滝美博の事件簿 珊瑚の殺人

辻岡しんぺい

滝美博の事件簿 珊瑚の殺人

 この話はまだ世の中が平和で、ちょっとした殺人で世の中が騒ぎ立てた頃の話だ。

 当時私はある雑誌の編集の仕事をしていた。ある雑誌といって特別有名な雑誌ではない。「月刊怪奇スペシャル」という雑誌だが、読者諸氏の殆どが見たことも聞いたこともなかろう。実際、発行部数も少なければ、売れる数も少ない。一部の物好きたちがわざわざ書店で注文するか、もしくは定期購読していて、それで当時の私はご飯を食べていた。

 私が初めて滝美氏と会ったのはある殺人事件についてのインタビューであった。元々「超能力捜査官 オリガー・バートに聞け」という連載があった。実際に起こった事件を超能力捜査官、オリガー・バート氏にインタビューし彼の推理を世に問う、という内容だった。最初は実際にバート氏にインタビューを重ねていたそうだが、何度かやり取りを続けるうちにギャラの関係で揉めた。以来名前だけを借りて編集部が総力を上げて推理している。そんな中、浮上したバート氏の代役が滝美博(タキミヒロシ)という男だった。元々編集長の知り合いということだけは聞いている。編集部で考えあぐねた時はお金を払って滝美氏に推理してもらっていた。滝美氏に推理してもらった時は、毎度犯人をぴたりと当ててしまうらしい。一度警察から電話があって、捜査関係者が情報を洩らしているのではないか、と疑われたことがあるらしい。オーギュスト・デュバンやシャーロック・ホームズのような風変わりな探偵が私の頭に浮かんでいた。

 しかし私の目の前にあるのはO府のH区の端、ほとんどY市といったところにある小ぢんまりとした町工場である。看板には「滝美製作所」と無骨な字で書かれていた。奥の方から機械の轟音が聞こえてくる。入口はシャッターが開け放たれていて、奥で中年から老年の男たちが機械を動かしているのが見えるが、とても声をかけられる雰囲気ではない。来る所を間違えたのかと思った。しかし編集長から受け取ったメモではこの住所で間違いない。よくよく見ると左の端にインターホンが見えた。ひとまずインターホンを押すことにした。部屋の奥で音が鳴っているのだろうが、機械の轟音で掻き消された。しばらくすると、はい、とインターホンの奥から聞こえる。凛とした女性の声だった。

「お世話になります。月刊怪奇スペシャルの」

 と私が言いかけると

「ああ、ちょっとお待ちください。」

 そう言って声が途絶えた。しばらく待っていると二階から白髪の背の高い女性が姿を見せた。顔立ちからすると五十は回っているだろうが、透き通った声をしていて実際よりも若い印象を受けた。

「社長は二階にいますから、どうぞ。」

 女性に通されて工場の中に入ると、作業をしていた男たちが手を止めてこちらを睨みつけているのが見えた。鉄製の無愛想な階段を登ると、これまた無愛想な廊下を通って「社長室」と書かれた部屋の前に案内された。女性がとんとんと戸を叩くと、はいと低い声が聞こえた。女性が戸を開ける。私は階下から響く轟音に恐れ慄きながら部屋に入った。

「初めまして、月刊怪奇スペシャルの藤原と申します。」

 私がそう言いながら顔を上げると無愛想な鼠色の机と、その向こうで黒い皮張りの椅子に腰掛けた中年の男性が目に入った。白髪頭に浅黒く焼けた肌、黒縁の眼鏡をでこにずらしてじっと資料を睨みつけている。鼠色の作業着を来ていて、その下に白いカッターシャツと濃い赤のネクタイを合わせていた。しばらく資料を睨みつけていたが、ゆっくりと顔を上げて細い糸のような目をこちらに向け、柔和に笑った。

「滝美です。よろしく。」

 滝美氏がこちらに回り込んで横の応接スペースに座るように言った。私は皮張りのソファーに腰掛けた。横の資料を敷き詰めた棚にゴジラの人形が飾られているのが見えた。

「今回の事件はどちらでしょうね。」

 ソファーに座るなり滝美氏が快活に言った。また部屋の戸を叩く音がして、先ほどの女性が私と滝美氏にお茶を持ってきた。

「こちらです。」

 私が資料を差し出すと滝美氏は手にとって熱心に眺め出した。

「先日起こった事件で、被害者はこの中井誠さんと、中井智子さんです。死因は呼吸困難によるものだそうです。被害者の二人は、四人家族の父母で二人の子供たちも同様の症状を訴えていて一時は意識不明にまでなったそうですが、今は一命を取り留めているそうです。」

「お子様方はおいくつですか?」

「十七歳と十四歳です。」

「そうですか。」

 滝美氏がまた眼鏡をでこにずらして、考え込むように資料を睨みつけた。そしてポケットから煙草を取り出して火を付けた。

「部屋の窓や玄関が開けられた形跡はなかったのでしょうね?」

「はい。全くと言っていいほどありませんでした。指紋も家族のもの以外はなかったそうです。」

 作業着の名探偵は指を舐めると資料をめくった。

「便所の写真はありますか?」

 私はトイレの写真を滝美氏に渡した。しばらく睨んでいたがすぐに「ありがとう」という一言と共に返された。

「この家に関する写真を一度全部見せてくれませんか?」

 写真を受け取ると滝美氏は丁寧に一枚一枚写真を点検し始めた。そしてリビングの写真を手に取って熱心に眺めていた。

 洋間に明るい色合いをした木製の机が置かれていて、中央に儚い色の花が生けてある。重い色合いのカーテンが締め切られていて、部屋の全てが明るい照明で照らし出されている。部屋の奥には大きな水槽が置かれていて、色とりどりの海水魚と明るい色の珊瑚と立派な機械がいくつも据え付けられている。この水槽の存在が被害者の豊かさを象徴しているようだった。

「被害者の方々が最近医者にかかったかどうか分かりますか?」

「はい、子供らが先日病院に行ったそうです。症状は激しい咳と頭痛、節々の痛みだそうです。診断は風邪だそうで。」

 滝美氏は煙草を灰皿に押し付けて微笑した。

「あなた、どう思いますか?」

 私の耳にはあーた、どう思いますか? と聞こえた。

「分かりませんけど、こういう雑誌ですから例えば祟りですとか、そういうことなのかもしれないなと思ったりしてます。」

 目の前の名探偵が大笑いした。そして眼鏡をでこから目元に戻した。

「あなた、そう簡単に祟りなんて起こりませんよ。第一そんな馬鹿なもの信じるのはよしなさい。さてさて、もう大体分かりました。」

「もうわかったんですか?」

 思わず間抜けな声が漏れ出た。

「ちょっとだけ待ってくださいね。」

 そう言って滝美氏は本棚から分厚い本を取り出して眺め出した。

部屋に取り付けられた電話機が大きな音を立てた。目が覚めるような音だった。滝美氏は電話に出ると返事もせぬままに受話器を置いて部屋を出た。しばらくすると階下から怒号が聞こえた。声の主が滝美氏なのは明らかだった。機械の轟音も掻き消されるような声だった。どうやら作業員に「業務上の注意」をしているらしい。先程までの穏やかな口調とは打って変わった獣のような声だった。

滝美氏が部屋に戻ると、また物も言わずに分厚い本を睨みつけた。そうしてどんと本を閉じると、また応接スペースのソファーに腰掛けて唸った。しばらくじっと虚空を見つめていたが、また立ち上がって飾られていたゴジラの人形を手に取って座った。しばらく人形を弄んで黙っていたが、俄に口を開いた。

「この事件に犯人はいませんね。強いていうなら犯人は」

 そう言いながら滝美氏はリビングの写真を指差した。

「こいつです。」

「こいつ?」

 また私は間抜けな声を漏らした。

「そう、こいつです。」

 滝美氏はリビングの写真にある、奥の水槽を指差した。私は写真を覗き込んだ。滝美氏の指は奥の水槽の背景を指差している。

「水槽ですか?」

「左様です。」

「でも水槽がどうやって人を殺すのです?」

「こいつですよ。珊瑚ですよ。」

「珊瑚ですって?」

「左様。」

 滝美氏の腕の中で弄ばれている人形の腕が百八十度回転していた。滝美氏は微笑して頷いた。

「こいつは、毒珊瑚です。ハワイのマウイ島に生息する珊瑚の一種でしてね。パリトキシンという青酸カリより強力な毒を発する生き物です。この毒が人体に入ると、風邪と同じような症状を引き起こします。重篤化すると心臓や肺の血管を収縮させて呼吸困難の症状を引き起こすのです。」

「しかし珊瑚の毒がどうやって人の身体に入るというのですか? まさか水槽の水を飲んだ訳じゃあるまいし。」

「これですよ。」

 また滝美氏がリビングの写真を指差した。よく見ると指先は水槽に据え付けられた機械を指差している。

「水の濾過装置です。恐らく珊瑚に何らかの刺激が与えられ、毒が分泌される。それが濾過装置を通っていくうちに気体となり、空気中に溢れ出した。最初は微々たるものだったのでしょうが、やがて部屋中に充満する。それを被害者が吸い込んだ。これが真実でしょう。」

 私は物も言えずに何度も頷いた。

「わかったでしょう? 犯人はこいつですよ。」

 滝美氏がリビングの写真に写った珊瑚を指差した。

「今に見てなさい、警察が同じようなことを発表するでしょうよ。」

 そう言うと滝美氏はまた柔和に笑った。町工場の社長というよりは優しい小児科の先生のような笑顔だった。


 雑誌の発売後、しばらくしてから警察が同事件の捜査結果を発表した。やはり滝美氏の推理は正しかった。

 何故この話をしたのかというと、先日滝美氏が入院したということで、面会に行ったからだ。あれから仕事で滝美製作所を何度も往来した。滝美氏との付き合いは長かった。しかし七年ほど前に滝美製作所を子息に譲って、自身はひっそりと暮らしていた。二年ほど前から認知症が進んで施設に入っていた。面会に行こうにも施設の規則で行くことが出来なかったが、軽い脳梗塞ということで入院した。入院先の病院では面会出来るとのことなので急いで向かった。

 久しぶりの滝美氏は随分と小さくなっていた。車椅子に座って前のめりになり、じっと下を見つめて口をもごもごと動かしていた。

「滝美さん、お久しぶりです。」

 私が耳もとで叫ぶと、眉間に皺を寄せて不思議な顔でこちらを見つめていた。しばらくするうちに

「どこの誰かと思った」

 と笑顔で私の手を握った。しばらく昔の話をしていたが、どうにもおかしい。ところどころ話が噛み合わない。よくよく話を聞いていると私のことを「ヤスユキ、ヤスユキ」という。

後で滝美氏の親族に話を聞くと、「ヤスユキ」というのは若くして亡くなった滝美氏の弟ということだった。

「俺はどこも悪くないから。帰ろう。帰ろう。今日はこのまま一緒に帰ろう。」

 そう何度も言った。少し話してまた俯いて、思い出したように話して。そんな時間が十五分ほど続いた。

「良くなるまでもうちょっとですよ。あとちょっと。それまで頑張ってリハビリしましょうよ。良くなったらいつでも帰れますから。」

 しばらくそんなやりとりをして、ようやっと滝美氏が手を離した。私は辞去した。滝美氏はまた俯いて口をもごもごと動かしていた。

 それからしばらくして滝美氏はまた元の施設に戻った。あれ以来、滝美氏には会えていない。

 滝美氏が元気だった頃の話はまだある。また機会があれば書こうと思う。

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滝美博の事件簿 珊瑚の殺人 辻岡しんぺい @shinpei-tsujioka06

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