おそらくは非凡な僕らの日常

棒王 円

怪聞探偵事務所




田舎のJRの駅で、階段に座って楠瀬は困っていた。

別に今日初めてその事に困った訳ではないが、日に日に困難が増している気がした。それは決して気のせいではなく、じわじわと楠瀬を追い詰めていた。


勤め先が大きな損失を被り、そのあおりを食って退社させられたのだ。

誰が悪いわけでは無い。

けれど少ない給料でカツカツの生活をしていた楠瀬には絶望的に悪い話だった。


もちろん貯金などなくて、アパート代も払えず、光熱費も無理だったので、思い切ってホームレス生活になってみた。

最初はしばらくしたら仕事が見つかるだろうと思っていたが、楠瀬は住所が無いと就職は難しいと、知らなかった。

いや、正確には知っていたが、ネットの伝説ぐらいに思っていたのだ。


自分は大丈夫。何処かでそう思っていた。


階段の端でパタリと横になった。

三日食べないと結構くるなあ。

ぼんやりと、階段を上り下りしていく足元を見ながら、楠瀬は小さく溜め息を吐いた。何時までもこんな体勢でいたら、誰かに怒られるかもとは思ったが、横になってみたら案外起き上がる気にならなかった。

つまり、絶望していると気付いてしまったのだ。


ああ、どうしよう。

俺、餓死するのかなあ。


そう思った楠瀬の横で誰かが立ち止まった。

スニーカーの足元が、そこから動かない。この靴では駅員さんではないだろうが、誰だろう?

足元から見上げると、大きな眼鏡を掛けた少年が自分を見降ろしていた。

あれ?どこかで見たような?

「…楠瀬?」

苗字を呼ばれて身体を起す。

覚えがないわけではないが誰だか分からない。


「誰だっけ?」

楠瀬の返事に、眼鏡の少年は溜め息を吐いた。

「高校二年の時の同級だけど、覚えてないか?」


え?同級?

見上げながら楠瀬は、あまり思い出のない高校時代を思い出してみる。教室の真ん中に威張っている奴らがいて、その周りの取り巻きがいて。

自分は窓際の席で、取り巻きのだれかと話していて。


廊下側の端の席に、誰とも話さない何時も本を読んでいた、眼鏡の。

「紫紺?」

「思い出したか?楠瀬は何でこんなところで寝ているんだ?」

カーストではないけれど、誰にもいじられない不思議な静かな同級。


「俺、は」

そう言った楠瀬のお腹が、ぐるると鳴った。

紫紺が楠瀬の腹を見る。楠瀬は恥ずかしくてお腹に手を当てた。


「…奢るから来いよ。その音は聞き捨てならん」

「え、いや?」

楠瀬の腕を掴んで立たせると、紫紺がそのまま歩き出した。


「ちょっと?」

「恥ずかしいとかは後で聞くから、とにかく生きる事を考えろ」

「なんだよ、それ?」

やっぱり俺死ぬのか?


落ち着いた喫茶店に連れて来られた楠瀬は、紫紺に嫌だといえずに目いっぱい奢ってもらった。嫌だと言ったのは最初だけで、注文した料理が並んだら、空腹に勝てなかったのだ。そもそもそこまでのプライドもなかった。


満腹になった楠瀬は、眼の前でスマホをいじっている紫紺をしみじみと見る。食べている間はそんな余裕はなかったのだ。


高校の時からほとんど変わらない姿は、少年のように小柄だ。

自分と同い年なのだから、もう26歳のはずだが。


アイスコーヒーを手に取った紫紺は楠瀬の視線に気付き、見返してきた。

「お腹痛くないか?」

「え、うん。大丈夫そうだよ」

「そうか」

肯いてアイスコーヒーを飲み干した紫紺は、立ち上がって伝票を持つと楠瀬を手招きした。呼ばれた楠瀬は一飯の恩があるために、後を付いて行く。

横に並んで歩くと、紫紺は楠瀬よりも15センチ以上身長が低かった。子供と勘違いしてもおかしくはない。


暫く歩くと、紫紺が古いビルに入っていく。

築年数が気になるが、エレベーターは動いているし傾いてもいない。エレベーターの5階のボタンを押して紫紺が乗るので楠瀬はくっついて一緒に乗った。

説明はされていないが、何処までついて来いとの指示もなかったので、良いと言われるまでついて行くつもりだった。


降りた通路の奥に、〈怪聞探偵事務所〉と看板がかかっているドアがあり、紫紺がカギを差し込んだ。ノブを回して楠瀬を招き入れる。


「探偵?」

上着をコートフックに掛けた紫紺が、ソファに座る。

「そうだ。俺は探偵をやっている。此処は俺の事務所だ」

「へえ…」

部屋の中を見回して、楠瀬もソファに座った。


煙草を咥えた紫紺を見てぎょっとなるが、紫紺に睨まれて同い年だと思いだす。

「同い年にそんな眼で見られるのは遺憾だ」

「あ、うん。ごめん」

背中の方を親指で指し示してから、紫紺が言った。

「何か飲むなら自分で入れてくれ。それから、行く所が無いなら暫くここに居ればいい」

「え?」

なんで?

楠瀬の心の声が聞こえたかのように、紫紺が眉根を寄せる。


「飯を食わせただけで、終わりにするなら手は出さない」

ポカンとした顔で楠瀬が紫紺を見る。

今日まで思い出しもしなかった同級生が、助けてくれるとは思わなかった。


「何で分かったの?」

「…風呂にも入ってないんだろう?洗濯機も脱衣所に有るから、風呂に入って来い。…結構臭うぞお前」

さすがに顔が真っ赤になった自覚がある楠瀬は、慌てて指さされたドアを開けて中に入った。それから自分の匂いを嗅ぐ。言われてみればお風呂なんて1週間ぐらい入っていない。気にしてみれば臭うのが分かった。


言われた通り、お風呂に入ってすっきりした楠瀬は何時の間にか置いてあったTシャツとジーンズを着て、外に出る。

すっきりとした顔になった楠瀬を見て、紫紺は小さく笑った。


冷蔵庫を開けると、紅茶のペットが入っていたので貰って飲んだ。

生きている感じがして、楠瀬はほっと溜め息を吐いた。

追い込まれていたのを、今になって自覚する。

本を読んでいる紫紺の前のソファに座り、手持無沙汰な楠瀬に紫紺がタブレットを渡した。


「暇だろう?それならいくら使ってくれてもいいから」

「あ、ありがとう」

うんと肯いて紫紺はまた、本を読みだす。

ちらと見ると、紫紺が読んでいるのはどこかの郷土史の様だった。

タブレットを見ようと電源を入れた時に、入り口が爆音で開いた。


「主様!買ってきまし、た?」

いきなり入ってきた人物が楠瀬を見て、疑問符で言葉を終える。

ドアをバーンと開けられた楠瀬は、驚いて腰が浮いたが、紫紺は何時もの事のように入って来た人物を見た。

「お前は何度言ったら分かるんだ。静かに入って来い」

「は、はい。あの、そちらのお方は?」

エコバッグを2個台所のテーブルの上に置きながら、紫紺に質問をする人物は話しながらも素早く買ってきた物を、冷蔵庫や棚に入れていく。

手際の良さに楠瀬が驚いていると、紫紺がまた煙草を咥えた。


「あ!また機械点けないで吸わないでください!」

ささっと寄って空気洗浄機のスイッチを入れる。


楠瀬が近くに来た人物に頭を下げる。彼は頷いてから紫紺を見た。

「主様?」

「しばらくここに同居する。楠瀬だ」

「楠瀬さん、ですか」

不満なのだろうか?楠瀬は心配になったが。

満面の笑みで見られた。


「よろしくお願いしますね。自分は弥五郎といいます。ここで家政婦みたいなことをやっています」

その言葉に紫紺が軽く溜め息を吐いたが、弥五郎は気にしなかった。


「俺も何かした方が良いかな?」

「…何かしてほしくて連れて来た訳じゃないが?」

紫紺が眉根を寄せて、楠瀬を見る。

「探偵って、何か手伝えないかな?」

楠瀬の言葉に、紫紺が首を振る。

「手伝わなくていい。それよりも楠瀬は体力回復に努めた方が良い」

「そんなに弱ってないと思うけど」

「…そうは見えない」


会話の途中でまたドアが開いた。

今度は静かに開いて、静かに閉まった。

「主殿、お客様が」

その人物も楠瀬を見て動きが止まる。

「お通ししてもよろしいですか?」

紫紺は楠瀬を見て口元に一本指を立てた。


「依頼人が来るが、話に口を挟まないでくれ。できれば弥五郎と一緒に台所にいてくれると助かる」

「うん分かった」

素直に楠瀬が肯くと、弥五郎が手を掴んで楠瀬を移動させる。

台所と言ってもカウンターで分かれているだけで素通しの場所だった。弥五郎がお茶の用意をしている。楠瀬は知らない仕事を見られると、少しワクワクしていた。

浮気とか調べるのかなあ。


台所のカウンターにある椅子に座って、ソファの方を見る。

一旦部屋を出た人物が、誰かを連れてきた。

それは多分依頼人だろうけれど。


楠瀬が見ても顔色の悪い、具合が悪そうな人物だった。

「こんにちは。あの、電話をした元井といいます」

ゆっくりとソファに座った人物が、紫紺を見ながら首を傾げる。

「紫紺先生というのは」

「俺が紫紺だ。話を聞かせてもらってもいいか?」


依頼人を連れてきた人物が、弥五郎の所に来る。

「はい、玻璃が持ってく?」

「弥五郎は、その方の傍に」

「了解」

楠瀬をチラッと見た人物が、お盆を持っていく。

座っている楠瀬を弥五郎が笑って見る。何も言わないように言われている楠瀬は無言で頷いた。

あんな顔色になる浮気って、よほどでは?

そんな事を思っていた楠瀬は、次の言葉で完全に自分の思い違いを知る。


「助けて下さい。もう我が家は駄目なのです」

依頼人が泣きそうな声で、そう言った。

置かれたお茶に手を付けずに、元井は震える手で、自分の顔を触っている。


「…詳しい話をしてくれ。始まりとかきっかけとかは分かるか?」

「妻の誕生日におかしな事が起こったのです」

震え声で元井が話す。

「娘と一緒に妻を祝っている最中でした。突き上げるように家が揺れたのです。地震かと思いましたが、テレビには何も速報がなくて」

「テレビを見ていたのか?」

「はい。妻の好きなアイドルが出ていたので」


頷いて紫紺が促す。

「何度も揺れて、そのうち家の床だけが叩かれているような振動だと気付いて」

「何で気づいた?」

「私達のいる場所の下から、叩いているような音だったので、3人で外に逃げました。そうしたら外は揺れて無くて。怖くて3人で震えていましたが、夜でしたし戻ろうと確認のために私だけ家に入りました」


「そうしたら、また足元から振動がしたので外へ出ました。私が駄目だというと、妻が入りました。それから娘も入りました。二人とも出て来ないので、大丈夫なのかと思い私ももう一度家に入りました」

元井は大きく息を吸った。

「そうしたら、何処にも、妻も娘もいないのです」

真っ青な顔の元井は目をぎょろぎょろとさせて紫紺を見る。


「家中探しました。もう一度外に出て探しました。次の日に警察に行って捜索願を出しました。それでも見つかりません」

「家が駄目だというのは?」

「妻も娘もいないのに、声だけはするのです。話しかけてくるのです。私が家にいる間はずっと、ずっと」

「振動は、もうしないのか?」

元井は紫紺を見る。


「はい。あのひと夜だけでした」

「そうか。今は何処に住んでいる?」

「ホテルにいます」

「ホテルでは聞こえないのか?」

「はい。私の家でだけ聞こえます」

段々と声が小さくなり、元井は話し終えたのか、ぬるいお茶を啜る。


「ううん。俺の専門ではない気がするが」

「お願いします。妻と娘は生きていると思うんです」

「…望んだ結果ではないかもしれないが」

「二人は生きていると思うんです」

紫紺は元井を見る。その眼を見て真意を測るように、奥まで覗くように。


「一応調べてみよう」

「有難うございます」

小さく元井が言うと、傍に立っていた玻璃が書類を元井に渡す。

依頼金額を見ても元井は何も言わずに、サインをした。

それから小さく頭を下げて事務所を出て行った。


「どうされますか?」

「玻璃はどう思った?」

「私は、本人も嘘かどうか悩んでいるように見えましたが」

「…そうだよな。真意が分からない」


台所から弥五郎が声をあげる。

「主様、もう声を上げてもいいかな?」

弥五郎を見た紫紺は、その場所で困った顔をしている楠瀬と目があった。


「怪聞って、そっち系の事なんだ?」

「そっち系と言われると、何だと思うが」

紫紺が苦笑する。

「怪異専門の探偵だ」

「はっきり言われるとビックリするよ」

「まあ、そうだろうな」

紫紺が煙草を咥える。


「じゃあ、紫紺は幽霊とか見えるの?」

「そういう疑問か」

紫紺が困ったように笑うと、弥五郎がアイスコーヒーを紫紺の前に置いた。楠瀬は紫紺の前のソファに移動する。


「見えるの?」

「…そうだな、見えるし聞こえるし触れる」

「え?触れるんだ?」

「気持ちのいい物ではないが」

キラキラとした目の楠瀬に、紫紺は困り顔のまま答える。


「やっぱり手伝いたい」

「…なにを、手伝うんだ?」

「だから探偵を」

「違う。楠瀬は何が出来るんだ?」

興味本位で見たいから連れて行ってくれと思っていた楠瀬は、はっきりと言われてハッとする。紫紺は今、お前は役に立つのかと聞いたのだ。


楠瀬は自分に置き換えてみる。

見えない聞こえない触れない。おや?役に立つ部分が無いぞ?


「役には立たないなあ」

楠瀬のぼやきに、紫紺は気にせずアイスコーヒーを口に含んだ。

「でも見たいから連れてってくれないかなあ」

ごっくんと口に含んだコーヒーをいっぺんに嚥下した紫紺は、のどの痛みに咳き込んだ。


げほげほと咳き込む紫紺を、珍しそうに玻璃と弥五郎が見ている。

「楠瀬は、自分が何を言っているか、分かっているか?」

「うん。役に立たないけど、見たいから連れて行って欲しいと我が儘を言っている」

はっきりと言えばいいわけでは無い。


「足手まといになるから嫌だ」

「ええ?俺、運動神経は良いよ?」

「…この業界の知識もないのに、現場に行かせられない」

「見たいんだよ、連れてってよ」

紫紺が煙草を咥えて楠瀬を細い目で見る。


「何で見たい?」

「え?だって幽霊とか見た事ないし面白そうじゃん?SNSでバズるかもしれないし?」

「守秘義務があるから、ネットに晒すことは出来ない」

「ええ?そんなの黙ってれば大丈夫だよ」

煙を吐きながら、紫紺は楠瀬を睨む。


「本気で言っているのか?」

「うん」

「…分かった」

玻璃と弥五郎が、紫紺を見る。


「此処に泊まれと言ったが、お前にはアパートに住んでもらう。近くのアパートだが俺の名義だからお前が手続きをする必要はない」

「手伝わせてくれないのかよ?」

「真面目に就職を考えるなら、住所があった方が良い」

膨れた頬の楠瀬を見て、紫紺が立ち上がる。


「ついて来い」

楠瀬は、その言葉に不満だったが、よく考えてみれば紫紺の仕事に、そこまで執着する必要性も無いなと、後を付いて行く。


小さな紫紺の後を付いて行きながら、楠瀬は今日の自分は幸運だったなあと思っていた。もと同級が助けてくれるなんて。

やっぱり俺って人に好かれるのかなあ。


案内されたアパートはそこそこ綺麗なもので、一階の角部屋の前で鍵を渡された。

「この部屋を自由に使っていいから。あと、これは後で働いたら返せよ」

そう言って紫紺は鍵と、お金が入った封筒を楠瀬に渡した。

さすがに楠瀬の眉が下がる。

「うん。ありがとう。必ず返すね」

「ああ、じゃあ。がんばれよ」


手を振って紫紺が立ち去るのを見送った後、楠瀬は部屋に入る。

1Kの普通の部屋は、冷蔵庫やテレビは有るが、ベッドとかは無い簡素な部屋だった。クローゼットの前に、畳んだ布団が置いてある。

最低限生きていく物は揃っていて、楠瀬は部屋の真ん中に座って溜め息を吐いた。

とりあえず、生きてはいけそうだ。



事務所に帰って来た紫紺に弥五郎がアイスコーヒーを出す。

「あの人、大丈夫かなあ?」

「さあ?見たいんだから見ればいいんじゃないか?」

「この事務所の気配に感化されただけだと思うのですが」

玻璃の言葉に紫紺が片眉を上げる。


「分からなければ、ついて来そうだった」

「まあ、そうでしたが」

困った顔で答える玻璃に弥五郎がけらけらと笑う。

「ここに一般人が泊まれると思ってなかったから、当然の結果だと思う」

それには紫紺が反論した。

「何も憑いてなかったし、異常もなかったから連れて来たのだがな」

「主様は、無垢と空虚の違いが分かりづらいのかなあ」

弥五郎の言い方に、紫紺がムッとする。


自分は甘い紅茶を飲みながら、弥五郎がまだ笑っている。

「あれは空虚だよ。無垢ならここでも居られるけど、空虚は駄目だよ。すぐに中に入られちゃう」

「…俺はお前たちみたいに、人間の中身が見える訳じゃないんだ」

「人間の主殿に、心が見えるのなら困りますね。我々の役目が無くなります」

紫紺が、はあっと大きな溜め息をついたが、そこにいる二人は肩も竦めずにただ紫紺を見ていた。


「さて、仕事に行くか」

紫紺が立ち上がると、玻璃が肯いた。

「あの話ですと、我々よりも異世界協会の方の案件だと思うのですが」

「俺もそう思う。次元の断層ぽいしな」

上着を着ながら紫紺が言うと、玻璃も頷いた。


「現場には有記を呼ぶ」

「六条さんですか?」

紫紺の言葉に、玻璃が首を傾げる。

「確か忙しいという話でしたが?」

「呼べばくるだろ」

紫紺がスマホ片手に事務所を出る。通話履歴から“六条”を選んで通話を押すと、1回で出た。


『どうした?』

「これから現場に行くんだが、そっちの関係だと思う」

前置きもなく始まる通話に、隣の玻璃の方が溜め息を吐く。

『場所を送れ。なるべく早く行くから』

「頼む」

それだけで切ってしまう主に玻璃は何とも言えない視線を投げた。


「…何だ?」

「もう少し、何か言い方というものが」

「いつもこうだが?」

「はい、分かっておりますが」

歩きながら、紫紺は玻璃が言いたい事を考えてみるが、さてと首を傾げた。


「あれ以上、何を言えと?」

「いえ、何もございません」

玻璃は説明を諦める。風情などという言葉は自分の主には程遠い物だった。

昔は歌などを送っていたものですが、今は違うのでしょうね。

近くの駐車場に行って、運転席に座った紫紺が助手席の玻璃を見る。


「何時も通り頼む」

「はい。分かっております」

玻璃がそう言って頷くと、肯き返して紫紺がサイドブレーキをはずした。


やがて車は、メモに書かれていた住所に着く。

家の横に車を止めて降りた紫紺に声が掛かった。

「那由他」

「有記。さすが早いな」

「お前が急ぐようだったから、転移を使った」

困った顔になったのは玻璃だけで、紫紺は普通に頷いた。

「ありがとうな。この家が依頼人の家なんだが」

それだけで済ませてしまう主に、玻璃は片手で顔を覆う。


パーカー姿の紫紺に対して、六条はスーツの上にショートコートを羽織った姿で横に立つ。身長も六条の方が遥かに高いので、ちぐはぐな印象だ。

六条が紫紺を見降ろす。

「雰囲気は普通だな?」

「うん、そうだな。…俺の方の話には思えなかったんだが、この気配だと有記の案件とも違うか?」

首を傾げた紫紺に六条は、同じように首を傾げる。


「話をした依頼人が嘘を言っていたとか?」

「ああ、それもあるか。無駄足だったらごめんな?」

紫紺がそう言うと六条は笑って頷いた。

「貸しにしておこう」

「…分かった」

そう言いながら、小さな門から敷地に入る。


澱んだ空気が、三人を取り巻く。

「玻璃、頼む」

「はい、主殿」

玻璃の姿が消えて、紫紺の片目が色づいた。


「何か見えるか?」

六条の問いかけに、紫紺が小さく頷く。

「嫌な影が見えるが、家の中を歩いている様には」

突如、地面が揺れた。

二人の足元が激しく打ち上げるように地面の中から叩かれている。


「これは証言の中にあったが、終わったって言ってたはずだ」

「次元の関係ではないが、何か引っかかるな」

紫紺の言葉の後に、六条が所見を言う。言われた紫紺は地面を触って地中を探るが、いっそう激しく蠢く地面に、舌打ちをする。


「こんな事が出来る怪異なんていたか?」

呟く紫紺を見ながら、六条はじっと揺れに耐えている。

「最近の都市伝説ではなさそうだな」

「土地神の類いなら有り得るが、この場所にそんなものが」

紫紺の言葉に反応したように、地面の揺れが止まる。


「うん?どういう事だ?」

「…あれのせいじゃないか?」

六条が家の玄関を指さす。紫紺が見ると、玄関のドアが開いて何かがこちらを覗き見ている。それは生きている人にも見えた。


「…出て来れますか?」

紫紺の言葉に覗いている人は首を横に振る。

「では、俺が家の中に入っても良いですか?」

頷かれた。


「じゃあ、入ります」

ドアに近付くと、人影は後ろに引いて、こちらを見ている。

中に入ると声が聞こえた。


〈私の声が聞こえますか?〉

「はい、聞こえます。元井さんの奥さんですか?」

〈どうしてご存じなのですか?〉

「ご主人から、ここの現象の解決を頼まれました」

〈あの人は、なんて言っていましたか?〉

会話が続いている間も人影は佇んだままじっとしている。

紫紺を見たまま、口も動いていない。


「奥さんと娘さんは生きていると」

〈そうですか〉

元井さんの奥さんの声は、小さく呟くようだった。

女性の人影は、まだ紫紺を見ている。


紫紺は女性の人影を見ながら、話しを続ける。

「元井さんは二人に戻ってきてほしいと思っていると、こちらでは考えているのですが、奥さんは違うと思っているのですか?」

〈戻ってきてほしいではなく、生きているか確かめたいと思っているのでしょう〉

「確かめる?」

玄関から紫紺が家の中に入ると、女性の人影は後ろに下がった。

まるで生きているようなその人物は、話している紫紺を見たまま何も言わない。


リビングに入っても、何も言わないまま見つめてくる。


〈私の誕生日に、私は殺されたのです〉

「それ、は」

対峙している女性が、はじめて紫紺から視線を外した。

紫紺の後ろを見ている。


紫紺が振り返ると、依頼主である元井が立っていた。

その視線は紫紺を通り過ぎていた。

生きている元井が、後ろの女性を見ている?

実体か?


振り返ろうと思った紫紺の横を、女性が何かを叫びながら元井の方へ走っていった。掴もうと思ったが、紫紺の手は届かずに女性は元井にぶつかった。

「ぐわあああ!?」

元井が叫んで女性を手で離そうとする。

「結衣!?離れなさい!」

血を吐きながら元井が叫ぶ。


「お前がお母さんを殺したんだ!!」

絶叫しながら、女性はまだ元井の腹に包丁を刺したまま押し込んでいた。

紫紺が後ろから女性を抱え込む。


「君まで殺人者になっては駄目だ!お母さんが悲しむ!」

紫紺が怒鳴ると、女性は包丁を握っていた手を離した。そのまま抱えた紫紺に引きずられて元井から離れる。


腹を刺された元井は動く力も無いのか、女性を見ながら足を少し動かしただけだった。

「結衣、生きて、いたのか?」

血をこぼしながら、元井が女性、娘の結衣に話しかける。


「お母さんが、助けてくれたのよ。お前が私とお母さんを埋めた後に、お母さんの両手が駄目になっても、手首から骨が出ても土を掘ってくれたっ」

紫紺は結衣の身体をまだ抱えている。

その熱が結衣を踏みとどまらせていた。


ハハッと元井が笑う。

「土の中で苦しめと思って、まだ息があるうちに埋めたのが、仇になったな」

元井の言葉に、結衣の身体が動く。

紫紺が強く抱きしめて、結衣を止める。


「なんで、お母さんと私を殺したのよ!!」

叫ぶ結衣の声に、元井は少し笑って気を失った。失血だろう。

「答えなさいよ!!」

地団駄を踏むように結衣が足をじたばたと動かした。


〈私の浮気が許せなかったのよね、その人〉

紫紺の頭上辺りから、声が聞こえた。

見上げても見えないが、紫紺も結衣も声のする上を見上げた。

〈結婚してから、嫌いになっちゃったのよねえ。だからその時に好きになった人と浮気したのよ〉


ああ、これは嫌な話を聞きそうだ。

紫紺が覚悟をすると、元井の妻の溜め息が頭上からする。

〈それで生まれたのが結衣だったから〉

ぴたっと結衣の動きが止まった。

「え?」

〈それをこの人が感づいちゃってね。憎かったのでしょうね。自分は浮気なんて出来ないほど忙しくて、そうやって稼いだお金を私や結衣に使われて。嫌だったんでしょうねえ〉

「おかあ、さん?」

結衣の声に力はなく、身体が少し震えている。


〈殺された時は、本当に頭に来たわ。こんな冴えない男に我慢していた私を殺すなんて、思い上がりもいいとこだわ〉

「は、あ?」

〈こうなってから話したことを信じてくれた結衣には感謝するわ。殺してくれてありがとうね?血は繋がっていないから気にしなくていいわよ?〉

「い、や、」


紫紺は玄関を見る。

入って来ていないが、六条が開いた玄関から中を見ている。

スマホを紫紺に見せたので、頷いて見せた。


〈ああ、すっきりしたわ。それじゃ私は天国に行くわね?結衣は頑張って生きてね?空の上から応援しているわ〉

気配が薄くなっていく。

紫紺の片目から、言葉が漏れた。


「私がお前を極楽に行かせるとでも」

結衣が紫紺を見る。

「誰か、いるの?」

その眼は焦点が合っていないが、まだ話が出来る。


「もうすぐ救急車が来る。お父さんを急いで乗せてやろう」

抱き締めていた手を緩めて、紫紺が立ち上がり結衣の手を握る。

結衣は紫紺を見た後に自分の父親を見た。

「おとうさん」

わななく口から言葉が零れる。


六条が玄関から退いた。

救急隊が担架を持って入って来る。

「ご家族の方はいますか!?」

「この子が娘さんです。一緒に乗せてあげてください」

「では、一緒に」

救急隊員の言葉に、結衣が紫紺を見た。頷く紫紺の手を握る。

少し息を吐いてから、紫紺は手を握り返した。

結衣と一緒に救急車に乗る。

乗る時に六条を見れば、頷いてくれたのでそのまま乗車した。


救急病院についてから、紫紺は知り合いに電話をする。

結衣は呆然としてあまり話さない。

今回の相手は、出るまで3回かかった。


「あ、悪い。会議中とか?」

『大丈夫だ、書類を書いていただけだから。なんだよ、那由他。面倒事か?』

「それ以外で電話した事がない」

『電話してきた本人がそう言うの、良くないと思うぞ?何用だよ?』

紫紺が詳しく現状を話す。電話の向こうで男が溜め息を吐いた。


『それは。最近では一番面倒だな?』

「俺もそう思う。手続きとか頼んでいいか?」

『お前は関与していなくて、ただの事件として扱えという事だな?』

「そうだ」

『…いいだろう。その代り、お前にやって欲しい話がある』

「分かったよ、松崎警部」

電話の向こうで笑ってから、松崎が電話を切った。

紫紺は切れたスマホをしまって、結衣を見る。

怖い記憶は忘れてしまえば良いと思うが、それは専門外だ。


誰もが救われる話など、紫紺には縁がなかった。


病院を出ると、紫紺の車の運転席で、六条が手を振った。

「ありがとう。…有記、あの地震は」

「ああ。乗れよ、走りながら話そう」

「それ、俺の車なんだけど」

そう言いながらも、紫紺は助手席に乗り込む。

走り出した車の中で、六条は答え合わせのように話し始める。


「結局半分はあたりだったという事だ」

「半分だけ、次元関係だったか?」

「…怨念に引かれたと言うべきかな。那由他は土地神の関与だと思うのか?」

口を閉じて紫紺が考える。

明白な答えは持っていない。あくまで土地に立った時の感想に過ぎないのだが。


「土地神じゃないと思う。俺も怨念だと思うな。それもあの土地に由来していると思う」

「あの土地に?それでも土地神じゃないのか?」

六条の疑問に紫紺が答える。


「普通に埋められた誰かだと」

「…そういうことか」

ハンドルを握っている六条が、大きな溜め息を吐く。

「歪みはあったが次元の狭間という感じでは無くて、誰かの意思が創り出した空間と言うか領域と言うか、そんな感じだったから」

「後で千里が行くから、何か出たら教えてくれると思うぞ」

六条がハンドルをぎゅっと握った。


「松崎に連絡したのか」

「警察に連絡しないとか考えるの、こっちの世界に戻れてないぞ有記?」

「どうして松崎なんだ、那由他」

「え?便利だから」

はっきりと言い切るすがすがしさに、六条の気が抜ける。


「そう、か」

「それ以外で連絡する事がない。本人にも言った」

紫紺の片目からため息が漏れた。

「…玻璃。もう戻っていいから」

スッと後ろの座席に玻璃が現れる。座ってもまた溜め息が出る玻璃を、紫紺が振り返る。


「言いたい事でもあるのか、玻璃」

「言いたい事など、万波のごとくございます。主殿」

面倒だと思った紫紺が速やかに、前を向く。


丁度駐車場に着いた車が、ゆっくりとバックで入っていく。

弥五郎が何か作っているだろうと、事務所に帰る紫紺に別れを告げて六条は帰った。見送った後に紫紺が玻璃を見上げる。


「…あの影は、正体が分かったか?」

「いえ。主殿の視た影は、正体が探れませんでした」

「そうか。有記に言っても仕方なかったしな」

「あれはさすがに我々の領域のものだと思われます」

「うん、そうだよな」

車が走っている最中の事だ。

まだ紫紺の目に入ったままの玻璃が見つけた影は、通りすがりにしても見逃せないほど邪悪だった。


「まあ、家に帰ってから考えるか」

「そうですね」

そう言って主従は、さびれたビルの5階に帰って行った。





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