第29話 譲れぬ一線

「精霊の、王……?」

「まさか、リュミエルが?」


 私とヒースさんのぼうぜんとした声が響く。周囲の騎士たちにもざわめきが広がる中、目を伏せるメッドさんと未だまっすぐとマザーを見返すリュミエルさんの姿だけが、印象深かった。


「まだそうなってはいないよ。誰にとっても幸いなことにね」

『…………ッ』

「だから、俺もただの人、騎士団の一員で……」


『そのような戯言を受け入れられるとでも思うたかッ!!』



 檎母龍ロゼリアドラゴンの咆哮は大地を揺らす。地響きと共に山全体が怒りを露わにした。剣の柄に手をかけたメッドさんを制そうとリュミエルさんが手をあげたのを、ドラゴンは見逃さなかった。


『────グルゥオオオォォ!!!!』




 ──…………それは一瞬の出来事だった。



 ドラゴンの口に飲み込まれているのはリュミエルさんの、肩。

 手をあげていた方とは反対側の肩が、それだけではない、腕丸ごとが口の中に飲み込まれ、胸元から脇腹の上側にかけて深々と牙が突き立てられている。


「ッ、リュミエルさん!!」

「リュミエルッ!!」


 私とメッドさんの悲鳴が重なる。赤い岩肌に滴る鮮血は、確かにその傷が致命傷だということを物語っていた。


 ……だというのに、今にも肩がそのまま噛み千切られそうになりながら、リュミエルさんは穏やかな表情だった。苦痛など何も感じていないように。


「……やれやれ。やっぱりこうなったか」


 一定の調子を保つ穏やかながらも静かな響きは聞きおぼえがありました。

 ここに私たちが来る前、四大魔族の一柱を討つことになったと騎士団の皆に報告したときと同じ。



 そう気がついたときには、すでに目の前の光景は、全てが終わっていた。

 再び鳴り響く地響きと、倒れ落ちる檎母龍ロゼリアドラゴン

 口から頭、胴体までが二つに裂けた母龍と、リュミエルさんがいつの間にか手にしていた剣を鞘に納める姿。


 ……ピクリとも動かなくなった身体は、そのドラゴンの命が奪われたことを、望まずとも私たちに告げた。





 息を飲むことすら誰しもが忘れてしまった空間の中、はじけたように駆け出したヒースさんは勢いのままにリュミエルさんの胸倉をつかむ。


「リュミエル!! なぜっ! ……なぜ、彼女を殺した……っ!」


 噛まれた傷と返り血の双方を浴びたまま、リュミエルさんは事もなげに口を開く。


「言っただろう。、殲滅の必要なしと判断すると」


 それから彼が小さく口の中で何かを唱えるそぶりをすると、とめどなく流れていた赤は少しずつ弱まっていく。いつもは表情の変化が薄いヒースさんの顔つきが、みるみるうちに険しいものになっていく。


「まさか彼女の精霊嫌いがここまで根深いものだとは俺も知らなかったからね。お前たちには余計な心労をかけた。すまないね」

「そうではない!!」


 悲鳴にも怒声にも似た声に反射的に肩が震える。異様な雰囲気に騎士団の人々は、あのメッドさんすらどうすればいいかと互いに顔を見合わせるばかりだった。


「お前は、お前だけは知っているだろう! マザーが俺にとってどんな存在か! 彼女は俺の……!」

「……無論、知っているとも。けれど俺もお前にはこうもかつて言っただろう。俺は精霊と人を守る騎士団の一員だ。どんな事情があろうとも、それらに害なすものを放置はできない」


 ヒースさんの黒髪がぶわりと逆立った。

 否、髪だけではなく彼の全身が膨張していく。あちこちから騎士たちの小さな悲鳴が上がったのを、私は理解しながらも動くことが出来なかった。



 ヒトの形をしていたその姿は、瞬く間にその輪郭すら変える。先ほどまでその大きな体は頼もしいだけの存在だったのに。翼を広げた姿は何倍も大きくなった気がして、一歩後ずさりをしてしまう。


「彼女はすでに黎属れいぞくを果たしていた!」

「そうだね。でもその感情まではコントロールできない。俺が編み出した術はそういうものだ。それはヒース、他でもないお前が一番よく知っているだろう。……ああ、それとも」


「お前から見た俺は、とてもに思えなかったかい?」


 その言葉にヒースさんは息を呑む。リュミエルさんは口元に薄い笑みを浮かべていた。けれども同時に、その顔はどこか寂しそうにも見えた。


「彼女は黎属れいぞくとは異なる点で、人とたもとを別った。精霊は人間にかの魔族を滅ぼすよう命ずるだろう。それを拒む力は今の人にはない」

「だからと言って……!」

「その状態で彼女を野放しにしろと? ……実害を与えなければそれも一つの選択肢だっただろう。だが、現状はこうだ」


 自らの首元を無事な指先で軽くたたくリュミエルさん。……気がつけば私は、膝から崩れ落ちていた。誰かがこちらに駆け寄って声をかけているのを、どこか遠くで聞いているような心地。

 目と耳にはずっと、今のリュミエルさんの姿と言葉が焼き付いていた。



 ──その状態で彼女を野放しにしろと?


 無理だと分かってしまうことが一番つらかった。

 元の世界だって人を襲った動物はそのままにしてはおけなかった。一度人の味を覚えてしまえば、いつまた繰り返すか分からないから。

 頭ではこんなにはっきりと分かっているのに、胸が締め付けられるほどに痛い。


 ヒースさんも……きっと理性では理解しているのでしょう。でも心が痛くて、どうしようもできない代わりに嘴を鳴らしている。


「だとしても……! 人という存在に対しては確かに、翼を収めてくれようとしていたんだ!」

「……今の俺の状態を見てお前はそれを言えるのかい?」


 そういって口元に微笑を浮かべるリュミエルさんは、表情こそ穏やかだが少しずつ、顔から血の気が失われている。それを見てわずかにヒースさんの翼が縮こまったように、見えた。

 言葉を失った彼に追撃するように、リュミエルさんが口を開く。


「お前が情を檎母龍ロゼリアドラゴンに持っていることは理解しているし、それでよいと思っているよ。……だが、人の世はそれだけでは回らない」


 だから、という言葉がする頃には私の視界は真っ暗に染まっていた。耳元で名前を呼びかける声とは別に、リュミエルさんが続けた声だけが耳元に最後に反響した。



「────だから、覚悟をして選ぶといい。お前がこれから、どの道を歩むのか」

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