第20話 この声を覚えている

 だがそれから五日経っても、リリアーヌは目を覚まさなかった。

 やはりコンスタンティンが危惧していた通り肺炎に罹ってしまったらしく、高熱が出て、息をする度にヒューヒューと嫌な音を立てた。


 ローレンスは付きっきりでリリアーヌの看病に当たった。文字通り食事も取らず、一睡もせず、アランが交代すると申し出ても聞き入れなかった。


 その頃、リリアーヌは夢とも現実ともつかない世界で、耐えがたい全身の痛みと闘っていた。

 頭も、胸も、手足も背中も、全身が痛い。ほんの少し身体を動かそうとするだけで呼吸ができなくなる。熱のせいで暑くて堪らなかったり、そうかと思うと激しく震えが来るほどの寒気に襲われたり、その繰り返しだった。


 身体の辛さも耐えられなかったが、それに加えてここ数日の記憶が悪夢となってリリアーヌを苦しめた。

 痛む身体を引きずって逃げようとするが、誰かに足首を掴まれて転んでしまう。振り返ると、そこにいるのはマテオとイヴォンヌだ。マテオの狂ったようにヒステリックな笑い声が耳をつんざく。それから大きな鋏を手にしたマテオが叫ぶ。

『この髪であの高利貸しをたぶらかしたんだろう! 俺の妻のくせに他の男に色目を使いやがって!』

(違う……そんなこと、してない……)

『口答えするな! お前みたいな陰気な女に……! お前は、お前は俺の妻だ! 俺の所有物だってことを証明してやる!』

 髪を鷲掴みにされ、耳元に鋏が押し付けられた。

(やめて! やめて……切らないで……いやああ!)

 抵抗空しく、ジャキジャキと鋏の動く音がして、頭がスッと自由になった。バランスを崩して倒れかけたリリアーヌの腕をマテオが掴み、立ち上がらせる。

『見ろ、いいザマだ』

 壁にかかる汚れてひび割れた鏡の中に、別人のようになった自分の姿を認めたリリアーヌは堪え切れず声を上げて泣き崩れた。もう何も聞きたくないと耳を塞ごうとすると両手を掴まれ、またも殴られる。

 そんな夢だった。


(いや……いや……来ないで……誰か、誰か助けて……!)


 ふと、額がひんやりとした。一瞬だが、熱に浮かされた悪夢から現実に戻る。誰かが殴られて腫れ上がった顔を丁寧に拭いてくれているようだ。冷たくて柔らかい布の肌触りと、ほのかなミントの香りが心地よい。

(誰……? 誰かしら、この手は……とても……優しい……)

 誰かが耳元で囁いている。

「リリアーヌ……」

(この声……知っているわ……懐かしい、優しい声……)

 その時、恐怖と悲しみのどん底にいた自分を助け出しに来てくれた、あの時の声がはっきりと蘇った。あの地下室で、もうこのまま自分はマテオになぶり殺しにされるのだと諦めかけていたその時に聞こえてきた、待ちわびた声が。


『リリアーヌ! どこだ!どこにいる! 返事をしろ!』


(……思い出したわ……この声は……ローレンス……さま……死ぬ前にもう一度だけ貴方の声を聞きたい、貴方にお会いしたいと……わたくし、それしか考えて……はっ!)


 突然リリアーヌの意識が戻った。が、自分がどこにいるのかがわからない。痛くて顔が動かせないので目線だけ横に向けると、見たことのない男性が自分を覗き込んでいた。


「気が付いたかい」


 状況の理解が追い付かず、リリアーヌは錯乱状態に陥りそうだった。ここはどこ?まさかここは、まだマテオが近くに……?……この人は誰?

「う……はあ……あ……いや……たす……け……」

 必死でもがいてその場から逃げようとしたリリアーヌを、見知らぬ男性が制止して話しかけてきた。その声はどこまでも穏やかで優しかった。


「落ち着いて、リリアーヌ嬢。周りを見てごらん。ここがどこだか分かるかい?……そう、君の部屋だよ」

 そう言われて目線だけをゆっくりと動かすと、徐々に見慣れたローレンスの屋敷の客室の光景が目に入ってきた。深いブルーのカーテン、マホガニーの寝台、枕元に飾られた花……。

(わたくし、夢を見ているの?……本当に、戻ってきたの?)

「まだ声が出ないだろうから、目だけこっちに向けて?ここは君の部屋だ。わかるね?」

 辛うじて目だけで頷く。

「よかった、目は問題ないみたいだ。そうだ、自己紹介がまだだったね。僕はコンスタンティン・モルダー。医者だよ」

「……」

「意識が戻って良かった。ちょっと失礼」


 そう言うとコンスタンティンという医者は聴診器を取り出し、夜着の隙間から胸に差し込んだ。

「僕に触れられるのは嫌かもしれないけど、診察だから少しだけ我慢してくれるかい?うん、いい子だ。僕の言う通り、思い切り息を吸って……」


「……うっ!……うあ……」


 言われた通り思い切り息を吸い込んだ瞬間、胸と肺に激痛が走り、リリアーヌは激しく咳き込んだ。慌ててコンスタンティンが身体を支えて、背中を擦ってくれる。

「ごめんごめん。辛かったら無理をしないで。できる範囲でいいから、ゆっくり……息を吸って……吐いて……そうそう、上手。続けて」

 咳をするよりは呼吸するほうがまだ痛みがマシなので、リリアーヌは必死に息を整えた。

 しばらく胸の音を聞いていたコンスタンティンが聴診器を外して明るく言った。

「うん、何とか峠は越えたみたいだ。ちょっとだけで良いから口を開けられるかな?……ああ、やっぱり切れてるね。血は止まったみたいだが」

 コンスタンティンはてきぱきと目の下の腫れを診たり、どれぐらい手足を動かせるか確認したりしてから、やがてこう言った。


「さて、リリアーヌ嬢。自分でも分かってると思うけど、君は怪我をしている。骨折したり手術が必要なほど重症ではないけれど、全身の打ち身と内出血が酷い。おまけに肺炎も併発して、一時は危ない状態だった」

「……」

「今診たところ峠は越えたけど、まだ熱もあるし、無理は禁物だ。だから、そうだな……もう一晩眠りなさい。そうすれば明日は熱ももっと下がるし、話もできるようになるよ。どうかな、僕の提案を受け入れてくれるかい?」


(コンスタンティン先生は、優しい方だわ……この方はきっと信頼できる……)


 直感でそう感じたリリアーヌは、コンスタンティンに目線を向けると黙って頷いた。するとコンスタンティンが静かに微笑んだ。

「僕の患者はとても素直で、素晴らしいね。じゃあそういうことで。注射を一本打っておこう。良く眠れて、解熱効果もあるからね」

 そして手早く鞄からアンプルを取り出すと、リリアーヌの腕に注射をした。鎮静剤がゆっくりと血液に乗って身体に回っていくのがなんとなく分かる。

 瞳を閉じたリリアーヌを確認して、コンスタンティンはこう言った。


「そう、何も考えず、眠りなさい。大丈夫、君は戻って来たんだ、君の場所へ。もう何も心配は要らない」

 既に深い眠りに引き込まれかけていたリリアーヌにその言葉は途切れ途切れにしか聞こえなかったが、最悪の状態を脱したということだけは理解できた。


 とにかく、戻って来たのだ。自分が一番望む場所へ。

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