第2話 誰にも祝われなかった式

 静かな時間。山肌に整然と並べられた御影石。少し暖かい風が優しく死者を包んでいる。ある親子がゆっくりと丁寧に一つの墓石を磨き上げているのが見える。ゆっくりと墓石を磨く女児。母親はそれを見守りながら花立に花を立てている。二人はおよそ死者を弔っているとは思えないほど笑顔で談笑している。

「帰りにね、ハンバーガー食べようよ。」

 女児が弾んだ声で母親に叫ぶ。

「いいよ。でも今はおじいちゃんをキレイキレイしてね。」

「わかった。じいちゃん、キレイキレイする」

 女児はそう叫ぶと、少し熱を持った目で墓石を磨き出した。

 静かな時間が流れていた。

 女児はひとしきり磨き終えると、雑巾をバケツに投げ出して墓を見つめた。母親はゆっくりと香炉に線香を立てて火をつける。すっと息を整えて墓を見据えると静かに手を合わせた。ゆっくりと手を離して母親が墓石を見つめる。

「おじいちゃん、喜んでるよ。」

「うん」

 女児は手をばたばたと動かしながら快活に応えた。

 親子はバケツとブラシを持って洗い場に向かう。無感動に並ぶ墓石の間を縫って歩く二人をまた風が撫でていく。ジャッジャッと砂利が小気味良い音を立てる。足早にかける子を母親が優しく制しながら歩みを進める。

「じいちゃんがいっぱいいるよ!」

 子供が並び立つ墓石の数々を指さして言った。

「そうね。」

 母親が微笑した。

 ふと、子供が指を指して立ち止まる。

「ママ、じいちゃんが壊れてる。」

 母親が微笑を浮かべたま子供の指差す先に目をやった。

 何かで打ち砕かれた墓石の残骸。もはや長方形だった墓石は後ろに倒れて砕け、死者の寝床を無惨に晒していた。そして異様なのは赤黒く固まった染みが敷き詰められた砂利を汚していたことであった。

 

 

 月刊怪奇スペシャルの編集部にその報が届いたのは早かった。何せまだこの国が今より平和で、娯楽も少なく、ちょっとした殺人が世間を騒がせていた時代の出来事である。

 編集長は私にこの事件を「超能力捜査官 オリガー・バートに聞け」の題材にせよ、と強く命じた。事態は異様である。何せ、死者の眠る墓石が打ち砕かれたのだ。そして墓前に広がる夥しい血の跡。さらに興味深いのは忽然と姿を消した骨壷である。事件のあった現場の地方紙にはこう書かれていた。

「死者蘇る。」

 地元警察はこの死者のいないある種牧歌的な事件をゆったりと捜査し始めていた。しかし、私は警察の発表よりも早く事件を捜査し、刺激の強い記事にする義務がある。ところが警察の発表する情報や、集められるだけ集めた資料を見ても書かれているのは現場に関する事実ばかり。素人目に見ても確信に迫れる何かは隠れているように見えない。

 墓跡は何か大きなハンマーで砕かれたようであり、前方から大きな力が加わり、後ろに倒れ、打ち砕かれたようになっている。ところが人間の力では到底出来る所業ではない。第一に墓石の重量はあまりにも重い。それを行うには重機が必要だ。だが、場所は山肌に墓石を敷き詰めた静かな霊園だ。重機が通る隙間などない。仮に通れたとしてもそんなことがあれば気付かぬものはいない。例え真夜中の犯行であっても重機の轟音を聞いたものは必ずいるはずだ。血の痕跡から解き明かそうにも、血は土に汚れ、乾きに乾き、もはや資料としての機能を失っていた。

 こう考えると、もはや死者が墓を突き破って外へ出たとでも考えたほうが納得出来る。

「いっそ祟りか何かなら良いのにな。」

 私は誰に言うとでもなく呟いた。実際は隣にいる同僚に向かって言った。今はただ同意して欲しかった。

「こう言う時はな」

 同僚がじっとこちらを見つめて徐に口を開く。

「滝美さんだ。」

 

 

 およそ要件とはかけ離れた町工場。滝美製作所と書かれた無骨な看板。工場の奥で作業する老年壮年入り混じった無骨な男たち。またここを訪れるようになるとは思いもよらなかった。思えば、ここを訪れるのは「珊瑚の殺人」以来である。あれからしばらく経ったが、これほど綻びのない事件には遭遇したことがなかった。例の如く恐る恐るインターホンを押すと、また凛とした声が聞こえた。

「月刊――」

 私が言いかけると

「少々お待ちくださいね」

 という静かだが力強い声が聞こえた。しばらく待つと、また例の背の高い白髪頭の女性が姿を表した。

「あら、お久しぶりです。今日も社長は二階にいますから。」

 そう言って階段を指差した。例の如く、奥で作業する男たちが私を睨みつける。

「どうやって滝美さんはこの人たちを従えているんだろう。」

 額からゆっくりと汗を垂らしながら思った。ギギギという鉄を切る音に鼻を押しつぶすような匂い。また次の汗が額からこぼれ落ちる。すっと息を吸い直してゆっくりと階段を登った。

 トントントンという硬い音を立てながら私は女性の後に続く。短いが急な階段が永遠に続くような気がした。

 また前のようになんの装飾もない無骨な廊下を通り過ぎると、例の「社長室」の前で立ち止まった。また、女性が木製のドアをノックする。

「はい」

 聞き覚えのある、低い少し嗄れた声だった。

 

 

「お久しぶりです。月間怪奇スペシャルの藤原です。」

「良いからどうぞかけてください。」

 大きい鼠色の無愛想な机を挟んで黒い皮張りの椅子に深く腰掛けた中年男性の姿が見えた。その横の棚には夥しい資料の合間に子供の頃に見たようなゴジラの人形が飾られている。

 目の前にいる浅黒く焼けた肌に白髪頭の男。鼠色の作業着に白いカッター、赤いネクタイを合わせている。それがまごう事なき「滝美博」その人であった。

 また、いつものように黒縁眼鏡をでこにずらしてじっと資料を睨みつけていた。ふと、何か思い出したように顔をこちらに向けると、さっと眼鏡を目元に滑らせる。

「今回の事件はどちらでしょうね?」

 滝美氏が応接間のソファを指指して言った。私は滝美氏に従って座った。滝美氏も私に遅れて向かい側に座り、深い息を吐いた後に柔和な笑みを浮かべた。

「はい、こちらです。」

 私は例の「死者蘇る。」の地方紙を滝美氏に差し出した。

「死者蘇るですって。」

 私が少し笑みを浮かべて呟いた。

「ええ。」

 ほう、と滝美氏が静かに同意した。そして静かにまた眼鏡をでこにずらして熱心に例の記事を読み始めた。

「墓跡はまるでハンマーか何かで砕かれたようだったそうです。前方から大きな力が加えられたように倒れ、墓跡は砕けていたそうです。それに」

「それに?」

 作業着の名探偵は静かにこちらに目を向けた。思わず広がっていた足が閉じられた。

「それに……墓石の周りには大量の血痕があったそうです。だから誰かが書いたんでしょうね。死者蘇ると。」

「あなたどう思いますか?」

 彼のあなたは私にはいつもあーたと聞こえる。

「はい、僕たちはこういう雑誌ですから、やはり死者の怨念がーー」

 私の言葉は滝美氏の大笑いでかき消された。

「あなた、死人は蘇ったりするものですか。そんなことがあるなら墓場なんていらないじゃありませんか。葬式で誰も泣いたりなんてしませんよ。どれ、現場の写真か何かありますか?」

「あります。なんとか集めました。」

「ちょっと見せていただけますか?」

 そう言って滝美氏は写真を丁寧に受け取ってそのまま食い入るように睨みつけた。

 写真には砕けた墓石を前、横、後ろと順番に撮影したものだった。そして墓の前にあった血溜まりの痕跡を克明に記録している。それらを名探偵は順番に眺めていた。

「これ、骨壷はどうなっているんです?」

「はい、行方知れずとのことで。おそらく墓石ごと砕かれたのではないかという噂です。」

「この事件の被害者、と言いましょうか。墓石を破壊された人は」

「周偉(ジョウ・ウェイ)という男性です。」

「ということは中国の人ですね?」

「そうです。亡くなったのは先月8日。自殺だそうです。」

「自殺?」

「そうです。今回の被害者は快活で誠実な人柄だったそうで、思い悩んでいる様子もなかったとか。」

「年齢は?」

「22歳です。」

「仕事は?」

「ええ。地元の町工場で勤務していたとかで、被害者は社宅住まいでした。」

「しかし妙ですな。中国の人なら何故祖国で葬ってやらない?」

「はい。周氏は家族と疎遠だったそうです。日本で交際する女性がいたそうで、それを反対されたために家族との縁は完全に切れていたとか。亡くなる前は勤め先の社長が生活の面倒を見てやっていたそうです。」

「そうですか。」

 そう言って滝美氏は目を伏せた。ポケットから煙草を取り出し口に運ぶ。火をつけてゆっくりと口から煙を吐くと、そのまま煙の塊が強い匂いと共に宙に浮かんだ。

「若いのにもったいない。」

「はい。」

 そう言うしかなかった。それ以上の言葉が出なかった。

「さて、この事件、だいたいわかりました。」

「え? もうですか?」

「ちょっと待って下さいね。」

 そう言って滝美氏は立ち上がった。棚から分厚い本を取り出すと、熱心にそれを眺め始めた。

「いくらなんでも早すぎやしませんか? だって」

「うん。」

 無愛想に滝美氏が応えた。そして嘆息と共に本を閉じると、しばらく宙を眺めていた。私もその沈黙に従っていた。

「墓石を墓石した犯人はね、簡単ですよ。これです。」

 滝美氏は砕けた墓石を正面から捉えた写真を指差した。私にはただの砕けた墓石にしか見えなかった。

「これですよ。これ。」

 滝美氏は墓石の全部を指差す。人差し指で写真を軽く叩きながら静かに強く言った。

「よくご覧なさい。」

 私の目には何度見返してもただの砕けた墓跡にしか見えない。

「ほら、よくご覧なさい。小さな穴が見えるでしょう?」

 そう言われてよくよく目を凝らして滝美氏の指差す先を睨みつける。確かに小さな小さな穴が点々と開いているのが見える。

「この穴がどうしたって言うんです?」

「死者は目を覚ましたんじゃありません。揺り起こされたんです。いや、叩き起こされたとも言えますね。」

「どういうことですか?」

「破砕剤ってご存知ですか?」

「破砕剤ですか?」

「左様。」

 そう言って滝美氏は息を整えた。

「主に騒音、振動を出せない場所でのコンクリートの破砕や、爆薬が使えない場所での解体工事に使われます。まず犯人は穴を開け、破砕剤を注ぎ、水で反応させる。ゆっくりと時間をかけて音も立てず、静かに墓は砕けたのでしょうな。」

 そう言って滝美氏は灰皿に煙草を押し付けた。

「しかしこの血溜まりは」

「骨壷は? なかったんでしょう?」

「そうです。」

「犯人は破砕した墓の破片で怪我をした。それもひどい怪我です。」

「しかしなんだってそんなことを」

「骨壷ですよ。」

「はい?」

「左様。」

「だとしたら犯人は誰なんです?」

 思わず熱っぽく叫んでしまった。滝美氏は表情一つ変えなかった。

「よほど恨みのある人間でしょうか。」

「被害者をよく思わない人物を一人知っています。木村海斗、被害者の同僚です。」

「年齢は?」

「37歳です。」

「どうして被害者をよく思っていないんですか?」

「はい、木村氏は被害者と交際していた女性に想いを寄せていたそうです。それも被害者がその女性と出会うずっと前から。」

「まあ、人間ですからな。そういう感情は自然だと思います。」

「それは仰る通りです。」

「決定的なエピソードでもおありか?」

「はい。被害者は生前、一度木村氏と掴み合いの喧嘩をしています。被害者の交際女性を巡って。それも勤務中にです。目撃者の情報によるといきりたった木村氏が被害者に、お前は国へ帰れ! お前は礼子さん(被害者と交際していた女性)の辛さを理解していない、お前は礼子さんの人生をめちゃくちゃにしている、と叫んだそうです。」

 また、滝美氏が深い息を吐いた。

「しかし、そんなことで人様の眠る墓を打ち壊したりすると思いますか? わざわざ破砕剤まで用意して。」

「よほどの強い恨みがあったのかもしれません。」

「しかし、あなたはどうしてそんな情報を?」

「はい。実は被害者の勤め先の社長に捜査の協力を依頼してまして」

「被害者の生活風景が知りたいです。被害者のことがわかる資料はありませんか?」

 私が言い終わる前に滝美氏がじっと私の目を見つめて呟いた。

私は被害者の部屋の写真を差し出した。殆ど余分なもののない、ワンルームの殺風景な風景だった。白を基調にした壁紙に木製の机が一つ。どうやら子供用の勉強机のようである。これは勤め先の社長の子息のお下がりらしい。その上に何枚も紙が散らばっている。それは書き連ねられた内容に埋め尽くされたかつての白紙であった。

 滝美氏はじっとその写真を睨みつけた。

「これは?」

 滝美氏が机の上に散らばった紙を指差した。

「これは被害者がかつて日本語を勉強していたテキストです。被害者の職場の事務職員が日本語を教えていたようです。」

 私は鞄から徐に「日本語のテキスト」を取り出し、滝美氏に差し出した。

「これ、何かの役に立つかもしれないと思って被害者の勤め先の社長に無理を言ってお借りしたんです。快く貸し出してくださいましたよ。もし事件解決の役に立つなら、と。」

「警察は御入用じゃなかったんですかね?」

「はい、警察は被害者の勤め先の社長に聞き込みをしたそうですが、一度きりで以降は一度も来ていないそうです。」

「そうですか。」

 そう言って滝美氏は被害者の残した「日本語を勉強していた跡」を熱心に眺めた。

「こんにちは。」

「ありがとう。」

「おげんきですか。」

「いいてんきですね。」

 滝美氏が呟くように声に出して読み上げていく。

「いっしょ」

「いっしょです」

「ぼく」

「ぼくら」

「やくそく。」

「やくそくしてください。」

「ぼくもやくそくします。」

「ふたりのやくそく」

 滝美氏が顔を挙げた。

「これは日本語のテキストじゃありませんよ。」

「え?」

 思わず声にならない声が漏れ出た。

「被害者に日本語を教えていた人について詳しく教えていただけますか?」

「すぐに確認します!」

 先だって尋ねていた被害者の勤め先の社長にメールを送った。先方からすぐに電話が来た。

そこでわかった内容は以下の通りだった。

 

 

 被害者の周氏に日本語を教えていたのは、同じ職場の事務員。白井礼子氏であった。年齢は36歳。実家で両親と暮らしている。母親が脳梗塞の後遺症で手足が不自由なため、母親の生活を支えながら暮らしている。とのことだった。家と職場の往復だけで過ぎていく毎日。母の介護に追われ、夕飯の支度を終える頃には一日が終わっていた。

 話を聞く内にある一つの事実が浮かび上がった。周氏と白井氏は一時期交際していた、とのことだった。これは周氏が木村氏の強い恨み、妬みを買うこととなった所為である。しかし、関係はいつの間にか解消していた。

 二人の関係は白井氏の両親による強烈な反対、国籍の違い、13歳差の2人という年齢の差。そしてそれを見つめる周囲の好奇の目。事実、これらの情報は周りの噂話から収集したものだそうだ。

 そして彼らの上司、この話を教えてくれた社長は白井氏にこう言ったそうだ。

「白井さん、あんた周の彼女なのかい? お母さんなのかい?」

「周、お前、白井さんを好きだなんてマザコンなのか?」

 彼にはちょっとした冗談のつもりだった。周氏は目を伏せて何も言わなかった。その日のうちに周氏は自宅の煎餅布団の上で息を引き取った。工場から持ち帰った薬剤を飲み込んだそうだ。

「俺が周を殺したようなものです。」

 社長はそう言って鼻を啜っていた。

 

 

「あなたどう思いますか?」

 また滝美氏はあーたと言った。

「男女のことをああだこうだ他人が言うことじゃないでしょ。」

「仰る通りです。いいですか? これはただの日本語の練習テキストじゃない。」

 滝美氏が周氏の言語学習の痕跡を持ち上げた。

「と言いますと?」

「これはね、恋文です。ラブレターですよ。」

「ラブレター?」

「左様。見ればわかるでしょう? ただ優しい言葉で日本語勉強していたわけじゃない。これはね、ふたりのやくそくです。」

「ふたりのやくそくですって?」

「冥婚ですな。ご存知ありませんか?」

「いいえ、知りません。すみません、不勉強で。」

 滝美氏は立ち上がりゆっくりと机の近くにあった資料の並んだ棚に向かう。そしてゴジラの人形を手に取ると、真っ直ぐソファに戻って手元で弄びだした。

「中国の民間信仰の一つです。冥婚とは、死者同士、あるいは生者と死者の間で行われる結婚のことですね。死後の世界で孤独にさせない、家系・血統の継続などを目的として行われるものだそうです。男女ともに未婚で死亡した場合、「魂が孤独でさまよう」とされ、死者同士を結婚させる。場合によっては生きているものと結婚させるケースもあるとか。特に、息子が死んだ家庭が「死後も伴侶を持たせたい」と願って、遺族が女性の遺体を探すという習慣もあるそうです」

「それが」

 私がそう言いかけたとき、滝美氏は柔和に笑った。

「……それが、ふたりのやくそくですよ。被害者が自殺したのは絶望したからじゃない。彼は死後の永遠を誓って笑顔でこの世を去ったのですよ。」

「それで白井さんが墓荒らしを?」

「左様。ご覧なさい。」

 滝美氏は持っていた紙を捲って目当ての内容が書かれていた紙を差し出した。

「やくそくしてください。」

 辿々しい字で書かれている。

「わかりました。」

 小綺麗で小さな丸みを帯びた字が続いた。

「かならずまもります。」

また、小綺麗な字が続く。日本語学習の痕跡にしては奇妙なように感じる。

「ずっといっしょ」

三度丸みを帯びた小綺麗な字が続く。そして最後に辿々しいが力強い字で

「ふたりのやくそく」

 そう力強く刻まれていた。

「そういうことでしたか。これは確かに……まるで文通のようですね。」

「左様。そして彼らは日本語の勉強をしながら言葉を交わしていた。その中に冥婚のことがあったのでしょう。周りから好奇の目で見られ、信頼する人からも嗜められる。両親は強く反対したはずですよ。保守的な傾向のある家なら尚のことです。だから」

「だから?」

 私は思わず目を見開いた。

「彼らが一緒になるには、ふたりのやくそく、しかなかったのでしょうな。」

 それきり我々は押し黙った。

「でも、破砕剤なんて一般の事務員が知るわけないでしょう?」

 なんとか私は言葉を絞り出した。

「彼女は理系なのでは? 破砕剤の左様、化学反応は理系の学校を出ていれば習う可能性はある。」

「でも、それは警察も調べてありますよ。犯行のあったであろう時間帯は実家の両親が彼女の姿を目撃しています。」

「破砕剤は何も注入してすぐに破砕するものじゃない。そんな便利なものじゃありませんよ。今の気候だと少なくとも注入してから8時間から12時間はかかるでしょうね。」

「では白井さんは」

「左様。白井さんが破砕剤をセットしたのはおそらく墓守が帰ってから陽がくれたあと。誰もいない墓場で、周氏の墓におそらく小型の電動ドリルか何かで穴を開けたのでしょう。そして破砕剤と水を注入した。彼女はゆっくりと帰ればいい。時間が経てば膨張した破砕剤が内側から墓を砕く事になるでしょうね。」

 滝美氏は深い息を吐いた。

「バールか何かでそっと石をずらして骨壷を取り出せば、騒ぎにならずに済んだはずです。やくそくを果たすだけならそれで充分なのに。」

 私は目を伏せて呟いた。滝美氏が私の目をじっと覗き込む。

「周さんの墓を立ててやったのは誰ですか?」

「勤め先の社長さんですよ。」

 滝美氏は熱っぽく息を吐いて何度も首を縦に振った。

「蓋石は接着されていた可能性がありますよ。古いやり方ですがね、蓋を完全に接着させて開けられないようにすることで死者に悪戯をされないようにしていたのです。」

「どうしてそんなことを?」

「これはね、彼にとって日本の父親からの最後の愛情ですよ。彼は最後の罪滅ぼしに異国からやってきた息子を静かに眠らせてやることを選んだのだと思います。どんな悪意からも息子を守ってやれるように。だって周さんは同僚の木村さんに強い恨みを抱かれてた訳ですからね。」

「でも、その愛情が周さんの魂の寝床を破壊するきっかけになった、と。」

「左様。開かない扉は破壊するしかない。」

 今度は私が深く息を吐いた。

「なぜ白井さんがこんなことをしたのかわかりますか?」

 滝美氏が無感動に頭を掻きながら訪ねた。

「いいえ、わかりません。」

 私にはそう言うよりなかった。

「それはね、僕にもわかりません。彼女が破壊したかったのは何も墓石じゃないはずなんです。もっと大きな詰まりのようなものだったのでしょうね。だから彼女は血まみれになりながら周氏の骨壷を救い出した。ふたりのやくそくのために。……この事件はね」

「はい。」

 空調の無機質な音だけが空間を支配した。遠くで機械が動いているはずなのに全く聞こえてこなかった。自分の喉が鳴る音が聞こえた。

「この事件はね、結婚式だったのですよ。ふたりのね。彼女は墓を壊して何かをしたかった訳じゃないと思います。彼女はただふたりのやくそくを果たしただけだったんでしょうね。」

 夕陽が窓を覆ってゆっくりと溢れ出した。滝美氏は弄んでいたゴジラの人形を自分の隣に座らせて、また次の煙草に火を付けた。

 

 

 紙面には滝美氏が暴いたトリックだけを掲載した。それ以上のことは掲載すべきでないと思った。しばらくして警察が捜査結果を発表した。今回も滝美氏の推理は正しかった。白井氏の自宅から周氏の骨壷が発見された。骨壷の側には「周偉へ」と書かれた赤い封筒が添えられていた。

「亲爱的周伟 我们的约定我已经履行了。从现在起,我们将永远在一起。我会一直爱着你。礼子」

丸みを帯びた上品な字でこう書かれていた。

 

 

 掲載後、周氏の日本の父親から電話があった。

「本当に感謝しています。実はね、雑誌が発売されてからしばらくして、うちの従業員が自首しましてな。まさかこんなことになるとは夢にも思わなかったです。周と付き合っていた白井ですよ。あの子、最後に俺に挨拶に来ましてな。バート氏にありがとう、と伝えておいてくださいと言ってました。あの子には雑誌の人が取材に来ると話してましたから。そして、あの時はふたりのやくそくだけが私たちを繋いでくれる最後の希望だと思っていた。でも、思い返せば他のやり方もあったのかもしれない。バート氏の超能力なら、私の言いたいことがわかるでしょう? って。どういう意味かわかりますか? でも、あの子たちの気持ちが本物なら、俺はこれ以上とやかく言う必要はありませんし、誰にも言わせる気はありません。……俺には周が最後まで何を言ってるのかよくわかりませんでした。あいつ、いつまでたっても日本語が下手くそでね。でも、あいつの目を見てると、いつも俺を信じてくれているのがわかりました。……俺なりに理解しようとしていたつもりだったんです。でも、俺がどれだけ見つめ返しても、あいつには届かなかったんでしょうな。死ぬことなんてなかったのにな。そういえばね、あいつ、俺のことずっとバーバって言うんですよ。俺はババアじゃねぇってずっと怒鳴ってたんですがね、後で調べてびっくりしてたんですよ。俺のこと父ちゃんって呼んでくれてたんです。……今思い返してもどうにもならんですね。とにかく今はうちのボウズのためにも、白井さんが帰ってくるのをゆっくり待つつもりです。」

 

 

 そのすぐ後、私は滝美氏に電話して、先ほどのことを伝えた。低い嗄れた声が電話の奥で響いた。

「だから言ったでしょう? 死人が蘇るなんてあり得ない訳です。死んだ人間とは二度と会えないのです。正直、僕にも会いたい人がいますよ。僕が代わりに死ねば良かったと未だに思うことがあります。だから、白井さんの気持ちはある程度理解できるつもりです。でも、僕は幸にして死んだ人とやくそくは交わしてなかった。それだけです。まあ、なんにせよ、生きてるうちに誰かと約束なんて、もう出来そうにないですな。」

 そう言って乾いた声で笑った。

 その笑い声を聞きながら、声の奥から漂う煙草の匂いが、なぜだか胸に染み入った。

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