stage.22『ヘレナさえいなければ』
『ヘレナさえいなければ』
ズタズタに傷ついた心に一瞬、許されざる考えがぷかりと浮かんだ。青空は自分自身を絞め殺すようにブレザーの胸元を握りしめる。
「ごめん、リンドゥ……。帰る」
――青空……。
笑いあう二人に背を向けて、青空は日の暮れた散歩道を歩き出した。街灯に照らされた小さな背中は道に迷った幼子のように震えている。
涙は出なかった。今はただ、自分のことが憎くて仕方なかった。なにもかもを置き去りにしたくて二人が見えなくなるまでまで足を踏み出す。騒ぎに集まってくる人々に逆らい、とぼとぼと歩く友人を向日葵が見つけて、手を振った。
「ア~オ~ち~ん!」
向日葵が笑顔で駆け寄るが、青空は俯いたまま気付きもしない。
「アオちん……? どしたん?」
ただならぬ様子にそっと肩を揺さぶると青空はゆっくりと顔を上げた。
「ヒマ……」
光を失い空虚に見開かれた瞳に、じわりと感情が滲んで月の輝きを反射する。
「大地っ……が……ヘレナの頭っ……撫でててっ」
つうっと一滴が零れ、震える唇を濡らした。一度零れたら、あとはもう止められない。
「わたし……いやな気持ちになっちゃったぁぁっっ」
青空は叱られた子供のように泣き始めてしまった。嗚咽を洩らす少女の髪を向日葵の手が優しく撫でる。
「アオちん……」
「ぶじっで……嬉しかったのにぃっ、『ヤダ』って思っちゃったぁぁっっ!!」
懺悔を絞り出す少女をまっすぐ見つめて、向日葵はいたずらっ子のように笑った。
「いいじゃん」
「ふえぇ?」
きょとんと見つめる子羊を向日葵は抱きしめ、耳元で囁く。
「あーしさ、ミーとユーがキスしてるとこ見ちゃったんだよね」
不自然に明るい声は強がるように震えていた。青空は目を見開き耳を澄ます。
「でさ、めっちゃモヤモヤして、わけわかんなくなって……海に向かって叫んだりなんかしちゃったり?」
向日葵の胸に包まれた青空は、彼女の鼓動を、体温を、全身から仄かに漂う金木犀の香りを感じた。心が安らいでいく。
「そんでもういいやーって笑ってた。ウケるよね」
「なっ……んでっ?」
「だって仕方ないじゃん? あーし二人ともめっちゃ好きだし!」
自分に言い聞かせるように紡がれた言葉は、言い訳でしかなかった。だからこそ、自分自身に突き立てたナイフを取り上げることができる。青空は親を見つけた迷子のように泣きじゃくった。
「うわぁぁぁあああんっっっ」
「よしよ~し……アオちんは悪くないよ」
アクセだらけの腕が、赤子をあやすように優しく頭を叩く。
「それでもしんどかったら……ぱーっと遊ぶしかないっしょ。あーしも付き合うからさ☆」
「うんっ……あそぶ~~っっ」
人目も気にせず抱き合う少女らを月光が見守っていた。行き交う人々は心配そうな視線を送りつつも通り過ぎていく。だが、深紅のサイドテールの少女だけは眉を引くつかせて立ち止まった。
「アオ……さん?」
聞き覚えのある声に振り向くと、滲んだ視界に潮風に揺らめくセーラー服が映り、青空は目を丸くする。
「あかね……ちゃん……なんで」
「家この近く……で……」
青空の泣き腫らした顔を見て、
――おや、部活帰りかいトワ。おかえり。
「は・な・れ・ろ~!!」
茜は四角いスイミングバッグを放り出すと、リンドゥには目もくれず、二人の間に割って入った。そのまま襟を掴んで20cm以上背の高い向日葵の顔をつま先立ちで覗き込む。
「アオさんにぃ……なにしてるんですか~??」
一触即発の緊張が走る……かと思われたが、ちんちくりんな
「なにこの子ぎゃんかわなんですけど~!!」
「もがっ!」
向日葵に抱き着かれ、哀れにもサイキョー山脈に吞み込まれた茜は腕をばたつかせてもがいている。
「ちっちゃ~い! アオちんのトモダチ??」
――ああ、その子もアイゼツティアだよ。
「まじ!? あーしと一緒じゃん☆」
ニコニコの向日葵の胸に茜は沈み、だらんと腕を垂らして動かなくなってしまった。突然の惨劇に、青空は思わずくすりと笑い目尻を拭う。
「ヒマ、離してあげて」
「あ、ごめん! 苦しかったっしょ!?」
向日葵が慌てて腕を開いた瞬間、小さな影が飛び出して青空の腕にしがみついた。目をくの字にした茜は向日葵を指差した腕をぶんぶん振っている。
「なんなんですかぁ! このひと~!!」
「あはは……びっくりしたよね。でも大丈夫だよ」
青空に撫でられながら低く唸り声をあげて睨んでいる姿は、さながら小型犬のようで愛らしかった。
「ううぅ~……でもアオさん泣かせてた~!」
「違う違う、トモダチにそんなんしないって! あーしは正義の味方だし☆」
向日葵はティアリングを嵌めた手をかざしてウインクするが、茜は怪訝な視線で応える。
「ふ~ん……?」
「そんな睨むなし……仲良くしよ~よ~」
ひしっと青空に掴まって目を細める茜に、向日葵はしょんぼりと眉を下げた。かと思えば目を輝かせて手を叩き、仏頂面の少女に詰め寄る。
「あ! じゃあさ、あーしらと一緒に遊び行く!? いーよね、アオちん!」
「もちろん! あかねちゃん、一緒に行こう?」
唇を尖らせる茜だったが、穏やかに微笑む青空を見上げて僅かに頬を緩めた。
「アオさんが行くなら~、行ってもいいけど~?」
「ほんと!? じゃあ日曜ね、ちょー楽しいから☆」
満面の笑みを浮かべた向日葵に手を握られると、茜はそっぽを向いてしまう。だが、口の端はちょっぴり上がっていて、そんな二人を見た青空もまた、晴れ渡るような笑顔を浮かべた。
「ふふ、ありがと……二人とも」
鈴を転がすような笑い声が星空に散っていく。青い髪をなびかせた少女の心はほんの少し重荷を手放すのだった。
♡ ♥ ♡ ♥
人間を閉じ込めた培養槽が並ぶ、薄緑色に照らされた地下室で触手に埋もれた眼球が妖しく光る。
「あ、またヒビが大きくなったワ……ボス……」
バルバロは丸一日、真っ黒な卵を見つめていたのだ。ぎいっと鉄の扉が開く音がして二つの影が近づいてくる。
「まだ見てた~んで~すネ!」
声の主は頭部から生えた細長い
「レーヴェ……とルデンちゃン。おかえリ」
レーヴェと呼ばれた怪物の隣では、黒いローブに全身を包んだ人物が、おどおどと頭を下げている。
「た、ただいま……戻りました」
「上の人間たちはど~かしラ?」
「は、はい……ポジティヴィウムの増加、順調です」
「も~パンパンに肥え~てま~すヨ!」
愉快そうにレーヴェが手を叩くと、腕から伸びる湾曲した角がギラリと輝いた。その仕草にバルバロが瞳孔を細めたとき、深淵から這い上がってくるような嗤い声が響く。
「フハハハハ! 素晴らしい!!」
まず、バルバロが触手を躍らせた。次に、レーヴェが角を撫でつけた。ルデンは生唾を呑み込み見つめた。そして、黒曜石の
「では……計画を次の段階に進めよう」
ヒビだらけの黒い殻から聞こえる声は愉悦に震えていた。
「
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