雨の旅路

かな

雨の旅路

 わたしはタクシーの助手席から、ぽつりぽつりと窓にひっつく雨つぶを眺める。その水滴に、夜道を照らしている電柱のあかりは吸われていく。あたりは暗い。

 ほかは寝静まり、空いているためか、運転手の走りは落ち着いていた。時の流れは、ゆったりとしている。そのあいだに、たくさんの景色をすぎる。

 ずっと横を流れていく道路のレール、視線の端にちょっとみえる通行人のだれか。闇にともる、いくつかの光は、よりその輪郭が際立つようだった。そのどれもは、わたしのゆく道のりを飽きさせることがない。

 湿気でよどんだ空気のせいか、怠かったけれど、夜のドライブもいいものだなと思った。

「なんだ、今日はずっと雨みたいだね。さっきから一日中、運転してるけどさ、全然やまないよ。お客さん、僕とタイミングが合ったみたいでよかったよ」

 恰幅のいい、丸々とした手でハンドルを握る運転手のおじさんは、わたしにいう。すかさず、返事をする。

「そうですね。ありがとうございます。もう梅雨入りでしょうか」

「そうなんじゃない。ここ最近ずっと降るし。でもね、こちらとしては助かるよ。だって、いくら夏だからってさ、ずっと暑くても大変じゃない」

「今年はとくに、猛暑だと言われていますから」

 そんなこんなして、いまだ電気がそのままのコンビニをいくつか通り過ぎ、目的地に着いた時には少々の眠気を催していた。手であんぐりと開く口を押さえながら、あくびをする。

「ここらへんでいいかな」

「はい」

「はい、じゃあ三六八〇円です」

 薄っぺらくて、もはや古紙になったようなお札を四枚分出すと、お釣りを受け取る。すぐそばにそびえ立つアパートへ歩む。

 タクシーのドアを閉める際に「ありがとうございました」なんて、言われたような気がするけれど、それは軽快な社交辞令なので大して頭に残っていない。

 こんな夜遅くに、終電もないのに恋人にかくまってもらうため、やってきた。ただ、彼は四階の一室に住んでいて、そこまで登るだけ体力を使う。

 小刻みに息を切らしながら上がる。右にいって奥まで進むと、とびらに手をよせてノックする。

「おう、無事に来れたんだ」

 その一言とともに、たるんだ服をまとった姿の男が、やってくる。

「急にごめんね。少しだけいさせてもらうけど」

 そう挨拶すると、わたしは靴を脱ぐ。あ、紐が解けている。だるい。

「べつに。俺は構わないよ」

「それでも、こうやって居させてもらうの悪いのよ。あとで、なにかお礼させて」

「おう。それより雨、平気だった?」

「いやあ、少し降ってたけど」

「そうか」

 わたしは静かに「うん」と答えると、玄関をあがっていく。

 すると、なにもない。

 その一言に尽きた。そのくらい、微々たるほこりもゴミも目にはみえず、あまりの生活感のなさにびっくりしてしまう。

「え、ねぇ家具は? どうしたの」

 思わず声を張り上げて、聞いてしまった。落ち着こう。

「ああ、俺言ってなかったんだけどさ、引っ越すんだよね」

「ええ!」

 うん、なにも聞いていないぞ。恋人のはずなのに、ここから住まう場所を変えるなんて、いまこのとき知ったことだ。

「まあ、とにかく色々あっただろうからさ。もう、夜遅いし。ゆっくり寝ようよ」

「ん、うん」

 わたしは、あらゆる方面から湧いてくる疑問を抑えて、なんとか敷いてある布団に横たわる。どさっと鞄をおろし、靴下を脱ぐと足先に追いやる。疲れていたせいか、すぐ眠気に誘われた。でも、まだ夜を迎えるには、ちがう。

「なあ」

 引っ越すことなど、なにも伝えはしなかった、そんな不躾な男は声をかけてくる。

「ん?」

 そんな男でも、わたしは好きなのだ。なあに、と呼応するように、かるく返事をする。

「俺の家に来たってことはさ、また母親と揉めたんだろ」

「そう」

「今度は、何があったんだよ」

 男は、ぱちんと明かりを閉ざすと、同じように横たわる。わたしの腰に手を回し「あまり辛くなるなよ」とつぶやく。

 真っ暗ななか、わたしは雨音に感覚を研ぎ澄まし、じっくりと音を味わう。それは、ざあさあと、わたしの体を打つようだった。

「なんかね」

 わたしは語り始める。

「母の精神的な病が悪化していて。わたしが少し物を動かしたり、片付けるだけで怒るようになったの。でもね、それは母が辛いからで。なんか、他人に自分の物を触られることが、不衛生に感じられるんだって。そんなこんなして、お互い不本意な理由で、言い合ってしまう」

「そうか」

「変でしょう。お互いのことを思い合っているはずの母娘がさ、ちょっとした心の歯車が狂うことで、すべて逆さまになってしまう」

「うん。俺は、どうしたらいい。なにができる?」

 ぎゅっと手を握る。暗闇の中でも、あなたの指はたくましいと鮮明にわかった。

「いいの、いいの。このまま、朝を迎えられれば。それで洗われる気持ちがあるから」

「そっか」

 そして、一晩をともに過ごすと、そのまま大学に向かい解散した。わたしの瞳には、朝の光も届かない。なんというべきか、光越しに世界を晴々しく、見通すようなことがしづらい。きっと、気分が曇っているから。

 でも、平気。あの人がいる。


 その日の夜。

 突如として届いた、たった一通のメールにこそ、心を打ち砕かれた。

 「急にごめん。俺はもう引っ越すけど、それも地方に行く。実家に帰ることになった。だから、もう家に居させてあげること、できない。本当にごめん。幸せを祈ってるし、まだ好きだからこそ、別れも何も言わずに去ります」

 怒りよりも悲しみよりも、なにより先に押し寄せたのは、ただの虚無感だった。失った、という、ただ忽然とした空白の跡だった。


 あのあと、何度も母と揉めた。でも、ついに行く宛がなくなったので、公共機関を頼った。それから半年かけて、なんとか大学を卒業し、やっとの思いで企業に就職する。

 ごく普通の流れが、わたしにとっては、とても難関な道のりに感じた。他にはない、苦痛が伴ったから。けれど、たった唯一の良いことは、さらに三ヶ月ほどして一人暮らしをしたことだ。


 ねえ、あの古いアパートに、あなたがずっといたら。そしたら、わたしの平和はまた一段と保たれていただろうか。まぁそんなことはないから、こうして苦労の末に、孤独から抜け出そうともがいているけれど。

 帰り道、そんなことに悶々としていた。そんなときだった。

「……雨だ」

 行方がわからなくなる前の、あなたとの最後の触れ合いも雨だったな。

 ぽつぽつと裾を濡らしていき、一定のリズムを刻む雨音に懐かしさがある。

 そっと目を瞑るとよみがえる、なきあとの温度。

 夜のタクシー、湿った気配、眠りにつく前のぬくもり……


 ビニール傘をひらくと、水滴がすっと垂れていく。

 あ、もれた。

 わたしは、その雫がたどる行方を追うことにした。

 あなたを忘れないようにと。

 そう、これは影追い人のかなしい物語だ。

 あなたの輪郭を求めて、さまよう。

 そんなわたしの悲恋のしるしは、淀んだ天気に込められている。

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雨の旅路 かな @tounoki_kana

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