海の欠片

かな

 

さざなみ

 その海は水平線を描いて、澄んだ潮風のなか、ゆらりと波打っていた。

辺りは、ほのかに朝焼けで照らされているが、まだ薄暗さも混じっている。

私を包むものは静けさだけで、他には何もない。

 こんな早朝から、遥か遠くの沿岸にやってきた。そう、恋人から逃げ出すために。

 昨晩のこと、

「なぁ、信じてくれよ。俺は浮気なんかしてないって」

 と付き合って二年ほど経った彼に、真剣に訴えられる。

 もう、言い訳はいいと叫びたいのを喉元まで押し込み、私は冷静に言い放つ。

「あのね、もう信じられないよ。これで、何度目の過ちだと思ってるの。あなたの浮気相手から、証拠の写真も送られてきたんだよ」

 すると、その次の瞬間には、

「んだよ、お前は俺のこと信じられないのかよ。絶対に別れてやらないからな」

 と彼は低く唸るような声で喋りながら、私に手をあげる。

 パンっと大きな音が鳴り、その途端じんじんと私の頬は熱を帯びる。

「暴力はやめて。一旦、私は実家に帰るよ」

 みっともない、私たちの関係は、この一言に尽きるのに、それでも離れられなくて同棲までしている。

「ダメに決まってんだろ、出て行こうなんてして、痛い思いするのはお前だ」

「わかった。じゃあ、私はそばにいるから落ち着いて」

 ようやく彼が手を離してくれると、力強く握られていた私の手首は、紅く滲んでいた。

 そのあと、彼は私が離れないということに安心したのか、隣で寝始めた。   

 その隙に、私はこの海にまで辿り着く。

「あの寝顔、かわいかったな」

 私はそっと呟く。

 あぁ、やっぱり好きだな。

 もう、やめたい。解放されたいよ。

 それは暴力からではない。

 愛しても、愛しても、際限なく闇に堕ちていくような、この思いから早く目を逸らしたいのだ。

 すぐ私の足元まで迫ってきた波は、ずっと一定して、寄せては引いていく。

 だらだらと互いを手繰り寄せては離れられない、私たちみたい。

 心の奥深くから、悲痛な思いが押し寄せてきて、でも帰りたくなった。

 彼の朝ごはんを作らなきゃ。

 そう思い直すと、ひっそりと家に戻り、仕事に行くためのスーツに着替えて、食卓で作業をする。

 まだ彼が起きていなくて、よかったと安堵していると、

「おはよう。そのさ、昨日は本当にごめん」

 と彼は寝ぼけたような半目の顔で、挨拶してくる。

「おはよう。もういいよ、ほら朝ごはん。一緒に食べよ」

 また、いつも通りの日常だ。

二人して、出勤の支度も朝ごはんも食べ終わり、玄関先で靴を履く。その時だった。

 そばにいた彼は、

「あれ、なんだろうな、この砂は。んん、最近どっか行ったっけ。いや、海なんか行ってないし、砂を扱うようなこともなかったよな、おかしいな」

 と首を傾げている。

 まずい、と冷や汗が背中をなぞる。先ほど海から帰ってきて、この玄関先で、靴の砂を払ってしまったのだ。

「あぁ、それは私が昨日、公園でランニングしてきたからだと思う。あそこ、砂場があってさ」

 とっさに息を吐くように、口から出まかせの嘘をつく。

「そうか、俺らの家の近くに公園あるもんな。あそこ、最近は行ってなかったな」

 私はひとつ彼を欺いた。この罪悪感が胸の奥をぎゅっと締め付ける。

 なぜか緊迫して、

「あ、忘れ物した。今日は先に駅に行ってて、私のことはいいから」

 と言うと、すぐさま自分の部屋に戻る。

 そして、本棚の奥に隠していたメモ帳を取り出すと、それをライターで燃やす。

 そう、海から帰る時、私の様子をみて心配した若い男の警官がくれた紙の切れ端だ。

 その男は、

「大丈夫ですか、何かあれば連絡してください。これ、電話番号です。なんか、本当に今にも死にそうな顔していますから。一応、保護も出来るので」

 と連絡先を書いたメモ帳を私に握らせた。

 それは今、私の前で燃え盛り、ゆらゆらと鮮やかな炎を湧かせていた。


なぎさ

 すぐそこにある雨の気配は、ゆったりと進行し、徐々に辺りを濡らしていく。やはりか、天気予報の通りだ。わたしは傘の帆を開き、自分の顔を覆い隠すようにする。

 わずかに収まりきらない肩には、ぬるい水滴がしみていく。不快だ。

 薄暗くなっていく街のなか、湿った空気はより陰鬱さを醸す。そんな不透明さを帯びた有りようとは裏腹に、つよく胸の内は高鳴っていた。

 あとちょっとで、あの人の家だ。また抱きしめてもらえる。

 そんな思いで充ちていて、水たまりを踏むたびに濡れていく足元など、どうでもよかった。なにより、ふたりで体を重ねるときの温もりのほうが大切な気がした。

 そして、次の信号を過ぎると、柔らかいカーブを描いた曲がり角へ入る。そのうち数件先のアパートに着く。相変わらず、伸び切った蔦はそのままに、錆びついたタイル張りのエントランスをくぐる。

 すこし階段を登るだけでも、小刻みに吐息が漏れた。

 二〇三と書かれた扉をノックし、

「わたしだけど」

 と、やや力んだ高い声で尋ねる。

 キィという静かな軋みと共にわたしを迎え入れたのは、きれいな二重の鋭い眼光だった。

「来たんだ」

「うん、悪い?」

 わたしたちはしばらく見つめ合う。ああ、やはり美しいなと思う。

 めはなの先に、静かに佇んでいる彼は、すらっとしていて背は高い。とても深い黒髪は、しろい肌に映えている。

「ねぇ、今日も部屋、片付けてあげる」

 するりと身を翻すと、堂々と敷居に侵食する。

 彼はしばらく黙っていた。

「まぁ、なにがとは言わないけど、一七時までには帰れよ」

「うん、わかってる」

 わたしは彼の浮気相手だが、わたしにとっての彼もそう。お互いにきちんとお付き合いしている人がいる。こちらの存在に勘付かれるまでに、ここを去る。

「なぁ、あんたも大概だよな、だって彼氏なんて超優秀なリーマンだろ」

「ふ、関係ないよ」

「こんなことばかりしてると、結婚してもらえなくなるぞ」

 わたしが付き合っているのは、名の知れた会社で、自在に英語を操るようなひと。でも、まるで絵に描いたような秀才なんて、つまらない。

 てのひらで唇を引き寄せたあとは、潮のようにうねる流れへと、本能を委ねればいい。

「そのうち、あなたの余裕もなくなるのに」

「さぁ」

 なにもかも順調かのように嘲笑する。

 この笑みを、わたしは一生忘れない。

 このあと、のんきに眠っているところを写真に撮り、彼の恋人宛に送信する。なぜ、そんなことをするのかって、わたしは彼が付き合っている女に復讐をしたいもの。

「ひどいよ……親友のわたしより、こんなバカ男を優先するなんてさ」

 腹の底から捻り出た劣情をそっと呟く。ここにある何もかもが、無に帰するようにと願う。

 窓のふちを滴り落ちる雨はやんだ。覆い隠されていた秘匿は、すべて暴かれる。


しおさい

 しろい滑らかな貝殻は、その表面をなぞると、つるんとしていた。平らな縞模様は、波打ち際の境を思わせる。砂浜のうえを幾度となく寄せては引いていく、そんな水の情緒を眺めていたときに拾ったもの。

 貝殻をそっと耳にあて、感覚を研ぎ澄ます。くぐもった海の音がきこえる。

「ごめん、しばらく会えない」

 あの青さを想起するにつれ蘇るのは、恋人と遠くなると知った、あの日の喪失感だ。

「え、会えないって、どういうこと」

「俺さ、港の交番に転勤するんだ」

「また随分と、遠いところに行くのね」

 私はきゅっと胸が締め付けられるのを感じる。それと異なり、別れを持ち出されたわけではないのだと、微かに安堵している自分がいる。

 彼は続ける。

「元々、沿岸近くに俺の実家があってさ。その港町にある交番が、ちょうど新しく求人を募集してたから異動することにしたんだ」

「でも、そんなの急すぎるよ」

「本当にごめん。でも、両親のことも心配だから」

「だからって、私たちはどうなるの?」

「なんていうか、距離は遠くなっても、今のまま一緒にいられないかな」

 そんな切なげに懇願されては、私のほうが折れる他ない。

 いまを留めておくより、この先ずっと一緒にいられることを望んでいる。

 ため息混じりに言う。

「うん、わかった。気をつけてね」

「ありがとう。俺たちの関係は本当に大切なんだ。よき理解者でもある」

「うん。時々、連絡をちょうだい」

「当たり前だろ」

 これを最期に、あの人の感触は遠のいた。

 付き合っていながら、滅多に会えることなどない。

 叫んで名前を呼びたいのを堪えている。

「次はいつ会える?」

「ごめん、しばらくは夜勤なんだ」

「そっか」

 また今度ね、これをあと何回ほど口にすれば報われるのか、私には知りようもない。

 不確実性としか表しようのない、ふたり。

 ああ、腐る。

 方向を変えても後を追う影のような、背後にまとわりつく、好きが崩れ去る予感がした。

「だめだよ、いかなくちゃ」

 私は醒めたかのように、はっとして、臨海行きの電車に乗ることを決意する。

 あとちょっとで日が落ちて、明日へと景色が入れ替わってしまう。

 急いで、お財布と携帯を鞄に詰める。裾の端がやや黄ばんでいる古びたコートを羽織ると、玄関を飛び出した。生地が白いせいで、あまり汚れは目立たない。

 そのまま、家とはかけ離れた遠い地に向かい始める。

 人もまばらにしか電車に残っていないようだ。先ほどまでの夕焼けはすぐに暗くなり、一番星の横には、はためく鳥の姿が影になっている。暖色の空の色も残りわずかに追いやられていた。

 そして、たいそうな時を刻むうち、私が求めていた居所に到達する。

 真っ暗な闇と共に、海は厳かに構えていた。

 彼に電話をかける。

「あ、ねぇ。もしもし、私だけど」

「こんな夜中に、いきなりどうした」

「わたしね、あなたのところに来たの」

「えっ、は、どういうこと。なんで」

 困惑した声色をまえに、とうとう感情が決壊し、涙が溢れていく。

「ごめっ、なさい。本当は寂しかった、抱きしめてほしかった。いつだって、そばにいてほしかった、駆けつけてほしかった」

 泣きじゃくるせいで彼の声は遮られつつ、たしかに聞こえたのは、

「本当に悪かった。迎えにいく」

 という精一杯のお返しの言葉だ。

 お互いに合流したのち、海蛍の輝きをしばらく眺めて、手を繋ぐ。

 綺麗な貝殻を見繕い、それを二人だけの証とした。

 ただ一つ、また家に帰れば、距離の隔たりがあることに変わりはない。

 でも、それでいい。たまに連絡する、ぶつかり合う、そんな当たり前が、これからも続けばいい。

 たくさんの思いが波打つように行きつ戻りつ、交錯するなか、私は一瞬の奇跡を手繰り寄せることができただろうか。大きな流れの狭間にあっても、揺さぶられても、いつだって水面に浮かぶのはこの恋心だ。

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海の欠片 かな @tounoki_kana

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