ドッグウォーク・キャットダイ

蓬田雄

第1話

 湿り気を帯びた芝生の上に横になると、雲の流れがよく見えた。橙色の陰影を帯びた、泡のような雲が少しずつ遠く離れている。しゅらしゅら、しゅらしゅらと。そこに音なんてないはずなのに、僕は架空の音に耳を澄ませた。

 もしかすると、僕は現実の音を聞きたくなかっただけなのかもしれない。心を夕空に投げ出したのは、現実逃避だったのかもしれない。それでも僕は、生きることしか出来なかった。だから、いつまでもこんな呆けたことを考えているのだ。


 彼女は、僕の隣で髪を解いて横になっている。眼鏡のレンズ越しに見えるその細い目は、僕と同様に空を眺めているようでもある。芝生がチクチクと肌を刺激するのか、彼女は時折物憂げな声を出して身をよじる。僕はそんな彼女から目を逸らして、ほかに見るものもないからと、空だけを見ていた。本当は、何も見たくなかったが、目を閉じていると涙が流れてしまうような気がして、呆然と見るとことしか出来なかった。


 そんな風に無為に過ごしていると時間がいつもよりゆっくりと流れているような気がした。でも、そんなものはやはり気のせいでしかなくて、腕時計を見ると、時間はたしかに進んでいる。僕たちは夕日の映える河川敷で二人きりで取り残されて、ただ空を眺めている。聞こえてくるのは、対岸で遊んでいる子どもたちの笑い声と、規則正しい彼女の呼吸音だけだ。どこにでもある、ありふれた時間といってもいい。


 それでも僕はこんな時間がずっと続いてくれればいいのになんてふざけたことを思ってしまう。何度も揺らぎそうになって、そのたびに苦虫をつぶすような思いで、決心を重ねる。それなのに、いま、この瞬間にも秒針が少しずつ遅くなっていって、その動きを止める瞬間を妄想していた。それが、間違いなくただのばかげた妄想だとわかっていても、僕はそうしていた。夕日がチェダーチーズのように溶けて、山の陰に沈んでいって、彼女の薄い顔がシルエットになっても、僕はまるで動けない。そんな僕を見て笑ったのか、彼女の鼻息が一際大きく聞こえる。そして、さて、という声が聞こえた。


「さて、でいいのかな」

 彼女は鼻の頭を掻き、照れながら笑う。もう二十五歳だというのに、ずっと幼く見える表情に僕は思わず焦る。そんな僕をみて、彼女がまたゆっくりと笑った。今度は、子を見る母親のように穏やかに。

「今まで本当にありがとね。私、君と出会えて本当に良かったと思ってるよ。で、こんなことをしようとしておきながらムシがいいことを言うんだけどさ、出来ればだよ?無理強いはしないんだけど、私と過ごした時間は、いい思い出だと思ってほしいな、なんてさ」

 はは、と小さく笑い、上目遣いになって彼女が言う。まったく、一体、この子はどれだけの表情を持っているんだろう。もしかすると、僕がまだ見ていない表情もまだまだあるんだろうか。だとしたら、きっとそれは損失だ。

「大丈夫だよ。僕も君に感謝しているし、忘れたくてもきっと忘れられない。君みたいなお願いをしてくる女の子は二人といない」

 僕はそう言ってから、目を瞑る。彼女はありがと、と小さくいって、それからカラカラと笑った。

 そうか、そうだな。そろそろ、なんだ。

 僕は自分を落ち着かせるように、心の中でつぶやく。さあ、来るぞ、動揺しないように心に鍵をしろ、と。

 そんな僕の覚悟を彼女はきっと見透かしているのだろう。まったく、情けないものだ。

 ややあって、彼女が最後に口を開いた。


 「じゃあ、予定通り私は今日、自殺するね。だから」

 「わかっているよ。僕が君の死体を絶対に探してみせる」


 重ねるように言った僕に彼女はまっすぐな視線を向ける。そこで、僕はようやく彼女の目をまっすぐ見ることが出来た。それが、僕が生前の彼女を見た最後の姿だった。


 2006年8月6日。

 僕が猟奇殺人犯として世間に認知をされるようになった日だ。

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