第21話 優しさに触れて

(今、何時かしら……鳥の……声がする……朝……?……いたい……手も足も……それに……喉が焼けそう……)

 翌朝早く、リリアーヌは喉の渇きで目を覚ました。


 相変わらず全身の激痛に苦しめられているが、今はそれより何より、水が欲しい。

(みず……水はどこに……あ)

 痛む頭を動かすと、寝台の横のテーブルに水差しとグラスが置かれているのが目に入った。

(み……ず……)

 どうにかして腕を伸ばしてグラスを取ろうとするが、あと少しで届かない。

(もう少し....あと.....すこ……し……)

 だがやっとの思いで指がグラスに触れた瞬間、激しい眩暈に襲われてバランスを崩し、グラスがテーブルから落ちて音を立てて割れた。

 リリアーヌは絶望しながらも、何かに憑りつかれたかのように腕を伸ばし続けた。


「み……ず……あ……ああ……」


「どうした?」

 その時、リリアーヌの震える手を横から掴んだのはローレンスだった。

「目が覚めたのか?」


 だが今のリリアーヌは水が欲しいということ以外、何も考えられなかった。半身を起こしてうわ言のように繰り返す。

「みず……み……みず……を……」

「分かった、水だな? ちょっと待て」

 ローレンスはリリアーヌを寝かせると水差しから新しいグラスに水を汲んで、寝台の端に腰かけた。


「ほら、飲めるか?」


 頭を支えてもらってグラスに口を付けようとするが、上手く飲めなくて零してしまう。すぐ目の前にあれほど渇望した水があるのに。リリアーヌは泣きたくなった。するとローレンスがグラスを置いてリリアーヌを抱き起こした。

 そして水を一口含むと、リリアーヌの顎を片手で固定し、口移しで飲ませた。

 冷たい水が、渇き切った喉をゆっくりと通り過ぎていく。

(美味しい……)

 リリアーヌが何とか水を飲み込んだのを見て、ローレンスが尋ねた。

「これなら飲めるだろう。もう一口飲むか?」

 そしてもう一度、ゆっくりと口移しで水を飲ませた。

 だが、二口目の水を飲んで意識がはっきりしてくると、突然リリアーヌの頭は恐怖で一杯になった。

 顔が真っ青になり、全身がガタガタと震えだす。


「……どうした! 大丈夫か!?」

「……あ……あ……いや……たす……け……て……いや、来ないで! いやあ!……ああっ!」

「リリアーヌ!」

「いや……おねがい……もう、殺して……いや……はあ……っ……」

 呼吸が荒くなり、胸の痛みとヒューヒューという不快な音が更にリリアーヌの恐怖と混乱を増長させた。

「リリアーヌ! しっかりしろリリアーヌ!」

 突然ローレンスに両肩を掴まれ、動きを封じられて正気に戻ったリリアーヌの目の前に、懐かしい人の顔があった。


「ローレンス……様……?」

「そうだ、俺だ。ここは俺の屋敷の貴女の部屋だ。見てごらん、分かるだろう? さあ落ち着いて」

 ぼんやりと辺りを見回していたリリアーヌの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「ローレンス……さま……わたくし……生きているの……? これは……夢……?」

「夢じゃない、落ち着け、落ち着くんだ……大丈夫……もう全部終わったんだ……落ち着いて……そう……いい子だ……」

 ローレンスは泣きじゃくるリリアーヌをきつく抱きしめ、背中を撫でながら静かに辛抱強く声を掛けた。


 優しい声と手に守られていると感じているうちに、リリアーヌに記憶が少しづつ戻ってきた。

「助けに……来て下さったのですね……思い出しました……あの時、ローレンス様がわたくしの名を呼んで下さったこと……」

「当たり前だろう。貴女に何かあったら、俺は生きてはおれん。もっと早くに助けに行きたかったが手間取ってしまった。……すまなかった、何もかも俺のせいだ……許してくれ……すまない……すまない……」

「そんな……」

「怖かっただろう……あんな所で一人で……良く頑張ったな」


 リリアーヌは首を振りながら呟いた。

「いいえ、一人ではありませんでしたわ……とても怖かったけど、ずっと信じてました。きっとローレンス様が助けに来て下さるって」

 ローレンスも涙声で答えた。

「間に合って良かった……貴女を死なせる訳にはいかないという俺の祈りを、神が聞き届け給うたのかもしれん」

「ローレンス様が神様だなんて……ふふ」

「似合わないか?」


 顔を見合わせて笑い合った時、ドアがノックされてコンスタンティンが顔を覗かせた。

「入ってもいいかな?」

「はい、どうぞ」

 コンスタンティンは寝台の横まで来ると邪魔だよと言ってローレンスを立たせ、自分が椅子に腰かけてリリアーヌの顔を優しく見つめた。


「僕が誰か覚えていてくれると良いのだけど」


「コンスタンティン先生、ですね。助けて下さってありがとうございます。リリアーヌ・オルフェウスです」

「顔色が良くなったね。手首だと包帯でうまく脈が取れないから、ちょっと失礼」

 そうにこやかに言うとポケットから懐中時計を取り出しながらリリアーヌの首筋にそっと指を当て、しばらく脈を測ってから安心した様子で続けた。

「うん、問題ない。痛みはどうだい?」

「少しだけ……」

 言葉を濁したリリアーヌに向かってコンスタンティンはゆっくりと答えた。

「リリアーヌ嬢、嘘は良くない。まだ相当痛いはずだよ。打撲の痛みだけじゃない、肺炎もやっと峠を越えたところなんだ。熱も下がり切ってないし、息をすると胸が痛くはないかい?」


 無理して答えたことを見抜かれてしまい、リリアーヌはきまり悪そうに俯く。コンスタンティンが静かに続けた。


「痛い時は痛いと言っていいんだよ、リリアーヌ嬢。貴女は酷い怪我をして治療が必要なれっきとした病人で、僕は医者だ。患者に痛くないと言われてしまうと、僕はもう何もできなくなってしまう」

「はい……」

「それにね、もっと心配なのは肉体的な傷よりも精神的な傷だ。人間は心が酷く傷ついた時に無理をしてその記憶に蓋をしてしまうことがある。巷で言うところの、"まだ大丈夫"とか"なかったことにする"って奴ね。でもこれはね、良くない」

「そうなのですか?」

「ああ。身体と心は同等なんだよ。肉体が傷ついたら休んで治す。同じように、心も傷ついたら休ませる。そうしないと無理して回復したつもりになっても、その痛みはずっと胸に溜まったままで、ある時耐えきれずに心が壊れてしまうかも知れないんだ。分かるかい?」

「それは、恐ろしいですね……」

「だから、貴女が今しなければならないことは、十分に休養すること。そして美味いものをたらふく食べること。これは身体にも心にも効く。決して無理をしてはいけないよ。あそこにいる大男に甘えて我儘を言って、好きなだけ顎で使っておやり。それで奴が何か粗相をしたらすぐ僕に言いなさい」

「先生ったら……」

 思わず笑顔になったリリアーヌに、コンスタンティンも笑ってその細い肩にそっと手を置いた。

「大丈夫。貴女は一人じゃない。僕もローレンスも貴女の味方だ。まずは元気になって、後のことはその時考えよう。いいね?」

 そして立ち上がると、部屋の隅にいたローレンスに目配せで退室するよう促すと出て行った。


 いつの間にか眠ってしまったリリアーヌが目を覚ますと、既に日はだいぶ傾いていた。

(何年ぶりかしら、こんなに長い時間ぐっすり眠ったのは……)

 ふと目線を横に移すと寝台の脇の椅子に座ってローレンスが本を読んでいたが、気配に気づくと本を閉じてリリアーヌを見つめた。その眼差しはいつも通り、穏やかで優しかった。


「良く眠っていたな」

「ローレンス様、もしやずっとここに……?」


 頭がはっきりしてくると、寝顔を見られていたことが急に恥ずかしくなる。

「ん? まあ……ああ、まだ顔が少し腫れているな。冷やしたほうがいい」

 そう煙に巻いて化粧室に向かうと、冷たい水で濡らしたハンカチを持って戻ってきた。リリアーヌの頬にそっと当てる。ひんやりして気持ちがいい。

「冷たくないか?」

「いいえ、とても気持ちいいです」

「痛みはどうだ?」

「手足の痛みはだいぶ引いてきましたが、胸が……動くと」

「そうか、やはりな。コンスタンティンが肋骨に2本ばかりヒビが入っているかも知れないと言っていたが、これはもう日にち薬しかないらしい。あまり痛むようなら我慢せず痛み止めを使うようにと薬を預かっている」

「コンスタンティン先生って、いい方ですね」

 微笑みながら答えるリリアーヌに向かって、ローレンスもふふんといった顔で笑みを返した。

「そう思うか? ああ見えてあいつはなかなかのワルだぞ。子供の頃から要領だけは良くてな、一緒に悪戯をしてもいつも怒られるのは俺一人だった。まあでも医者の腕は確かだから、安心しなさい」

「まあ、そうなのですか?ふ、ふふ……う、笑うと……いたた……」

「大丈夫か!?」


 慌てて立ち上がろうとしたローレンスをリリアーヌは手を上げて制止した。確かに胸は痛かったが、ローレンスが子供の頃の話をするのは初めてだった。閉ざされていた扉が少しだけ空いて、自分がローレンスの近くに行くことを許されたような気がして、もっと聞きたかった。

「大丈夫ですわ、昨日よりは良くなってきています。それより、ローレンス様とコンスタンティン先生は長いお付き合いなのですね」

「……実を言うと、お互い赤ん坊の頃から知っている」

「まあ、そんなに。あの、悪戯というのはどんな?」

 だがここでローレンスに上手くはぐらかされてしまった。

「うーん、色々な。これ以上はあいつの名誉に関わるから今は止めておく。機会を見つけておいおい話してあげよう。ところで腹は減ってないか?」

 やはりこの方はご自分のことを必要以上に話したくないのだわと、分かってはいたがリリアーヌの心は少し沈んだ。だがそんな感情はおくびにも出さず答える。

「お腹は空いているような気もしますが、食べられるかどうか自信がありません」

「それはいかん。美味いものをたらふく食べさせろと大先生からきつく言われているんだ。少し待っていなさい」


 そうローレンスは言い置き、リリアーヌの返事も聞かず部屋から出て行ってしまうと、程なくしてお盆を持って戻って来た。お盆の上には湯気を立てるスープの入った深皿が載せられていた。

 そしてそのお盆をサイドテーブルの上に置くと、枕を一つリリアーヌの頭の下に差し入れて首を少しだけ上げさせた。

「痛くないか?」

「はい、でも、ローレンス様」

 だがローレンスはリリアーヌの問いかけなど聞こえないかのように椅子を引き寄せて腰かけると深皿とスプーンを手に取って一匙掬い、少しふうふうと冷まし始めた。


「あの、ローレンス様、自分で食べますから」

「そんな体勢でどうやって?ほら、口を開けなさい」

「でも」

「駄目だ。さあ。熱いから気を付けて」


 顔の前ぎりぎりまでスプーンを近づけられて、リリアーヌは観念した。今は何を言っても聞いてもらえないらしい。仕方なく口を開けてスープを飲み込むと、思っていた以上に美味しく感じられ、煮込まれた栄養が身体の隅々まで行き渡っていくのを感じることができた。

「美味しい、です」

「そうか。もっと飲みなさい」


 だがやはり、今のリリアーヌには二匙が限界だった。ローレンスの手前、何とか飲み込んだがそれ以上はもうどう頑張っても無理だった。

「すみません、やっぱりこれ以上はどうしても……明日はもっと食べられるようになると思いますから」

 申し訳なさそうに縮こまって頭を下げる。これ以上無理強いされたら吐いてしまうかもしれない、と心配になったが、ローレンスはリリアーヌの負担を思いやったのか、あっさりとスプーンを戻した。

「あの、このスープはどなたが?」

「アビゲイルだよ。彼女に貴女が具合を悪くして寝込んでいると伝えたら、どうしてもこれを持って行けと押し切られた」

「そうだったのですか。……アビゲイルさんらしいですね。優しい味がします」

「貴女のことを大層心配していたぞ。風邪だと言っておいたが、俺が働かせ過ぎたからだとこってり説教された」

 その光景が容易に想像できるリリアーヌは思わず顔を綻ばせたが、その時あることに気が付いた。


「ローレンス様、わたくしのことよりも、ご自身もしばらくお食事を召し上がっていないのではありませんか? 随分お痩せになったような……」

 明らかに頬がこけ、目は落ちくぼんで、顔色も良くない。

 リリアーヌに指摘されたローレンスは一瞬しまったという顔になったが、事も無げな様子を装って答えた。

「気のせいだろう。そんなふうに見えるか?」

「ローレンス様、誤魔化さないで下さい」

 ローレンスはリリアーヌから目を逸らして、自分自身に向けて怒りをぶつけるような低い声で呟いた。


「……俺のせいで貴女があんな目に遭って、痛みと高熱と悪夢に何日もうなされている姿を目の当たりにしながら、飯など食えるものか」

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