第26話 幸せの意味

「お任せしますわ、ローレンス様、リチャード様」

 しばらく考えてから、リリアーヌは顔を上げて答えた。見上げると、ローレンスが口の端で微かに笑った。

「よし。ではリチャード」

「はい」

 そう答えるとリチャードは鞄から書類を取り出し、リリアーヌの前に広げた。


「リリアーヌ嬢からのご依頼、確かに承りました。それではこちらの委任状にサインを頂けますか?一切を私共に任せて頂けると」

 リリアーヌは書面に目を通し、サインしようとペンを持ったが、そこでふとローレンスに質問した。

「でもローレンス様、わたくしはリチャード様に訴訟の費用をどうやってお支払いすれば良いのでしょう。今わたくしの手元にあるお金ではきっと足りませんわよね?わたくしの借金に上乗せしておいて頂けますか?」

 それを聞いたローレンスはぷっと吹き出し、リチャードを指差して言った。

「おいおい、俺がこのリチャードにいくら給料を払っていると思うんだ?そんなことは心配しなくていい。なあリチャード?」

「勿論です。リリアーヌ嬢のお心づかいには感謝いたしますが、ご心配は無用ですよ。足りなければ社長に超過手当を要求するだけでございますから」

「お前の財布の紐も相当固いな、リチャード」


 リチャードとローレンスの気の置けないやり取りがリリアーヌの心を少し明るくさせた。そのまま委任状にペンを走らせ、リチャードに手渡した。

「これでよろしいでしょうか」

「問題ございません」

 リチャードは委任状の署名を確認すると鞄にしまい、席を立つと横にいたシルヴィアに言った。

「後は頼んだよ、シルヴィア。では社長、リリアーヌ嬢、私は事務所に戻らせて頂きます。……リリアーヌ嬢、大丈夫ですよ。必ず良いご報告ができるよう全力を尽くしますので」

 リリアーヌはローレンスの助けを借りて立ち上がると、腰を軽くかがめてお辞儀をした。

「どうぞ、よろしくお願い申し上げます。リチャード様」


 リチャードが去ると、ローレンスが東屋あずまやに残ったリリアーヌとシルヴィアに声をかけた。

「夏とは言え、日が落ちると少し風が出て来るな。部屋に戻ったほうがいい、リリアーヌ嬢。バークレイ嬢、一緒に来てくれ」

かしこまりました、社長」

 リリアーヌはこれから何が起きるのかあまり理解できないまま、ローレンスの腕に掴まって自室へ戻った。後ろをシルヴィアがついてくる。

 今ではすっかりリリアーヌの私室となった客室の前に到着すると、ローレンスは仕事が残っているからと一人、隣の部屋へ行ってしまった。


「あの……」

「リリアーヌ様、改めてご挨拶いたします。リチャードの助手をしておりますシルヴィア・バークレイと申します」


 リリアーヌの元にシルヴィアを寄越したのは、ローレンスの配慮だった。

 シルヴィアが言うには、これから裁判にあたってリリアーヌが今までグリゴリー家でどのような扱いを受けていたのか、詳細な記録が必要になる。

 そこには当然あの事件についても含まれるが、その記憶を思い起こすのはリリアーヌ嬢には辛いことだろう。特に男性のリチャードには話し辛いこともあるだろうし、理解が得られない部分もあるかもしれない。

 そこで同じ女性であるシルヴィアにリリアーヌへの聞き取り調査と資料の作成を頼みたいというのがことの経緯だった。


「そうだったのですか。ローレンス様はそこまで……ありがとうございます、シルヴィア様」

 リリアーヌは向かい合って座ったシルヴィアに深く頭を下げた。

「お顔をお上げ下さい、リリアーヌ様。これから暫くの間、リリアーヌ様に色々ご質問をいたします。時にはお答えするのが辛い内容もあるかもしれませんが、その時は遠慮なく仰って下さいまし」

「大丈夫ですわ。何でも訊いて下さいませ。全て隠すことなくお話しいたします」

 リリアーヌはシルヴィアの聡明で明るい態度をすっかり頼もしく思っていた。


 こうしてシルヴィアは夏の間、リリアーヌの元に足繫く通い、リリアーヌとマテオが結婚に至った経緯、双方の父親のやり取り、爵位の譲渡の手続きの詳細など様々なことをリリアーヌから聞き出した。

 そして、あの街外れの屋敷で何があったのかについても。


 シルヴィアは非常に論理的で、また忍耐強い人間だった。

 リリアーヌの記憶が曖昧であったり、またマテオの様々な嫌がらせやイヴォンヌの態度を思い出して考えが混乱してしまったりしても決して急かすことなく、丁寧にリリアーヌに寄り添い、またある時は叱咤激励して、必要な情報をまとめ上げていった。

 特にリリアーヌがマテオから暴行を受けたあの日々のことを涙ながらに言葉を詰まらせながらぽつりぽつりと打ち明けた時には、シルヴィアはリリアーヌ以上に拳をぶるぶると震わせ、抑えた言葉に怒りをたぎらせながらリリアーヌを気遣った。

「よくお耐えになられましたね、リリアーヌ様。立派でございますよ。話して下さってありがとうございます。お辛かったでしょう……それにしてもそのマテオとかいう男、聞けば聞くほど許せませんわ。絶対に、このまま野放しにしてたまるものですか!」


 リリアーヌは他人のシルヴィアがまるで我が事のように怒り、共感してくれることに感激した。

「お聞き苦しい話でお恥ずかしゅうございますわ、シルヴィア様」

「何を仰います!リリアーヌ様が恥ずかしいとお思いになる必要など、これっぽっちもございませんのよ。今まで色々お話を伺いましたが、どう見てもリリアーヌ様には何の落ち度もありません。もっと堂々となさいませ。私共がついております」

 シルヴィアは思わずリリアーヌの手を取って真剣に語りかけた。

「堂々としていても良いのでしょうか……」

「勿論ですわ、リリアーヌ様。確かに今までのお話を伺うと、すぐにお考えを変えることは難しゅうございますわね。でもリリアーヌ様はもう十分苦しまれましたでしょう?ですから、これからはご自身が幸せになることをまず一番にお考えなさいませ」

「わたくし自身が、幸せになる……」


 今までリリアーヌはそんなことを考えたこともなかった。両親のため、伯爵家のため、領民の幸せのため、貴族という出自のため……そのために自分は生かされているのだと思っていた。

(わたくしの幸せって何だろう……わたくしは、どこで、どんなふうに幸せになりたいの?どこで、何をして……誰と……?)

 シルヴィアと二人で過去を掘り起こす作業は確かに辛いものではあったが、同時にリリアーヌの意識をに向けさせる重要な局面であった。


 こうしてまとめられたリリアーヌの供述書を渡されて詳細を読んだローレンスは、その内容に改めて衝撃を受けた。

「何という酷い扱いを今までされてきたのだ、彼女は」

 シルヴィアも憤慨した様子で答えた。

「ええ、私も聴いているのが辛くなる時が何度もございました。社長、こんなクソ男は全女性の敵です。こいつらの要求など、絶対に聞き入れてはなりません」

「全く、同じ男を名乗るのが恥ずかしくなるほどだ。……リチャード、そちらはどうだ」

 リチャードも分厚い書類や資料の束を鞄から取り出すと言った。

「準備万端です、社長」

「ご苦労だった。うん、上出来だ。これだけ証拠が揃えば負けることはないだろう」

 だがリチャードは心配そうにローレンスに尋ねた。

「本当に、勝てるでしょうか……相手は乗っ取り同然に手に入れたとはいえ伯爵家を名乗っておりますし、何と言ってもマテオとリリアーヌ様は未だ婚姻関係にあられます。判事がどう判断するか……」

 ローレンスは事も無げに答えた。

「大丈夫だ、いよいよとなれば地方判事全員を買収してしまえ」

「社長、それはダメです」

「冗談だよ。だがまあ、そうだな……向こうの要求次第によっては、落とし所は考えておく必要はあるだろうな」


 こうして王都の短い夏は瞬く間に過ぎて行った。

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