予期せぬ展開

立入禁止

予期せぬ展開


「橋詰さん、お仕事中すみません。書類ができましたので確認をお願いします」


 屈託の無い笑顔で言ってきたのは、五つ下の後輩の田中さん。

 その田中さんは、私が絶賛片想い中の相手だった。

「わかった。あとで確認して返すわね」

 内心穏やかでは無いが、大人の余裕ぶりを見せたくて落ち着いた雰囲気で受け応える。

 頭の中は、人には見せれないような事ばかり考えているが、バレなければ問題は無い。

 自分の仕事も一段落つき、田中さんの書類も丁寧に確認して問題もなかった。

 田中さんのもとへ書類を返しに行くと、田中さんは不在で。

 仕方なく、田中さんの隣の席にいる同期の木嶋に聞いてみると、会議に行っているとのことだった。

「あと少しで来ると思うから座って待ってれば?」

「えっ?」

「ん? どうした?」

「いや、なんでもない」


 ……なっ、なんですって!


 私が、あの天使のような田中さんの席に座っていいと?

 頭の中は気持ち悪いことばかり考えているのに、それがだだ漏れして椅子とか汚しちゃったりしない?

 本当に座って大丈夫?

「本当にどうしたー? 立ってると疲れるでしょ。座って待ちなよ」

 木嶋が座っていいと言ったのだ。私が勝手に座る訳では無い。

 脳内で言い訳を繰り返しながら、田中さんの椅子に座ることにした。

「そうね。待たせてもらおうかな」

 木嶋とは冷静に、慌てずに、落ち着いて話せていたはずだ。

 ドキドキしつつも、そっと優しく椅子にお尻をくっ付ける。


 うわぁぁぁぁぁぁぁ……。


 関節イッス。

 これが世に言う関節イッスなのね。

 お尻から、幸せが運ばれてくる感覚に身悶えしてしまう。

「えっ、どうしたの?」

「ううん。なんでもないよ。ところで会議ってなんの会議なの?」

 動揺を悟られないように、別の話題を振る。

 返ってきたのは、他の部署との合同企画のプロジェクトらしい。今回は勉強として参加しているということだ。だとしたら、勉強という名の補佐役みたいなものだろう。

 木嶋と仕事の話からそうでも無い話をして、わちゃわちゃとしている間も田中さんはなかなか戻って来なくて。

「まだかなぁ……」

 ため息混じりに呟くと、隣で木嶋が笑っていた。

「くっ、ふふっ。恋人待ちかよ」

「なっ、ちっがうし。田中さんに失礼でしょ」

「まぁまぁ、照れるな照れるな」

「だからっ、」

「なにを楽しそうに話してるんですか?」

 木嶋にからかわれているところに田中さんが帰ってきた。

「田中ちゃん聞いてよ。橋詰が恋人を待つみたいに待っててさー」

「もうっ! 田中さんに誤解されるでしょ。田中さんもごめんね。こいつ、すぐに人をからかって楽しむ悪趣味なところがあるのよ。肝心の書類だけど、どこも不備はなし。大丈夫だったよ。じゃあ、私は戻るね」

 田中さんに目的の物を手渡して、帰り際に木嶋を睨みつけるが、木嶋には「そういうのは喜んじゃうから逆効果だよー」とケラケラ笑われて余計にイラついた。

 どっと疲れつつ自席に戻り、業務を再開する。

 なんやかんやとあったが、問題でもなく定時までにスムーズに終わり、帰り支度を済ませてエレベーターを待っていると。

「お疲れ様です。橋詰さんも帰りですか?」

「あっ、お疲れ様。そうそう、今から帰るところ。田中さんと一緒だよ」

 仕事が終わって、げっそりな私とは違い爽やかなままの田中さんが隣に来て一緒にエレベーターを待つ。

「今日は課長に捕まる前にと思って頑張っちゃった。早く帰らないと帰れなくなっちゃうからね」

「課長、平気で仕事持ってきますもんね。橋詰さんと定時で会うのって久しぶりですね。あの、良かったら駅まで一緒に帰りませんか?」

「いいよいいよ。随分と久しぶりだもんね。一緒に帰ろっか」

 嬉しいお誘いに、さっきまでの身体の重さが軽くなった気がした。

 一緒に帰るのは、田中さんが研修中の時以来だと思う。

 指導員という立場だったからこそ、一緒に帰る日もあったのだが、田中さんが独り立ちした今は一緒に帰ることは滅多になかった。

 今日は、田中さんと所々で関わることが出来て幸せだ。

「あっ。橋詰さんって、私の隣の席の木嶋さんと仲がいいんですか?」

「えっ、木嶋。仲がいいというか、木嶋とは同期でね。まさか田中さんの隣にいるとは思わなかったけど、席替えしてたんだね」

「そうなんです。席替えはこの前したばかりなんですよ。木嶋さん、なにかと優しくしてくれるし、色々と教えてくれるので頼りっぱなしなんです」

「仕事に対しては真面目だからね。でも木嶋に何かされたら言ってね、田中さんのことは私が守るから」

「誰にでもそういう風に言ってるんじゃないんですか」

「ううん。田中さんだけだよ」

 冗談っぽく言ったが、内心は本気で思っていることだ。

「ありがとうございます」

 けど、なんだか田中さんの顔色が浮かない様子で。

 私の発言が気持ち悪すぎたか……。

 どこかで心の声がだだ漏れだったりしてないか、と不安になってしまった。

「あのっ、」

「な、なに……」

「橋詰さんって、人たらしですよね」

「は? えっ? それは、よくわからないんだけど」

 人たらしとは。

 多くの人に好かれるとかの意味合いの方だよね、と変に焦る。

 特に悪いことをしているわけでもない。けど、田中さんは少し恨めしそうな目つきで私を見ているので、蛇に睨まれた蛙はこんな気分なのかなと場違いなことを考えていた。

「橋詰さんは、誤解されたくないかもしれませんけど、思わせぶりなことばっかり言われると、意識しちゃいますから……。その、あまり期待をさせるのはやめてもらっていいですか」


 なんだそれはっ!


 困ったような気まずそうな表情で伝えてくれるが、私としてはなんら困ったことなんてない。

 なんなら、思う存分に意識してくれていい。

「すみません。今、言ったことは気にしないでください。あっ、私は向こうの改札なので。お疲れ様でした」

 私が黙っていたからか、迷惑をかけたと思ったらしくよそよそしく離れていってしまう田中さんを、このまま帰してはダメだと思い、咄嗟に手を掴んで引き止めてしまった。

「あの、ごめん。けど、今田中さんを帰したくないなって。その、時間があればだけど、これからお茶にでもどう、かな」

 私の言葉に、田中さんは少しだけ怒った表情をしている感じだった。

「だから、そういうところが勘違い、」

「勘違いしてもいいから。というよりもしてほしい」

 慣れないことをしてせいで手汗が一気に出てきたし、心臓も爆速だ。

 話を咀嚼して理解してくれたのか、田中さんは何か言いたげに口を開いたり、閉じたりとしているのを固唾を飲んで見守ることしか出来なかった。

「ど、うでしょうか?」

 長いようで短い沈黙に耐えられなくて出た言葉は、情けないことにどもってしまった。

 ここでスマートに決められたら、どんなに格好良かったか。

「お茶だけなんて嫌です」

 ふわっと花が開いたかのように笑った田中さんに、目が奪われてしまう。

 私が固まっている間に、掴んでいた手は離されて、また繋ぎ直された。

「期待させた分、責任取ってくださいね」

「……あっ、はい。喜んでっ」

 どこかの居酒屋さんのような返事に、田中さんはお腹を抱えて笑っているのを見て、私もつられて笑ってしまった。

 頭の中では、見切り発車で誘ったお茶会をどうしようかということでいっぱいだったが、今は笑っておこう。


 繋いでいない方の手をギュッと強く握って力を抜く。

 私の隣では田中さんが笑っている。

 今はそれだけでホッとしている自分がいた。

 まぁ、なんとかなるだろう。

 不安な心を打ち消すように、改札とは別の方向に田中さんと歩きだした。


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