灰色の目の芸術家
石田空
それでもあなたは美しい
私にとって世界はゴミ捨て場となんら変わりはなかった。
母が連れて行ってくれた美術館で素敵だ綺麗だと賛美される、モネもゴッホもダ・ヴィンチも、私にはクレヨンで描き殴ったようにしか見えず、美しいと称される庭園を見に行っても、路地裏の喧騒のほうが美しく感じられたのだ。
私は自分が美しいと思うものを描いてみた。
描き上がったスケッチブックを、母に見せてみた。
母は私の絵を見たあと、人差し指を当ててこう言った。
「この絵は決して誰にも見せては駄目よ」と。
意味がわからなかった。意味がわからないまま父に見せて、その理由を悟った。父は私のスケッチブックを何も感想を言わずに破り捨ててしまったのだ。
「こんなくだらない物を描くのはやめろ。もっと見たものそのままを描け」
いったい私は何がそんなに駄目なのだろうと思った。途方に暮れた私を見た母は、人差し指を当ててこう教えてくれた。
「描きたいものはこっそりと描きなさい。人に見せるものは、お父さんの言った通りに描きなさい。あなたはその才能があるのだから」
最初は意味がわからなかったが、私は母に言われるがまま、私が美しいというものは、私のスケッチブックに密かに描いた。
父に見せるものは、庭の木々を写生して描いた。私の家の庭は大層殺風景なもので、木の枝がぼうぼうと伸びきって、その不細工な枝にはぱさぱさとした枯草が絡まっているのだ。こんなものを描いてまた父にスケッチブックを破かれないだろうか。そう思って恐る恐る描いたものを父に見せた。
前に絵を見せたら途端に顔色を変えてスケッチブックを破かれてしまったのに、この絵を見た途端に父は態度を変えた。
「お前は天才か」
そう言って父はやけにごたごたとした額縁を買って来ると、私が不細工だと思った絵を飾ってしまったのだ。私にはさっぱりわからなかった。
父がおかしいのだろうと最初は思っていたが、どうもおかしいのは私のほうだと気付いたのは、しばらくしてからだった。
私が恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ない不細工な絵は居間に飾られたと思ったら、その絵を見て父の客人が次々と褒めそやしたのだ。
「お坊ちゃんは才能がありますね」
「将来はさぞかし有望な画家となることでしょう」
「本当に素晴らしい絵です」
いったいこの絵の何がそんなにいいのか、私はひとりになって何度も何度も絵を見たが、どう見ても不細工な庭が描かれているばかりで、理由がさっぱりとわからなかった。
やがて、父の客人は次から次へと、私の絵を求めるようになった。
母に相談すると、母は「お父さんが喜ぶ絵を描きなさい。あなたの描きたい絵は決して誰にも見せては駄目よ」と静かに言うばかりである。
私は父に言われるがまま、父の客人の求める絵を描くようになった。
「なんと素晴らしい絵なのか、床の間に飾るにふさわしい!!」
痩せっぽっちの馬を貧相な犬が襲っている絵の、いったいどこが床の間に飾るのにふさわしいのかがわからなかった。
「美しい妻の肖像画をありがとう」
どう見ても醜く痩せ衰えた女性の絵をこの人は飾る気なのだろうか。
「あなたは最高の芸術家です」
こんなに醜い絵ばかりを量産する、私のいったいどこが最高の芸術家なのか。
やがて私は、醜い絵ばかりを求められるようになった。
父の客人はさらに客人を招き入れ、その客人がさらに醜い絵を求めるのである。私はいったい何を描いているのかが、だんだんわからなくなってきた。
私が醜い絵と格闘している間に、母は病気でなくなってしまった。
ただ醜い世界の中で、母だけがただひとり、私の本当に描きたいものをわかってくれる人だったのに、私は本当に途方に暮れてしまった。
気付けば、私はどんどんと醜い絵に溺れ、周りもどんどんと醜くなっていくことに気付くのだ。
私に絵を描かせる父も、私の絵を注文しにくる客人も、私の描き出す、特に描きたくもない絵も。世界も。
全ては濁って見え、いったい何がそんなに美しいのか、私にはわからなくなっていった。
そんな私にもただひとつだけ心休まる時がある。
絵を描いてくたびれてしまった時、ひとりでスケッチブックを持って外に出かけるのだ。スケッチブックには私が美しいと思う絵に溢れ、私が唯一美しいと思えるものであった。私が見る世界の全てが濁ってしまい、もう美しいと思えるものは、私のスケッチブックの中にしか残っていたのだ。
外を見れば、灰色の濁った水の噴水が湧き出て、そこをぶくぶくと太った醜い人々が闊歩している。私の描かされる絵の中の住民と同じような姿の人々が歩いていることに、私は愕然とした。いったいいつからこんなに世界は醜くなってしまったのだろうか。
思えば、私と手を繋いでくれた母。彼女だけは美しい人であり、彼女と見る光景だけは美しいものであった。
私はスケッチブックを広げて途方に暮れた。
もう、私は父に言われるがまま、描きたくもない醜いものを描き続ける以外に道はないのだろうか。そう思うと指先が震え、持っていた鉛筆が転がり落ちてしまった。
「落ちましたよ」
「ああ……すみません。あ」
私の指から転がり落ちた鉛筆を拾ってくれた人を見て、私は雷で打たれたかのような衝撃が走った。
世界は醜く、灰色に見えるのに。
彼女にだけは色がついて、痩せっぽちでもなければぶくぶく太ってもいない、美しく清らかな人に見えたのだ。
彼女みたいに美しい人は母……いや、母以上に美しい人を、私は今まで見たことがなかったのだ。
「どうかなさいましたか?」
彼女はその白くしなやかな指で鉛筆を持ったままこてりと首を傾げる仕草に、私は言葉を詰まらせてしまった。
なんとかしないと、きちんとお礼を言わないと。そう思っても、もしここで鉛筆を受け取ってお礼を言ってしまったらきっとこの美しい人はすぐに私を置いていずこかへ消えてしまう。こんな醜い世界にただひとり美しい人が離れてしまうのは、私にはただ、耐えられなかった。
「──を」
「はい?」
「あなたの絵を、描かせてください。一生懸命、描きます」
「まあ」
鉛筆を持った美しい人の頬に朱が差すのを見て、私は生まれて初めて、心から満足のいく絵を人に捧げることになったのであった。
やがて、私と彼女は公園で待ち合わせをし、絵を描いてそれを見せては、将来について語り合うようになった。
彼女はこの公園に家を持って住んでいる人であり……こじんまりとした絵本のような家に住んでいる人だ……、私の醜い家についても知っている人であった。
「私はあなたにふさわしくないわ」
そう言って小さく首を振る彼女は、初めて出会う謙虚な人であった。私は大きく首を振った。
「私があなたがいいと決めたのです。あなたは堂々としていればいい」
「でも……あなたの家族をきっとがっかりさせてしまうわ」
「大丈夫です。私はあの家が好きではないのです。あなたのためだったら全てを捨てていける」
「でも……」
なんと心の美しい人だろう。私は自信を持って、彼女を連れて家に帰ることにした。
彼女とふたりで歩いていると、人が驚いたように目を見開いてこちらを見るのが見えた。彼女の美しさにきっと皆驚いているのだろう。それこそ絵本の王女のように。私は堂々としているのに対して、彼女はただ小さく首を振った。
「私はあなたにふさわしくないわ」
「そんなことは全くない。あなたがあなたのままでいるのが、私には一番いいのです」
「本当に……よろしいのですか? 私はあなたが悲しむのを見たくはないわ」
「私の幸せは」
まだ私の手を拒む彼女の手を、私は力強く握った。
彼女の手は魔法の手で、彼女のつくりだすものはどれも素晴らしくおいしい。それを公園に住んでいる人々に配っているのだ。
「私の幸せは美しいあなたと一緒にいることです。あなたと共に喜びを分かち合い、あなたの悲しみを分かち合い、共に幸せになるということです。だからあなたがあなたのままでいるのが一番の私の喜びなのです」
「本当に、よろしいの?」
「あなただからこそいいのです」
そう言い切った時、初めて彼女は本当に嬉しそうに笑ってくれた。私は彼女の笑顔にどれだけ救われただろうか。私にも自然と笑みが零れる。
しかし──父はどうしてこうも醜いのか。
「こんな女と結婚なんて認めない。結婚したいというのなら今すぐここを出て行け」
「わかりました」
それが、彼女と結婚する前に、最後に父と話した会話である。
彼女は心配したけれど、何も怖れることはない。私は最高に美しい人と一緒にいられることとなったのだから。
そして、彼女の家に一緒に住むようになった。
私が家から持ち出したものは、スケッチブックと鉛筆だけ。私はスケッチブックで絵を描くと、彼女はその絵を家に貼ってくれた。
「素敵な絵ね」
「ありがとう。美しい人」
彼女とふたりで、幸せに暮らした。
──ああ、人生は美しい。世界が醜く見えるようになったのは、きっと彼女と出会うためだったのだと、私は確信した。
****
その年、異常気象により例年よりも雪の積もる冬となった。
その寒い冬に、新聞に小さな記事が刻まれた。
『有名芸術家がダンボールハウスにて遺体で発見』
新聞にはその芸術家の過去作品の紹介と共に、彼がある日を境に行方不明になり、捜索されていたという話、彼の絵は全てオークションにかけられることになったという話が書かれていた。
一部ニュース番組ではこのニュースをドキュメントコーナーにして、どうして彼がいなくなったのかの論争が繰り広げられている。
彼の描く絵は全て美しく素晴らしいもので、そんな彼がどうして公園でホームレスになっていたのかの議論は芸術評論家たちの中で密やかに繰り広げられ続けている。
彼がホームレス時代住んでいた時に描かれた絵の全ては路地裏や公園の絵で、地味だが評価が高く、これらは無料で美術館に寄付されることとなったらしい。
ただ、彼の心の内を推して知ることは、誰もできなかったのである。
<了>
灰色の目の芸術家 石田空 @soraisida
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