しばもふ皇太子は花嫁と初夜を過ごしたい!

秋犬

序章

序章 僕の花嫁

 その日、ミストウェル国で行われた皇太子の結婚式及び祝賀会は大盛況のうちにおひらきとなった。そして、若い二人が初めて共に過ごす夜がやってきた。


「リリィ、僕のリリィ。ああリリィ、こんなに近くていいのかい?」


 月明かりが差し込む皇太子妃の寝室で、本日の主役であった花婿のヴィクター・ミストウェルは天にも昇る心持ちであった。夜のような髪と瞳を持つヴィクターは、国中の女性の憧れの的である。


「近いも何も、私たち夫婦でしょう? これからはずっと、一緒ですよ」


 皇太子妃として初めての夜を過ごすリリィ・ミストウェルは純白の花嫁衣装から夜着に着替え、寝台に腰掛けていた。


「ああリリィ! 何て素敵な夜なんだ!!」


 ヴィクターは何度も何度もリリィの顔を覗き込む。豊かな亜麻色の髪と青磁のように透き通った白い素肌、そしてヴィクターを覗き込む海のように深い碧瞳が蝋燭の光に照らされて、彼の心を掴んで離さない。


「そんなに何度も見ても、同じ顔ですよ?」

「いいや、僕にとっては君の顔は一度たりとも同じ表情であり得ない、今夜の月のようにね!」


 適切なのかどうかわからないヴィクターの比喩に、リリィは顔をほころばせる。


「まあ、殿下ったら相変わらずお上手なんだから」


 笑顔のリリィと対照的に、ヴィクターは眉間にしわを寄せる。


「その殿下というのをもうやめてくれないかな、君は今日から正式に僕の妻なんだ。つまり、その……」


 言い淀むヴィクターに、リリィもヴィクターから顔を反らす。


「わかっています、でもいざ名前でお呼びするのが恥ずかしくて……」


 するとヴィクターはリリィの手首を掴んだ。ふわりと花の匂いがヴィクターの鼻孔をくすぐる。


「ダメだよ、これは命令だ。僕のことを名前で呼ぶんだ」


 僅かに重なった肌から伝わる熱い体温に、リリィの鼓動が高鳴った。


「はい……えっと……ヴィクター?」


 二人の視線がしっかりと絡み合った。リリィの身体から力が抜け、全てを委ねようとしているのをヴィクターは感じ取った。


「何だい、僕の愛しい花嫁」


 ヴィクターは一気に手を引き、リリィを抱き寄せた。それからもう一度しっかりと見つめ合い、互いの唇を重ねようとした時だった。


「……殿下? 殿下?」


 リリィの眼前にヴィクターの姿はなくなっていた。それどころか、ヴィクターの着ていた服が抜け殻のように落ちていた。


「殿下! どこに行ったのですか、殿下!」


 リリィがヴィクターの服を振り回すと、中から大きな果実ほどの黒っぽい毛玉がぼふんと飛び出した。


「……わふ?」


 黒っぽい毛玉は寝台の上にちょこんと座ると、小首を傾げてリリィを見上げた。


「わ、わ、わんちゃん……?」


 リリィは驚愕の瞳で、先ほどまでヴィクターだったと思われる茶色い子犬を凝視した。


「どうしたのだリリィ、何が、何が起こったのだ……?」


 子犬はヴィクターの声で寝台の上を転げ回る。先だけ白い前足で顔をくしくしと撫で回し、黒い毛虫のような尾をぴるぴると動かす。


「殿下、殿下が……小さい犬になってます」


 おそるおそるリリィが呟いた。ようやくヴィクターは自身が子犬に変身したことを理解して、絶叫のような可愛い遠吠えをあげた。


 ミストウェル国の夜は、まだまだ明けそうになかった。

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