第3話 母親
神殿は、古くから外殻の教育や文化にも積極的に携わっている。島の中心地には図書館や美術館が建設され、住民だけでなく、治療や観光にやって来る外界の人々も利用している。図書館手前の広場に辿り着くと、観光客と思しき何組かのグループが案内役から話を聞いているのが視界に入った。
「あら! ベレクトじゃない」
少し小太りな体格の黒髪の女性が我が子を見つけ、笑顔を浮かべながら声を掛けてくる。
「……母さん」
ベレクトは、内心舌打ちをする。
どうやら、彼女も図書館を利用したらしく、肩から掛けているトートバッグから本の背表紙が見えた。
「お仕事はどう? ちゃんとやってる?」
「まぁ、なんとか」
「それは良かったわ! そうそう最近、カルダンから手紙が来たのだけれど……」
カルダン。双子の弟の名前だ。
二卵性双生児として産まれたベレクトと弟は、全く違う容姿であった。ベレクトは母似の黒髪、弟は白銀の髪に青い瞳を持って生まれた。この二つの要素は、医療神に祝福を受ける聖徒の証とされる。弟は産まれて早々に神殿へと召し上げられた。面会は年に2回程度、普段は手紙でのやりとりしか出来ない。
母は、双子の弟の現状を知らないベレクトを想って話している様に見えるが、彼にとって苦痛でしかない。
小さな頃から、母はことある毎に弟の名前を出す。
〈今日ね、お花の本を読んだよ〉
〈よかったわね。カルダンはお医者さんの本を読むようになったそうよ〉
〈先生に、作文を褒めてもらったよ〉
〈そうなの。カルダンは、絵も作文も上手だって皆から褒められたんですって〉
何か話そうものなら、次の瞬間には弟の名前と比較。カルダンを褒める為にベレクトを利用している様なものだ。
12歳の時、一度だけ、カルダンの話はしないでくれと言った事がある。
しかし、母は癇癪を起し、怒鳴り、ベレクトに手を上げた。普段はにこやかな母からは想像がつかない程の豹変ぶりに驚き、頭が真っ白になった。我に返ったのは何度か殴られた後だった。何とか逃げ出し、父親に助けを求めたが、事なかれ主義である為に何もしてくれなかった。
産んですぐに離れ離れにされた悲しみに寄り添う事は出来ても、弟を溺愛し妄信する母が理解できなかった。暴力を振るう妻を責めず、我が子を守ろうとせず、他人事のように遠巻きに見る父に失望をした。
神殿も、聖徒も、弟も、悪者ではない。それを分かっていても、嫌わなければ正気を保てず、その延長線上に今がある。
「悪いけど、友達がアパートに待っているんだ。さっさと用を済ませたいから、行くよ」
一生のトラウマになりそうな記憶を引き摺るベレクトに対して、彼の母は何食わぬ顔で〈母親〉をしている。
「あら、そうだったの。呼び止めてしまって、ごめんなさいね」
「いや……」
「それで、いつ家に帰って来るの?」
眉間に皺を寄せそうになり、ベレクトは堪えた。母だけでなく、何を言っても無駄なのに期待してしまう自分自身に腹が立った。
ベレクトは18歳の時に独り立ちして以降、実家に帰ってはいない。
島を出ようと一時期思ったが、Ωの体質がそうさせてはくれない。安全かつ安定して抑制剤を入手できるのは、この島だけだからだ。島でも抑制剤は高価な部類であるが、外界ともなればさらに値は上り、いつ手に入るか分からない状況に陥ってしまう。
「実はね。家から2軒先の奥さんから、あなたへお見合いの話が来たのよ。ほら、あそこの次男さん、αじゃない?」
何食わぬ顔で母は、話を続ける。
βと違い、αとΩは僅かしか生まれない。Ωよりも数が多いαは、能力が総じて高く、組織では上層部などの優秀な立場に就く者が多い。その代償のように子供をなかなか授かれない。
Ωはかなり希少であり、一割にも満たない。能力としてはβと同等であっても、発情期と繁殖に特化した体質が足を引っ張り、周りへの影響を危惧され冷遇される。その結果、彼等は低賃金の労働や身体を生かした夜の仕事、仮にまともな職に就けても枕営業の要員として飼い殺しにされかねない。
αにとってΩは、自分の子供を産んでくれる可能性の高い存在。Ωにとってαは生活を保障してくれる存在。そのように見えるが、現実はそうではない。
「……縁談は断って欲しい。母さんだって、前に遭った事を知っているだろう?」
「なにかあったかしら?」
怒る気力は無く、ただ冷たい絶望感だけが胸の奥に広がった。
発情期に苦しむΩの我が子に、抑制剤の1つも買ってくれない裕福な家庭。この人は、自分には一切関心がなく、ただ周りに良い顔をして承認欲求を満たしているだけだ。
「……悪いけど、友達が待っているから」
ベレクトはそう言って母を振り切り、急いで図書館の中へ入った。
本の返却は出来たものの、精神が乱れた状態では、読みたい書籍のある本棚まで行く気にはなれなかった。
ここに留まれば、母があのαを呼び寄せる。そう思ったベレクトは、急いで外へ出ると観光客達に紛れ込みながら、知る限りの抜け道を使いアパートを目指す。
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