第4話〈向き合う決意〉

 ぼくは赤いシートに座っている。シートはぼくが座っているものの他に五席程度しかない。

――やけにこじんまりとした劇場だな。

 おそらくぼくの脳内にある記憶図書館『アーカイブ・ゾー』のフロア⑥にあたる『小上映館』に違いない。あることを思い出した途端に、無理やりここに転移させられるのは初めてだ。


 そのフィルムは全体的に赤茶色に汚れていてタイトルと識別コードは擦り切れていた。何度も繰り返し見た記憶だからか、はたまた意図があるのか、わからないがタイトルが消えている。そうとしても普通コードは残るからよっぽど古いものなのだろう。コードが確かでなければ、資料検索は不可能なので「館内紛失物」に割り当てられ、一年以上経過するとぼくの管理下から浮いてしまう。所謂いわゆる、「管理範囲対象外」になるわけだ。だからこんな状態になるまで、放置してしまう結果になった。


 そのまま映写機にフィルムはぴったりはまり、カラカラと乾いた音を立てながら回転し始めた。その反時計回りの回転はまるでぼくの人生が巻き戻っていくように映った。


 3・2・1とカウントダウンが終わると、映像が始まった。

 その映像が映写された途端、ぼくは画面に惹きつけられる。


 そこには夜の海岸が映った。

 ぼくよりすらりと長身の人物が波打ち際に、中腰になって砂に指で符号を書いている。それはおそらくヘイメンだった。ヘイメンは自分の名前を繰り返し書いてるみたいだ。

 月明りがとても綺麗で、波の音が心地よい。


 ぼくははっとする。そう、あれは10年ほど前、世界で唯一、原生林が現存するグュタペ島を訪れた修学旅行のこと。昼間には映像資料以外で初めて見た魚の群れや、野鳥の巣作りの光景に色とりどりの昆虫の行進。見るもの全てに感動を覚えた。


 でも何よりも印象深いのは島に泊ったあの日の夜。あの夜は格別だった。島の空気が澄んでいて、空に二、三個ばかり見えた星のまたたきに都会じゃ全く見えないからか、心震えた。 窓からそれを仰ぐことに飽き足らず、ぼくは親友のヘイメンとこっそり森の中にあった宿舎を抜け出して、さらにその森も抜けて、走って海岸まで行った。


 そこの砂浜でぼくは腰を下ろして、ヘイメンは波打ち際に立って、お互いマイペースにくだらないことから好きな異性の話、現状への不満を語りあった。ヘイメンはぼくの六歳年上だった。ぼくらの間で年齢の差は関係なかった。そりゃぼくより何倍もヘイメンの方が大人びていたけれど。


 ヘイメンは理知的で、落ち着きがあってまさに憧れの存在だった。どんなきっかけで出会ったとか細かいことは覚えてはいないけれど、たしかにぼくらは心が通じ合っていた。  


 すると突然、場面は現状への不満を吐露とろする箇所まで飛んだ。この間の記憶は再生できないらしい。経年劣化か何度も繰り返し見たせいか擦り切れているらしく、少し残念だ。ちょうど、ぼくが皆に「押しつけの教育」に対して疑問を呈した、と語り終えたばかりであった。


 映像はもちろん、ぼくの一人称視点から展開される。


 海水が目に染みたように映像の視界が歪んでいる。わずかに潤んでいるようだ。

 〈皆、一緒だと思ってたんだよ。共感してもらおうと思って、ぼくは必死に自分の考えを語った。傲慢ごうまんにも彼らからの賛辞すら期待していた〉

 当時のぼくは弱々しく放つ。1オクターブ高い部分もあって信号変わり前の幼い信号だ。細い膝に回し抱え込んだ、腕はぎゅっと強く引き締められた。ぼくは小さく丸まってしまって、まるで多くの穿った目や投げかけられる信号から身を守るようだった。

 ヘイメンはさっきとは姿勢を変えて、ズボンのポケットに手を突っ込んで、なぎさたたずんでいた。月明りでもわかる栗色の髪が風にさらさらとなびいている。目はぼくの方を向いてはいなかったが、それは無視をしているわけではなく、意図的に視線をずらしているようだった。


 〈おう。でも期待は外れちまったわけだ〉

 ヘイメンが先を読んでそう告げた。残酷ながらもそうだった。

 でも逆にヘイメンが先に代弁してくれたのは有難かった。自ら自分の現状に向き合うことは、当時の心境ではできそうになかった。

 だからぼくは自分の気持ちを一気に発信してしまわずに、最後は信号を濁したのだろう。


 〈そうさ。熱く語っていたときは見えなくなっていたけど、彼らは、はなっからぼくの信号を享受するために、受信官の部位を割く余裕を持っていなかったんだ。あれは恥ずかしい経験だった〉

 ヘイメンはそうぼくが発信し終える前に、ぼくの側まで寄ってきて、ポケットから手を抜き出すと右隣に腰を静かに下ろした。意図したのかはわからないがぼくとまったく同じ姿勢だった。

 〈……ほーん。恥ずかしかったのか?お前は〉

 ぼくの表情を窺うように覗き込みながらヘイメンがそう訊いた。


 〈そりゃそうさ。恥ずかしかった。交信を拒絶する彼らからすれば、ぼくはまるで見当違いな信号を拡散する危険思想者に過ぎなかったわけだからね〉

 〈そいつは違うぞ。ゾー〉

 間髪入れずにヘイメンは否定した。え?、とヘイメンの方を見るといつもの曇りのないまっすぐな緑の眼が見えた。吸い込まれそうな綺麗な目をしている。信号にもしんが感じられた。それは単なる気休めではなく、心から発せられた信号に感じられた。

 〈え?何がさ?〉

 〈お前がしたこと、別に恥ずかしいことじゃないって言ってんだよ〉

 このシーンか。この「グュタペ島での思い出」を想起させるきっかけとなった信号。絶大な影響力を誇る。ぼくを包み込むような優しい信号。

 ぼくは視線を逸らし、膝に顔を埋める。そして、今にも消えてしまいそうな信号を絞り出す。

 〈……いや、でも恥ずかしいよ。自分のことだけ見詰めて、周りが見えなくなって、ぼくひとり熱くなって……馬鹿みたいだ〉

 ヘイメンはぼくの肩に手を回した。当時のぼくは驚いていた。ヘイメンは信号だけに留まらず、肉体的にも寄り添ってくれている。心と身体の同時にヘイメンのぬくもりを感じられた。

 〈いいか。お前が思うその理不尽な現状を変えることを諦めたとき、あるいは断念せざるを得なくなったときに初めてそのことを恥ずかしいと、思うようになれ〉

 全身の毛がぴんと張るのを感じた。ぼくは顔を上げる。こくり、こくりと大丈夫だと発信し聞かせるように頷いてからヘイメンは続ける。


 〈誇りになるかもしれないじゃねえか。お前が未来を変えられれば過去の自分を、お前は正しかったんだぞって手放しに褒めてやれるじゃねえか。そこまで真摯に訴えてきたなら単に駄々こねてるわけじゃないんだろう?現時点でお前は間違ったことはやっちゃいない。ただ、まだ思想段階なだけだ。本当に不満があるならそれを変えるために動け。それがお前がなすべきことだ〉

 そこでヘイメンは一呼吸置く。ここまで近い距離だと従来の交信よりも、ヘイメンの信号が受信官にダイレクトに届いてきている気がする。波の音だとか鳥の鳴き声、他の雑音だとかが全て排除されて、ぼくとヘイメンだけの二人の世界が作られていた。

 当時のぼくは一分も信号を送り返す余裕がないようだった。ただ、自分がやったことが恥ずかしいことではない、というヘイメンの励ましに安心し勇気づけられていていた。同時にそう表明したからには現在の社会の方針に真っ向から立ち向かっていかなければならないという責任を自覚しているようでもあった。


 〈でも一旦、つらい現状を受け入れる必要もある。嫌いなものや反りの合わないものとも無理をしない程度に、何とか向き合ってみなくちゃ見えてこないこともある。だからときには矜持も捨てて受け入れろ。それがお前が生きてる現実なんだから。切羽せっぱ詰まった段階でようやっとお前が現状を受け入れたとしても、それがお前が自己の利益を優先するあまりの行動だったとしても、現状に屈し迎合したなんて思うな。受け入れるってのは迎合することと意味合いが違う。きっかけがどうであっても、現実を見るってことは断じて恥ずかしいことじゃない。不平不満を撒き散らしたって今は今だ。今は俺もお前もちっぽけだ。今は変えられねえ。だから変えるんだ。未来を。未来ならきっと変えられる〉

 ヘイメンの本気の、魂がことごとくこめられた信号が続く。次第に信号の末尾も強くなっている。ぼくのために、そして自分のためにもヘイメンは一生懸命にぼくに信号を送ってきてくれているのがわかった。

 当時のぼくの中で劇的な変化が生じている。初めはぱちぱちと線香花火のようなものだったが、どっと大火に変わってぼくの心は熱い。全身がわなわなと震えて、さっきよりも視界が一層、潤んで興奮冷めやらぬ感じだ。ただヘイメンの信号に受信官を澄ませて、その信号の配列を噛みしめていた。

 ぼくもヘイメンの肩に手を回した。ぼくよりも広いヘイメンの肩幅にはじかれぬよう精一手を伸ばした。

 〈安定した進路を歩むことも躊躇うな。早い段階で用意されたルートからあえて逸脱する必要なんてない。逆にそいつを利用してやれ。社会を変えるための野望を持ってんだ。実績がなければお前の一信号、一信号に説得力も生まれない。それに知識がなければ人を納得させるような提案をすることは不可能だ。一人前になって初めて自分の意見を通せるようになるんだ。だから文句ばっか垂れてないで、不満だらけでもがむしゃらに生きろ〉

 ヘイメンの意見は理論的ではある。また極めて現実的な部分に裏打ちされている。まさにヘイメンが考える、「生き方」そのものであった。やっぱり、ヘイメン自身も自分が進む方向を再確認しているようでもあった。自分はこの「生き方」が正しい、と思うからお前もついてきてくれ、とばかりの怒涛どとうの信号の波だった。

 〈ありがとう、ヘイメン〉

 ぼくは自然と感謝の信号が漏れ出ていた。

 〈気にするな。でも肝心なのはお前はお前だ。俺の忠告は少々、酷だし、お前の考え方とは正反対だしで将来変に思い出したりでもしたら、お前をかえって困らせるかもしれない。そのときはすまん。そのときの判断はお前に任すよ。お前はできるだけオリジナルな方がいい〉

 それまでとことん現実を見ず、「トラウマ」を避け、「押しつけの教育」へ反抗してきた自分に対し、不満だらけでもそこにある現実を見る視点を授けてくれた。

 かつての考え方との相違にぼくは当惑の色もあったとは思うが、ヘイメンの最終的な判断はぼくに委ねるという、自分に最も寄り添った信号は、当惑をほぐしてくれた。

 〈俺だって現実に不満は山ほどある。やりたくないことだっていっぱい、いっぱいある。でも、現実を受け入れて、それをやらなくちゃならないのが大人になるための第一段階なんだ。大人への移行準備だと思って焦らず少しずつでもいいから、やりたくないこともやってみないか?ゾー〉

 ヘイメンのにかっと爽やかな笑顔が見えた。

 ぼくもきっと、このとき笑ってた気がする。


 フィルムの再生が終わった。


――ヘイメン。なぜ君のことを忘れていたのか……。甚だ疑問でしょうがないよ。君ほどの親友を……。

 これが初めてじゃないということも感覚的に同時に蘇った。君の言葉に何度救われたか、数えきれない。具体的なことはきっと時間をかけて思い出していけるだろう。

 ちょっぴりだったけど、たしかにヘイメンが送ってくれたメッセージを覚えてはいた。ちょっぴりでもはっきりとぼくの血肉になっていた。なんとか顔向けはできるかな。 に忘れ去らなくてよかった。現代人は0.1秒さえ時短を要求するけど、そんなに早まらなくたっていい。  


 あのフィルムはたしか三か月前から、『アーカイブ・ゾー』のフロア⑨にある『焼却炉』で「焼却候補棚」に並んでいたものだ。もわからなければコードも読めない。どうせ定期的な「自動忘却機能」が働いたんだと思って、いつもは余裕なく、燃やしてしまうところを違和感がして燃やさずにそのままに留めておいた数点の中のひとつ。こんなに大切な記憶だったのか。

 だがなぜ厳重に『保管庫』にも置かず、粗雑に扱われていたのか疑問も残る。幼き頃の記憶だから判断が難しかったからだろうか……。  


 タイトルを『ヘイメンとの最高の思い出』と新たに命名すると、フィルムはぼくの頭の中から風に灰が煽られて崩れ落ちるようにして消えた。「管理対象範囲外」から外れたからどこかにいったらしい。


 ぼくは現実で目を開く。

 ぼくの右目からこぼれた涙が頬を伝って、流れ落ちた。  


 オリジナルな自分ならちゃんと持っている。これからも「押しつけの教育」に妥協するつもりはない。もっと大きな舞台でこの信号を飛ばすんだ。不満を吐いて心を楽にするためじゃない、はっきりと変えたいという意思を持って。でもそのためには、ヘイメンの考え方に倣うことが先決だ。それでやっとピースがはまる気がする。嫌なことでも向き合う意思が大切なのだ。  


 あのとき、ヘイメンに相談していなかったら、ぼくはずっと盲目なまま、周囲の人間たちに絶望しながら、藁にも縋る思いでリアルやネットに関わらず、説得力もない独りよがりな意見を拡散するにとどまり、果てはそんなことも諦めて本当の恥ずべき行為として過去の発言の数々は一生ぼくについて回っただろう。それこそひとりでいると何の気なしに、あの恥ずかしさ、あの記憶が蘇り、過去の自分を褒めるどころか、反対に激しく憎んでいたに違いない。そんな事態をなんとか脱却できそうな状態にまだ留まっている。

 ここが人生の転換点だとは思っていない。それでもこの一歩は小さなものだが、積み重ねていけば大いなる一歩に化ける可能性を孕んでいるのだ。  


 『言語史』


 そんなに嫌な信号は飛ばしちゃいないかな。いや、やっぱまだちょっと嫌だな。「トラウマ」なんだ。今、改めてヘイメンの説諭を噛みしめたってすぐにオトモダチになれるわけがない。  

――ぼくなりに向き合ってみることにするか。


 この町が夜の底に沈んでから約3分が経過し、ただいまの時刻は20:03だ。時間なら夜明けまで約8時間ある。  


そしてぼくは再び自分の「トラウマ」と向き合うことを決めた。


第4話〈向き合う決意〉おわり/第5話〈ようこそ『アーカイブ・ゾー』へ〉につづく

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