遠くから、見つめるだけで。

海月いおり

放課後の教室


 高校3年生の坂野さかのつぼみは、放課後の教室が大好き。

 広い教室に1人、ただ席に着いて窓の外を眺める。他の人からしたら無駄に思えるこの時間が、つぼみにとって癒しの時間。高校に入学をしてからずっと、続けていることだ。


 教室に残る名目は、一応……勉強。


 校舎の1階にある教室からは、グラウンドがよく見える。グラウンドで部活をしている生徒……いや、“指導をしている先生”。つぼみの目的はそっちだ


 陸上部の中で一際目立つ、背高のっぽ。

 生徒集団から頭1個分も飛び出ている“先生”は、今日も生徒相手に本気を出しながら、トラックを一緒に走っていた。


「“坂野さん”、また見てるの」

「……」


 教室に入ってきた“第三者”。

 毎回毎回、懲りずにつぼみの癒しの時間を邪魔する人物。


「また、大槻おおつき先生を見てるの」

「……」


 その人物はつぼみの前の席に座り、肘をついて顔を覗き込む。けれどそれには目もくれず、窓の外を見続けた。


 大槻先生の髪が汗で濡れている。気だるそうな生徒の肩をポンッと叩き、流れる汗をタオルで雑に拭う。本気で陸上に向き合っている大槻先生の姿は、どの生徒よりも1番輝いていた。


「今日も僕のことは無視?」

「……だって、別に呼んでないし。むしろ、邪魔しないでよ。“第三者”」


 つぼみは“第三者”を適当にあしらって再び意識を大槻先生に向けた。


 大槻先生は社会科教師だ。3年生には日本史を教えている。日頃はキッチリとネクタイを締めているのに対し、部活中は黒色の半袖短パン姿になる。そのギャップが素敵だという生徒は結構いるようで、つぼみ以外にも大槻先生のことを見ている生徒なんて、数えきれないほどいるのだ。


 今もそうだ。

 校舎とグラウンドを繋ぐ石段には、パッと見るだけで校則違反をしていると分かる服装の女子生徒が6人居る。その人たちは皆、大槻先生の姿を目で追いながら大きく手を振っていた。


「そんなに見たいならさ、あの生徒たちみたいに直接行けばいいのに」

「校則違反集団と一緒にされては困る。やめてよ」


 つぼみは、クラスでは地味な部類だった。

 眼鏡を掛け、制服のスカートと黒色の靴下が境目なく繋がっているつぼみは、考査での学年順位も上位。真面目で、言葉も丁寧で、気も利く。職員室内では、数少ない“優等生”だとよく話題になっていた。


 そんな“優等生”のつぼみは、唯一この“第三者”にだけ歯向かう。


 目に掛かる長い髪の毛。黒縁眼鏡。

 “第三者”は、この学校の英語教師だ。


 誰が見ても“真面目”なその見た目。

 生徒からは“『真面目な人』というタイトルのイラスト”を具現化させたような人間――、なんて揶揄されている。

 誰に対しても敬語で、いつもニコニコと口角を上げていた。


 そんな“真面目”な“第三者”は、つぼみにだけタメ口で食い掛かる。


 “優等生”と“真面目”な2人の、2人だけの空間。

 本当の自分が出せる、唯一の時間だったりする。



「“坂野さん”。本当、飽きないね」

「私はこの時間が好きだから。“第三者”が居なければ、もっと好きな時間になるけれど」

「僕が居てこそでしょ」

「自惚れないで」


 休憩に入った陸上部は、日陰になっている校舎の影に移動をし始めた。

 生徒たちが適当に座り込むのを確認すると、大槻先生は校舎の玄関に向かって歩き始める。

 校舎の玄関へ向かうには、教室の前を通る必要がある。つまり、今つぼみが居る教室の前を、大槻先生が通過するのだ。


 石段に座っていた女子生徒たちは大槻先生を取り囲みながら一緒に歩く。

 腕を組んだり、肩に触れたり……自由な女子生徒の行動に、大槻先生は少しだけ眉間に皺を寄せていた。


「あれくらい大胆にならないと」

「……馬鹿みたい」


 大槻先生は女子生徒と一緒に教室の前を通過する。

 つぼみには、それをジッと見つめることしかできない。


「……」


 無言で見続けていると、ふと大槻先生が教室の方に視線を向けた。けれどつぼみには気が付かなかったようで、スッとまたすぐに視線を正面に戻す。


 少しでも大槻先生の視界に入れたらいいのに。そう思うも、視界に入るための行動はつぼみにとってハードルが高い。


 いつか気付いてもらえたら良いな。

 そんな下心を持って、飽きもせずに教室から大槻先生を見つめている。


「今、見たのにね。残念だね」

「……うるさい、“第三者”」


 強がった言葉とは裏腹に、自然と涙が零れ落ちる。



 つぼみは高校1年の5月からずっと、大槻先生のことを眺めていた。

 月日が経ち、今はもう高校3年の9月。


 あと半年で卒業なのに。

 授業の際、座席表を見ながらではないと名前を呼んでもらえないつぼみは、大槻先生の頭の中に1ミリも存在感が無いに違いない。

 そう思いながらまた、小さく涙を零した。



「泣くくらいなら、行動すれば良いのに」

「うるさいって」


 止まらなくなった涙を拭うために、つぼみは眼鏡を外す。その様子に、“第三者”は小さく溜息をついた。そしてスラックスのポケットからハンカチを出して差し出す。つぼみはそれを無言で受け取って、静かに涙を拭った。


「馬鹿みたい。勝手に片想いをして、想いを伝えられなくて、存在すら認識されていなくて、勝手に涙零して」

「……馬鹿だよ。告白して当たって砕けて、気持ちをすっきりさせたらいいのに」

「うるさい、“第三者”」

「何も間違ったことは言っていないよ」

「大体、“お前”のせいだろ」


 “優等生”は“第三者”を睨みつけ、いつもニコニコしている“第三者”は、軽く唇を噛みながら困ったように“優等生”を見つめる。


「……」


 日頃とは違う空気感の2人の間には、暫く静寂が続いた。


 そして、その静寂を先に破ったのは、“第三者”だった。




「そうだ。来週“母さん”の誕生日だろう。その日、プレゼントを預けたいから。覚えておいて」

「……そんなの、自分で渡しなよ」

「勘当された手前、無理」

「……馬鹿。知らないよ、そんなこと」



 “第三者”――高校の英語教師、坂野つばさ。28歳。

 実は……つぼみとは10歳も年の離れた、実の兄だ。


 つばさは4年前、告白された“当時2年生だった生徒”と付き合い始めた。それを偶然知った両親は、教師として有り得ないと酷く叱責し、別れなければ勘当だと言い放った。

 しかしつばさは、家族よりも彼女である“生徒”を優先させ、実家を出て行った。


 それがあるからか、両親は子供の恋愛に敏感となった。

 最近ではつぼみの好きな人にまで口を出す始末。当然、両親に大槻先生のことは言っていない。聞かれても『好きな人なんていない』と言い逃れる日々を送っていた。




 そんな中、今年の4月。

 つぼみが通う高校に、勘当されたつばさが異動してきた。



 最初こそ他人のフリをして、最低限関わらないようにしていた。

 けれどある日、つぼみが放課後の教室で大槻先生の姿を見ているところをつばさに見られしまったのだ。

 それを機に、放課後になるとつばさも教室に現れるようになってしまった。


「……“坂野さん”がどう思っているのか知らないけど、僕は別に悪いことじゃないと思う。好きな相手が教師と言えど、同じ人間だし。気持ちを隠して1人苦しむ必要は無いと思うけどね」

「“お前”に言われたくないわ。誰のせいで苦しんでいると思ってんの」


 見た目も中身も“真面目”なつばさ。

 一方、“生徒”が在学中から付き合っているという、不真面目な一面。そんなつばさのせいで、自分が苦しい思いをする羽目になったこと。そのつばさの全てが、そのギャップが、つぼみは大嫌いだった……。


「やっぱり嫌いだわ、“第三者”。“お前”のせいで私は恋心に蓋をしているのに」

「だから、別に良いじゃない。大槻先生のことが好きなのは悪いことじゃないって。泣くくらいなら、想いを伝えて砕けたら良いんだ」

「さすが、経験者は言うことが違うね」


 つぼみは鋭い目つきでつばさを睨んで、再び窓の外に視線を向ける。

 すると、校舎からグラウンドに戻るために歩いている大槻先生が視界に入った。


 女子生徒たちはどこへ行ったのか。

 大槻先生は、1人だった。


「……」


 思わず椅子から立ち上がり、つぼみは窓に向かって急いで駆け寄る。けれど……そこから行動が起こせない。

 力強く手を握ってひたすら眺めていると、後ろからつばさが声を掛けた。


「……ほら、“坂野さん”。チャンスだよ」

「……うるさい。“第三者”は黙っててよ」


 震える手で鍵を開け、ゆっくりと窓を開く。

 キィー……と小さく音を立てた窓に気付いた大槻先生は、その視線をつぼみの方を向けた。

 おっ、と小さく声を上げ、片手を挙げる。

 そして、大槻先生は笑顔で声を発した。


「坂野~!! 何してんの!」

「……べ、勉強です!!」

「良いじゃん。さすが、坂野だな! この前の日本史のテストも点数良かったし。無理せず、頑張れよ!!」

「は、はいっ!!」


 大槻先生はつぼみに向かって満面の笑みを浮かべて、グラウンドに向かって走って行った。その背中を見届けると、つぼみの足から力が抜けてしまい、思わずその場に座り込む。同時に涙まで溢れてきた。


「……大槻先生、名前覚えてるじゃん。存在を十分認識しているよ」

「……うるさい」


 つばさも同じようにつぼみの横で座り込み、またハンカチを差し出す。無言でハンカチを受け取ろうとしたつぼみは、あることに気付いて思わず声を上げた。


「えっ?」

「ん?」


 つぼみは、つばさの左手の薬指に嵌められている指輪に気が付いた。“第三者”には興味も関心も無かったから、いつから嵌めているのか分からないけれど、その事実に驚いてしまった。


「え、結婚指輪?」

「……あ……そう。実は、彼女と結婚したんだ。勘当されているから、“親父”と“母さん”には当然話していないけれど。……てか、ずっと授業中も指輪していたよ。気が付かなかった?」

「……“第三者”には興味が無いから、全く気が付かなかった」


 つぼみはその場から立ち上がり、再び窓の外に視線を向けた。


 身近で感じた結婚。

 親に勘当されてまで好きな人との付き合いを継続させ、最終的にはちゃんと結婚をする。つぼみにとってつばさは“馬鹿兄貴”だったけれど。その誠実な姿に、妙な感動を覚えた。


「……今度、“坂野さん”には紹介したいと思っていたんだけど……」

「……別に紹介なんていらない。私からは、奥さんを大事に。ただ、それだけだよ」


 つぼみは、なんだか複雑だった。

 つばさのせいで自分が面倒な目に合っていて、ここまで育ててくれた両親よりも彼女を優先させ、勘当され、でも……その選んだ彼女を大切にして……結婚をした“第三者”。


 自分の感情が分からない。

 つばさの幸せを『おめでとう』と心から伝えたいのに、『“第三者”だけずるい』という感情も邪魔をする。


「……なんだか、何も分かんないや」


 そう呟き、先程開けた窓をゆっくりと閉める。

 すると、グラウンドの方から教室に向かって走ってくる大槻先生の姿が視界に入った。


 つぼみが大槻先生の方に視線を向けると、笑顔で大きく手を振ってくる。


「坂野~!!」

「!?」


 突然の状況に、思わず体が固まる。

 つぼみは状況の理解が追いつかずにフリーズをしていると、あっという間に大槻先生は窓の外に来た。


 大槻先生はつぼみが閉めた窓を再度開けて、笑顔で声を発する。


「勉強を頑張っている坂野に、差し入れ!」

「えっ?」

「他の人には、秘密な」

「え、え?」

「じゃあ!」


 大槻先生はまた走ってグラウンドに戻っていく。

 未だに状況が理解できないつぼみの手には、イチゴとレモンののど飴が置かれていた。その飴は、暑さで少しだけ溶けている。


 固まっているつぼみに首を傾げながら、つばさはゆっくりと立ち上がる。スラックスについた埃を払い、同じく視線を窓の外に向けた。


「……大槻先生、僕のことが見えていなかったみたい」

「……」

「“坂野さん”?」

「……」


 動かないつぼみの顔を、つばさは覗き込むように見る。

 つぼみは、顔を真っ赤にして静かに涙を零していた。


「……それは、嬉し涙?」

「……うるさいっ、“第三者”」

「“坂野さん”。もう一度言うけど、恋心に蓋をする必要は無いと思うよ。進展するかは別問題だけど、告白して当たって砕ければいいんだから」

「……だから、うるさいって。大体、謝罪してくれない? “お前”のせいだって言ってんだろ」

「……お口が悪いよ。つぼみちゃん」

「………馬鹿。そうやって呼ばないでよ、つばさ……」


 大槻先生から貰った飴を握り締め、その手で涙を拭う。


 つばさは「ごめん」と小さく呟きながら、つぼみの体を優しく抱き締めた。







 大槻先生と話した翌日からも、つぼみは変わらず教室に居た。

 ただ、変わったことが2つある。


 1つ目は、つばさが教室に来なくなったこと。この学校に赴任して、つぼみの様子に気付いてから毎回来ていたのに、ぱったりと姿を見せなくなったのだ。


 そして、2つ目。


「坂野っ!」

「大槻先生……!」

「今日は何を勉強するんだ?」

「数学です」

「……そうか。今度は日本史も勉強しろよ。分からないところは、教えてやるからな! じゃあ、今日も頑張れ!」

「お……大槻先生も、部活頑張って下さい!」

「おう!」


 窓の外から、大槻先生が話を掛けてくるようになったこと。


「……」


 生徒集団から頭1個分も飛び出ている大槻先生は、今日も爽やかな笑顔が眩しい。




「……つばさ、ありがとう」




 本人には絶対に言わない言葉をつい呟く。

 背中を押してくれたつばさを思いながら、つぼみは静かに数学の教科書を開いた……。













遠くから、見つめるだけで。  終




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遠くから、見つめるだけで。 海月いおり @k_iori25

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