第8話〈後ろには退けない〉
着地と同時にまたあの嫌な超音波を受け取った。
前を向くと途端に見計らったかのように突風がぼくの細い体躯を襲った。腕を交差させて顔の前に構えるも、この風を前にしては何のなぐさめにもならず、抵抗できない。またかなり揺れているため、立っているのがやっとだった。
じりじりとぼくの体が後退していく。
体が後方の壁に押し付けられた。自然に右に視線がずれる。そこにはご丁寧にも胸に〈ゾー〉と自分の名前が刺繍された
――空挺部隊隊員のゾー少尉は出撃を待っているってか?とはいってもこの風はどういう了見だろう。
目の端に02と割り振られ、シートベルトのついた隊員用シートが見える。あそこまで何とか這いつくばってでも行けるだろうか。
そのように考えていた矢先、大きな音波が轟いて、風がやんだ。ぼくは思わず膝をつく。未だに揺れてはいるが、やっと冷静に周りが見られる。
上の照明が奥から子気味良いリズムで順番についた。やがて周囲の光景がくっきりと浮かび上がってくる。
高い高い天井。自分が落ちてきたらしい穴も見える。赤色が点灯したシグナルや応急キット、消火器、予備の小火器が鋼鉄の壁に一定間隔でとりつけられている。中央部には背中合わせになった隊員用シートが二つある。両サイドに扉があって、前方には巨大なハッチがある。後方奥から二本の白いロープが伸びている。あとはだだっぴろい銀色をした空間だ。
さしづめここは巨大な輸送機の格納庫内のようだ。
不気味なのはやはり隊員用シートだろう。これだけの広さであれば100人以上収容が可能だろうし、戦車なんかも搭載できるとは思うのだが席は格納庫の中央部に背中合わせになった01と02の二つしかなく、何かを載せるにしても非常に邪魔になる作りをしていることだ。というか、ここにはぼくしかいないわけだからシートだって一つで十分だろうに。
そんなことを考えていると、上にあったらしい信号管からサイレンのようなものが三回発せられた後、〈各員に通達、各員に通達〉と連絡事項らしきものが流れ始めた。
ぼくは立ったまま、その信号を集中してキャッチしようと受信官をそばだてる。
〈
なんと、これには驚かされた。現在に干渉してきているということは『シチュエーション対応型のイベント』だ。高度なイベントの類である。先ほどの「言語史」の学習を阻む、〈館内放送〉のような極めて本能的な部分に近いものを根っこにしているのだろう。
とりあえず、イベントを進行させるために指示には従ってみよう。ぼくの進路を妨害するものでもなさそうだし。
ぼくは慣れないガスマスクの着用に手を取られたものの、なんとか空挺兵用兵装を身にまとい、そのずっしりとした自分と遜色ない重さを抱えていることに耐えながら、よちよちと隊員用シートに向かい、ずしんと勢いに任せて腰を下ろす。
座ってじっと待っていると再びサイレンが響き渡った。
〈中佐だ。ポイント到達まで一分前である。第一種戦闘配置につけ〉
その通達を合図にシグナルの色が赤から黄に転じた。ついていた照明が落ちて、格納庫の中全体が赤色に染まる。〈なお、当機、「レッド・ドラゴン」はポイント通過後、空域から急速離脱する〉
この輸送機そんな名前だったのか。いかにもピーターパン症候群をこじらせたようなネーミングセンスだ。そういうところも誰かさんに似たセンスである。
ぼくは立ちあがり、ハーネスを後方から伸びた白いロープにかける。
ハーネスをかけた瞬間、ぼくはこの緊迫とした状況で今から大空にその身を投じるということがようやく強く認識され始め、途端に恐ろしくなった。そのハーネス一本で自分の命は繋がっている、今、足で踏んでいるはずの輸送機の底がいつのまにか無くなり宙に体が浮いているとさえ感じられた。メタ的なことをいえばこの自由落下は想像上、ひいては頭の中での行為にのみ完結するということを理解しているとはいえ、目に飛び込んでくる数々の映像には想像の域をはるかに超えたリアルさを孕んでいた分、やはり恐ろしくなり少しパニックに陥っているようであった。同時にこの落下は飛べば後戻りができないということを暗示しているように見えた。
〈そこまでしてお前は最深部を目指すのか?〉とぼくに詰問してくるような、覚悟の程を伺ってきているわけである。
受信官はぼくのガスマスクの中での呼吸音や心臓の拍動の音など微弱な音波ばかりを拾った。辺りに響いているはずの轟音よりもその小さな音がよくキャッチされた。
シグナルが黄から緑に転じる。それに伴って脳内に信号が送られる。
〈よし。ゾー少尉。お待ちかねの出撃だ。気張っていけ。お前さんは鳥だ〉
皮肉っぽい響きを帯びた信号だ。ぼくは恐る恐る、開かれたハッチの方に忍び寄る。自分が今、どれほどの高さにいるのかわからない。輸送機の中にいるとしても、空間的に自分自身の具体的な所在が不明瞭というのは怖いものだ。
ハッチから外を見るとところどころに
そろそろ飛ばなくちゃいけない。眼下に広がる、「空の海」に飛び込まなくちゃいけない。顔をハッチから覗かせる。足がわずかにすくむ。
若干身を引いたとき、ばっと鼻にあたらないくらいの位置を上昇する気流が駆け抜けた。それは一匹のタカだった。タカはどこからかやってきて輸送機と並んで飛んでいる。タカはその両翼をへし折られんばかりの突風にものともせず立ち向かっている。直じきに八の字を描くように飛んで風を翼にあたる時間を抑えるために分散させ始めた。飛べば意外と楽なのだろうか。パラシュートの操作さえ誤らなければぼくもタカと同じように飛べるだろうか。
まだ道の途中だ。ここでうなだれていても何も事態はうまく良い方向に進まない。
〈ゾー少尉。早くしたまえ。あとはお前さんだけだぞ〉
あの信号が背中をぶすぶすと刺すように急かしてくる。
――初めからぼくだけだってのに。
生唾をのみこむ。覚悟をきめた。震える手でハーネスを外した。
ぼくは勢いよく飛び出した。風を全身で受ける。鳥どころかこのまま風にでもなれそうだった。
頃合いでパラシュートを開く。ぐっと身体がパラシュートげ受けた風によって上に引っ張られ、そこでふっと意識が飛んだ。
少ししてから気が付いた。相変わらず、あの頭をガンガン揺らすような嫌な超音波もする。頭を振るとそれは雲散霧消に消えた。
〈ここは…〉
地面は思ったよりもふんわりと柔らかかった。どうやらぼくは仰向けになって着地したみたいだ。ぼくが落ちてきた衝撃で跳ね上がったらしい、雪のような白い粉が、きらきらとまるでダイヤモンドダストのようにきらめいて落ちてくる。
ここは少しさっきまでの場所と比べると暑い。からっと乾いた暑さだ。額に早速、玉のような汗が滲み始める。
自分の視界いっぱいには白色の空が広がっている。空が雲だらけだから白いと思うんじゃない。空は雲一つない快晴だ。
――意識が混濁しているのか?
空が白いだなんておかしい。でもどうしてだかはわからないけどたしかにそれが空であるとは認識できるのだ。世界の終わりのように奇妙な空だ。
黒い物体がそんな不気味な白さをもった空を斜めに横切っていく。
特徴的なシルエットからなんとなくわかった。ああ、あれはぼくが飛び降りた場所だ、輸送機だ。それはすぐに音を立てて視界から外れていく。
パラシュートの接続部を切り離す。重い装備を寝っ転がったまま脱いで、するりと身体を抜きゆっくりと腰を起こす。小火器なんかはその辺に投げ捨てた。スーツなどと同じく通気性がよいぶん、軍服は脱がず着用したままでいることにした。
ただ周りには際限なく、あの雪のような粉が堆積していた。手で
周りを見渡すべく這って小高い灰の山の上に登ってみる。
這いあがって瞬時に理解した。どうやらここら一帯は灰だけで構成された砂漠のような場所らしい。どこまでも灰が続いている。何もかもが生きている心地がしない。時間さえも死んでいる。昼でも夜でもない、もしくは昼であると同時に夜か。自分にはまるで合わない場所である。
目立った建造物のようなものは見当たらない。景色は大半の色を失っていて、白と黒のわずか二色でしか構成されておらず、さながらサイレント映画時代のようにモノクロの世界である。
地平線に水のようなものがきらめいているのが見える。よもや蜃気楼か。初めて見た。おそらく別称である「逃げ水」の名前が指し示すように近づけば消えてしまうに違いない。
あたりをくまなく観察していると、向かって右に灰の上にたしかに誰かが通った跡らしい、ぽつんぽつんと複数影になっている箇所があって、それがずっと可視範囲から外れて伸びているのを目の端が捉えた。
すぐさま灰に足をとられながらも、灰の山をサーフボードに乗っているかのように駆け下り、近くまで行って調べてみるとたしかに人の足跡である。サイズはぼくより少し大きい。それに綺麗に残っているのを見ると古いものじゃない、まだ新しい方なのがわかる。それでもこれを見落としていたら、風に吹かれてでもしたらきっと消えてしまっていただろう。
とりあえずこの足跡以外に何もないらしい。それは至極、わかりやすい。この正体不明の足跡の主が向かった先をひとまず目指してみるしかない。「言語史」のテキストは最深部にある。この足跡はたしかにそこまで導いてくれている気がする。
――『広場』で向かいたい方向に矢印がその尖端を
そう考えて自分を納得させないと心が落ち着かない。「セキュリティ」が正常に機能していることを見るにいくらなんでも他者が侵入してつけた足跡というのは発想の飛躍が過ぎるし、あまりにも考えすぎだろう。
足跡を辿ってぼくは歩き始める。いつのまにか昇っていた、黒色をした
汗を拭う。黒い焼き焦げたようなサボテンが五つほど生えている。目を近づけるとそれはただただガラクタを組み合わせただけのモニュメントであった。それがある一定の場所を境にいくつも積み上がっている。
サボテンの群れのように、「ガラクタ荒野」が広がっているわけである。ときどきある自然との融合をコンセプトにした美術館みたいである。
少し休憩しよう。ぼくは「ガラクタ荒野」から少し行ったところで座り込む。額の汗を手の甲で拭い、その手で軽く顔を扇ぐ。
ここまでかなりの距離を来た。
太陽がさっき沈んだかと思ったら月を介すことなくまた昇っている。やはり時間の経過そのものが存在しない。依然として足跡は続いていて、ぼくは思わず遠い目をした。
ふとここまでの道のりを確認しようと軽い気持ちで振り返るともと来た場所が砂嵐ならぬ灰嵐に飲まれていた。ぼくは呆気にとられる。中で稲妻がいくつも光っている。もし、あのまま足跡を発見できないまま、とどまっていれば巻き込まれていたかもしれない。
ここでうかうかしていると、灰嵐がここまで来てしまうかもしれない。先を急ごう。重い腰を上げてまた進み始める。
汗を拭う。
あまり休憩はできなかったが仕方ない。メタ的な発信をする余裕もない。それに最悪の事態として誰かがこの先で待ち受けていようとも、この『アーカイブ・ゾー』に、⑧に足を踏み入れた瞬間にはじまり、あの輸送機から飛び降りた瞬間完全に、ぼくは「後ろに退く」という選択肢を失ったのである。ここまで来て、もはや「言語史」を学ばないなんてことは考えらえないし、一切考慮事項として機能しない。
汗を拭う手を空中で止めた。汗は拭わない。前をしっかりと見つめる。
足跡が見える。また歩き始める。
途中、〈危険!〉と書かれた看板が立っていて、その奥には逆円錐型の溝があって底から二つの鋭い牙が生えていた。おそらく底にはアリジゴクのようなものが潜んでいるに違いない。くれぐれも足を滑らさないように気を付けなければ。
目に汗が染みて痛い。行けども行けども何も見えてこない時間は唐突に終わりを告げた。
五つの巨大な灰の山を越えた時、遠くにかすかに巨大な樹のシルエットが見え始めたのである。ぼくは思わず、笑みをこぼす。
――もうすぐだ。きっとこの足跡はあそこまで続いているんだ。
もう一つ巨大な山を越えると先にトンネルのようなものが見えた。それにざーっと大きな何かが落ちる音もここまで流れてくる。
最後に残っていた力で一気に駆け出し始める。近づくにつれて全体が見えてきた。
それはたしかにトンネルだった。巨大な世界樹のような樹を中心に円形に壁が立ち塞がっている。そこにぽっかりとトンネルが開いている。巨大な樹は空に向かって真っすぐと伸び生えていて、その
――樹皮からしてジャイアント・セコイアだろうか。
しかし、もうすでに枯れているらしい。『植物園』でもかつてここまで成長した樹はない。こんなに栄養素も
樹を取り囲む壁からはウォータースライダーのような巨大なパイプが等間隔に何本も並んでいた。そこから大量の灰が絶え間なく吐き出され続けている。これらがあのざーっという音の発生源に違いない。
トンネルの中は照明などなく真っ暗だった。
〈誰かいますか?〉
トンネル内に試しに信号を飛ばしてみる。信号は反響して、数秒経つと完全に消えてキャッチできなくなった。信号の反響継続時間的にどうやら、そこまで長くは続いていないらしい。すぐに歩いていれば向こう側に出られるだろう。
ぼくはトンネルの壁に手を添えて、ゆっくり歩き始める。地面は少し水が張っているようで、歩くたびに水の音が反響する。急に冷え込んだものだからびっくりしてしまった。完全に陽光が遮断されているからか、ここは驚くほど冷え込んでいる。汗腺が途端に引き締められ、さーっと汗が一気に引いていくのがわかった。
少し進み湾曲している箇所を壁に手をはわせて曲がると外の光がレーザーのようにぼくの胸辺りに照射され、さらにもう一歩進むとまぶしく、ぼくを包み込んだ。
目をやんわり薄めながら進んでいたが、どうしても我慢できず、トンネルを抜ける頃には瞼は完全に閉じてしまっていた。
第8話〈後ろには退けない〉おわり/第9話〈「朝びらき丸」〉につづく
※第9話の更新は諸事情により、9月3日の18:30となります
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