第5章 負け犬しばもふ

第1話 負け犬の遠吠え

 時が少し戻って、ヴィクターがリリィたちに無茶苦茶を言い出した少し前に話が遡る。


 夜の街で子犬になったヴィクターを抱いてエドガーが帰路についたところで、ヴィクターが深刻な声で語り出した。


「もし、本当に呪いが解けなかったら、僕はこのまま本当に犬になるしかないんだろうか」

「いやいや。今父さんたちが一生懸命呪いの解析をしているから、それはない……」

「万が一の話だ。それに、リリィの気持ちを考えたんだ」


 子犬は大きく鼻でため息をついた。


「ほう?」


 エドガーは子犬の意見を話半分で聞くことにした。


「確かに僕は彼女の気持ちをよく考えていなかったかもしれない。彼女がうんというから、僕は彼女も僕を好いているのだとばかり思った。しかし、本当は皇太子という僕の立場に気後れして返事をしていたのかもしれないと思ってな……」

「気付くのが遅すぎやしないか?」


 子犬はエドガーの言葉を流して続ける。


「僕はとにかくリリィを幸せにすることだけを考えてきた。皇太子妃になるのも、彼女の幸せのためだと思った。でも、本当に彼女は僕のことを愛しているのか?」

「愛してなきゃ、流石の皇太子と言っても夫婦にはならないだろう?」

「そうだ、そのはずだ。だからリリィに確かめなければならないんだ。本当は僕のことなんか愛していないのではないかって!?」


 素っ頓狂な子犬の発言にエドガーは転びそうになってしまった。


「だからなんでそうお前は飛躍するんだ? そんなわけないだろう?」


 何とかエドガーは体勢を立て直した。子犬は至って真面目な顔で話を続ける。


「僕はいつでも真剣なんだ。もし彼女が犬なんか嫌だって言ったらと思うと、思うと……」

「だから呪いは解いてやるから安心しろって」

「いいや、例え人間に戻ったとしても、僕は彼女を満足させられるのだろうか?」

「は?」


 子犬は瞳を閉じて、エドガーの腕に全体重を預ける。


「僕というこんな醜い負け犬に組み敷かれるなんて、美しいリリィにとっては屈辱かもしれない、そうだろう?」

「そんなの知るか!」


 変な方向にいじけ始めた子犬の思考は、どんどん良くない方向に進んでいく。


「そもそも僕は妻を娶るに値しない人物なんだ、だから天罰が下って犬にされたのだ。お前は女と交わるな、と神がお怒りになられたのだ」

「だからそう卑屈になるなって! 面倒くさいな!」

「卑屈? お前は僕の何を見て卑屈だと思うんだ?」


 急に子犬は怒ったようにエドガーを見つめる。


「皆が僕を立派な皇太子だ、素敵な方だとちやほや褒めそやすが、その実態を見ようとしたものはかつてどのくらいいたのだ? こんなにも醜く、哀れな負け犬だと知っている奴がどのくらいいる?」


 エドガーは幼い頃からヴィクターの側にいた。皇太子として常に優等生であることを求められ、時に周囲からの期待に押しつぶされそうなヴィクターの姿はよく知っているつもりだった。そんな抑圧がリリィへの偏執的な愛情に繋がっているのでは、とエドガーは常々思っていた。


「皆が僕の虚飾を見ている。リリィも、もしかしたら空っぽの僕と並べられて見られるのが苦痛であるかもしれない……」


 その時、子犬の耳がぴんと立った。何かを思いついたようだった。


「そうだエドガー、リリィを女にしてやってくれないだろうか」

「は?」


 いきなり変なことを言い出した子犬に、エドガーは目が飛び出すような心持ちに襲われた。


「こんな空っぽの負け犬に抱かれるより、実際の女を知って現実をよく見ている君の方がずっとリリィには相応しい。僕は今ならそう思う」


 子犬は何故か得意げにエドガーの腕の中で尻尾をぶんぶん振り回す。


「待て待て待て待て、お前今自分が何を言っているのかわかってるのか?」

「十分承知しているさ。哀れな負け犬がようやく相応しい身分に落ち着いたってわけだ」


 既にヴィクターの心は決まっているようだった。


「大体、一緒に寝られない夫なんて結婚している意味がないだろう? 彼女には世継ぎを生むという大仕事が待っている。それなのに、こんなみっともないちびっこの負け犬がいつまでも執着していてはいけない」


 エドガーは飛躍しきったヴィクターの目を覚まさせなければいけないと思った。しかしこうなっては、ヴィクターが何も聞き入れないこともエドガーはよく知っていた。


「畜生、本当に畜生の分際で全く……」


 ヴィクターはずっと子犬のままだった。心の中では既にリリィが何度も自分ではない男によって組み敷かれていた。そして肉体的に満足を得ているリリィを見たいという思いしか子犬の中にはなかった。


「ああ、すまなかったなリリィ。僕は君の気持ちを考えていなかったよ、今すぐ満足させてやるからな」


 エドガーは、リリィの言葉なら何とかこの面倒くさい子犬に届くのではという一抹の希望を胸に帰路を急ぐことになった。

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