さあ、ここで表現の本質を語る

 様々な表現を学んでもらいましたがいかがだったでしょうか?


「そんな方法があったのか」とかトキメク人もいれば「表現の幅がない自分に愕然とした」と嘆く人「理屈は分かったんだけど、いざと落とし切ることができるのかな」と不安に駆られる人もきっといることだろう。


 自分もその一人だ。へ?と教える側なのになんだその発言とジト目で見られていることは分かるけど、表現というものは『単語や文字が分かっていてどうにかなるものではない」し、かといって『体験と他のところから拾ってきた文章の継ぎ接ぎでしかない』。正直、『すべては借りものだ。自分の力じゃない』。


 もし、この発言で「パクリが正義と言いたいのか」問われたら、随分と質問者は『横柄な人なんだ』と鼻で笑わずにはいられない。


 何故なら『表現という存在は、勝手に名付けたモノ(言葉)の力を借りた、相手に思いを伝えるための借り物の借り物』だからだ。


 レベルの高い話すると『形から借りた力を、言語に変換し借りて、表現に利用させてもらっている』。いわば『有形無形にかかわらずそのカタチがなければ、表現は存在しないという事』だ。


 より分かんなくなったかもしれない。


 もっとかみ砕くと『自分が伝えたい思いのカタチが表現という事』だ。故に見る者の立場で、カタチも変わる。


 『その自覚がなければ表現は、この章の冒頭のようなカタチの分からない、ゴミ文章が出来上がる』。カタチが分かってないから当然だ。


 そこの鍛え方は、体験か妄想を越えた先にしかない。言ってみれば『カタチさえ見えていれば、無限大の表現が可能』になる。したがって、『どれだけ上手くなろうが、どれだけ物事を知ろうが知らまいが底もないし、天井もない』だからずっと、『借り物のカタチを示す表現者でしかない」。


 似たようなことを何度も言ったが、どう足掻いても変わらない。だからこそ、『表現にはリスペクトが必要だ。そして、嫌いなものならもっと敬意を持たねばならない』。不快や嫌いなものは最も『カタチの輪郭がはっきりと出やすいものだ』だから人は苦しむ。


 もうここまで来たら分かっただろう『カタチがある限り、無限に表現し続けられる』ことが、そう『表現とは、見えてるカタチなのだ』。

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