関係は11月になってやっと縮まった。一緒に帰っている帰り道の途中、告白をしたのだ。私からだった。内容はシンプルで、「好きです、付き合ってください」とだけ伝えた。答えはすぐにはもらえず、気が気ではなかった。彼女の乗る電車が来るまでの時間が非常に長く感じられた。家に帰り、夕食を食べているとLINEが来ていた。付き合ってもいいよ、という旨のLINEだった。その時のことは今でも鮮明に覚えている。心が非常に踊り、ガッツポーズを何回でもしたいほど幸福感に包まれていた。

だが、正式に付き合ったはいいものの大して今までと関係性が大幅に変わる、なんてことは無かった。高3の11月、受験も大詰めの時期だ。正直言って恋愛なんてしてる時期では無い。今思えばなんであんな時期に恋愛なんてしたんだろう。馬鹿だったな、なんて思う。

せいぜいすることと言えば図書館デートで一緒に勉強するのと寝落ち通話くらいだ。それでも楽しかった。あの人がいるだけで幸せだったのだ。


別れは急だった。

12月23日土曜日。12月の中旬辺りからとても重たい鬱が心を蝕んでいた。死のうと思った。処方されていた睡眠薬を貯め、過剰服用により死のうと思った。その旨が伝わるツイートを20時あたりにした。決行は23時の予定だった。21時頃、ベッドでスマホをいじっていると不意に家のインターホンが鳴った。出ると友達だった。ツイートを見かけた友達が心配して散歩でもしようと誘ってくれた。そんな元気はないと断ろうとしたが、何回も強く誘ってくる根気強さと最期に友達の顔が見れるならそれも悪くないな、という思いが混ざって一緒に散歩をした。友達との散歩は楽しかった。田舎なのもあって夜は人が全くおらず、まるでこの街が自分達の物のようだった。夜も更けてきたのでそろそろ帰ろうとなった時、不意にLINEが来た。彼女からだった。クリスマスの約束は無しにしよう、友達に戻りたい、といった旨のものだった。それまで薄れつつあった希死念慮が再び込み上げてきた。友達から慰めの言葉を貰いはしたが心に響くことはなく、ただやるせない辛さを抱えて家路に着いた。それからシャワーを浴び、自殺を決行した。薬は苦く、何包も飲むには辛かった。だが、そんな辛さなどどうでもいいのだ、死ねば楽になる、死ぬにはいい日だ、そう思って薬を飲み終えた。「おやすみ」とツイートをし、眠りについた。


目が、覚めた。もう悟っていた、失敗したんだな、と。過剰服用の副作用も何も無かった。きっとネットで間違った情報を信じてしまったのだろう。失敗を確信した後感じたのは少しの悔しさと、怒り。友達と彼女はどちらも私のTwitterと繋がっていた。私の自殺をほのめかすツイートを見て友達は心配し、寄り添ってくれたのに対し、彼女は逃げることを選んだんだな、と少しの怒りが込み上げてきた。今になって思えばあの時の俺は自分勝手でわがままでどうしようもないやつだった。いや、今もか。


私が自殺未遂をした、という報せは瞬く間に家族と精神科医に伝わった。そして、精神病院への入院が決まった。期間は3ヶ月らしい。

精神病院に入院すれば何か変わるかもな、鬱病の寛解だって夢じゃないかもしれない、なんて思っていた。違った。入院はただただ辛いものだった。精神病院というのは基本スマホが使えないらしい。なのでスマホのない生活を余儀なくされる。また、精神疾患を持っている人と共に生活をするので、幻聴が聞こえて1人で喚いてる人や、急に叫び出す人、些細なことで怒る人、など様々な人がおり、ストレスが半端ではなかった。精神病院に入院することで鬱病の回復を夢見ていたが、それは全くの泡沫の夢であり、むしろ鬱が悪化していくような気さえした。

共通テストや私立の2次試験は主治医の許可が降り、受けてもいいことになった。だが、私は受けることが出来なかった。共通テストはなんとか生物、化学、国語を受けることが出来たのだが、私立の2次試験が全く体が動かなかったのだ。正確には東京の試験場近くのホテルまで行くことは出来たのだが、行きたくないと、心が体にストッパーをかけたような感覚に陥り、試験場までたどり着くことが出来なかった。ホテルから出れなかったのである。共通テストの点数も現代文以外は惨憺たるものでとても共通テスト利用で行けるような大学はなく、必然的に浪人という形を取らざるを得なくなった。


精神病院からの退院日は3月だった。やっと退院できると、退院当日は浮き足立っていた。

退院してから、3月は友達と沢山遊んだ。4月から友達はほとんど東京へ出ていってしまうため、後悔のないよう沢山遊んだ。3月は本当に楽しかった。1つ3月の憂いをあげるなら、みんなと一緒に卒業式に出られなかったことくらいか。なんで出させて貰えなかったかは分かってる。自殺未遂をしたからだ。これは私の罪だ、仕方ない。


4月になり、心機一転浪人生活がスタートした予備校にも入り、MARCHと呼ばれる難関私立大学を目指すことにした。だが、浪人は思っていた以上に辛く険しいものだった。友達がもう近くに居ないという孤独感、周りの友達や同年代の子は皆大学生活を謳歌しているというのに1人だけまだ高校の勉強をしているというはみ出しもの感、いまだに残っている勉強へのストレス、精神病院に入院してから悪化した鬱、色々なものが積み重なり非常に辛い4月だった。クリニックで処方された頓服を飲んでやり過ごしながらなんとか4月を終えた。


5月に入った。心はもう限界を迎えていた。

ある日、母が焼肉に行こうと誘ってくれた。美味しかったんだと思う。だけど、ただひとつ言えるのは、味がしなかった。


5/7、何かが折れた音がした。なんなのかはわからない。たぶん大事なものだ。気づけばドラッグストアに向かっていた。メジコンを買った。ワンシート飲んだ。気持ちよかった。多幸感に包まれて、これが幸せだと知った。まだふわふわ感が残る中、夕食を食べようとリビングへと降りた。まだ19時だというのにリビングの電気は消えており、母親は半分寝ていた。夕食はコンビニの弁当だった。また、なにか折れた。今度は前よりもハッキリと聞こえた。


5/8、死ぬことを決めた。どうやらアセトアミノフェンというものを2500mg摂取すれば死ねるらしい。それを知った私はパブロンゴールドαの210錠入りを2瓶買った。全部飲もうと思った。昼の11時。自殺を始めた。金パブはとても不味くてodには全く向いて無い薬だった。最初は水で流し込んでいたがあまりのまずさに耐えかねて近所のコンビニにジュースを買いに行った。それからはジュースで410t流し込んだ。また、幸せが何かを知れた。昨日とは少し違うが根っこは同じ幸せ。多幸感に包まれて幸せだった。

このまま1人で死ぬのは寂しいから友達を呼んだ。死ぬ旨のツイートもした。discordで「誰か来て、お願い」とだけ打ってボイチャに入った。するとみんな来てくれた。嬉しかった。死ぬ時独りじゃない気がして、安心した。だけど友達は簡単には死なせてくれないみたいだった。救急車を呼ばれた。そのまま病院へ運ばれ吐くだけ吐き、ICU、HCU、ECU、救急科へ行った。薬がだいぶ抜けてきた後、自分が空っぽのような存在に感じられた。幸せがなにか、分からなくなっていた。救急科を去ると、精神科への入院となった。また地獄の日々が始まるのかと少し後悔していたがもう半分諦めてもいた。

だが予想に反して、そこの精神科はとてといいところだった。いや、前の病院が悪すぎたのかもしれない。特にスマホが使えるのが大きかった。それに急に騒ぐ人も少なく、比較的落ち着いた患者さんが多かった。

看護師さんもとても優しく主治医もほぼ毎日私の状態を見に来てくれて心強かった。1ヶ月程の入院ではあったがだいぶ療養できた。鬱はもうだいぶ落ち着いていた。


6/6、退院した。退院してから迷っていることがある。このままMARCHを目指すか、看護師になるか、だ。今までいろんな人に迷惑を掛けた、心配させた、救ってもらった。ならば今度は自分が救える側にまわるべきなんじゃって思った。傲慢かもしれないけど、そう思ってしまった。2週間ほど考え、決めた、看護師になろうと。


7/8

時刻は22時半、さっきメンクリから帰ってきたばっかりだ。早く風呂に帰って寝ないと。増えた薬のことを思い出すと同時にここ1年のことまで思い出してしまった。さっさと風呂に入って眠剤飲んで寝よう。

将来看護師になって生きてていって自分で思える日がくるといいな、と思いつつ私はお風呂へ向かった。

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