第13話 リリアーヌの告白

 わたくしの故郷は、王都の西にあるゴーディエ地方です。実家は代々その地域の一つを治めている伯爵家でした。


 ゴーディエ地方は古くから織物や染色、刺繍といった工芸が盛んな地域で、わたくしの実家も大きな工場と工房を経営しておりました。けれど運悪く曾祖父の代に火事に遭って、そのほとんどを失いました。

 曽祖父は失意のうちに亡くなり、祖父も何とか家業を再興しようと手を尽くしたのですが上手くいかず……父が爵位を継いだ頃、伯爵家に残されていたのは地方の工芸ギルドの長という名誉職と、多額の借金だけでした。


「それは難儀なことだったろう」

 ローレンスが答えるとリリアーヌは頷いて続けた。


 わたくしは伯爵家の嫡子ではないのです……わたくしの実母は父の元で働いていた刺繍職人で、父と恋に落ち、やがて身ごもったのですが、身分が違うと結婚を許されず、一人で子供を産んだそうです。

 父はその後家が決めた相手と結婚したのですが、その伯爵夫人は身体が弱く子供が望めそうにないということで、最終的にわたくしは5才の頃、実母と別れて伯爵家で養育されることになりました。

 母と別れた日のことは、今でも覚えております。父とはいえ初めて会う大人の男性と長時間馬車に揺られて、初めて見る伯爵家の屋敷の門をくぐるわたくしは、すっかり怯え切っておりました。


「まあ、貴族社会ではそういう話も聞く……だがそんないきさつでは、伯爵家での暮らしは貴女には辛いものだったのでは?」

 だがリリアーヌは小さく首を横に振った。


 それが、全くそんなことはございませんでしたの。伯爵夫人……わたくしの養母ははに当たりますが……はとても心根の優しい人で……彼女は自分の責任で跡継ぎが望めないことが原因でまだ年端もいかず実の母から引き離されたわたくしのことをいつも不憫だと言って、実の子以上に愛情を注いでくれました。

 またその頃は先代の伯爵夫人、つまりわたくしの祖母もまだ健在で、この人からは大層厳しく家事の一切や貴族としての礼儀作法などを叩きこまれましたが、たった一人の孫娘への愛情ゆえの厳しさだと分かっておりましたし、今こうして役に立っておりますので、有難いことだと思っております。


 リリアーヌの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇ってきた。

 広くて暗いお屋敷が怖くて、毎夜、おうちに帰る帰ると泣く自分を、根気強く眠るまであやしてくれた養母はは、手ずから厨房に立って鶏の捌き方からケーキの焼き方まで教えてくれた祖母……

 そこには確かに愛されていた実感があった。


 それから10年後……わたくしが16になった頃、伯爵家の懐事情はいよいよ逼迫し、父は毎日金策に走り回っておりました。

 普通、それなりの貴族の令嬢でしたら16にもなれば宮中で国王陛下に謁見し、その後舞踏会に出て社交界に華々しくデビューするものですが、オルフェウス伯爵家の財政状況ではとても娘にかけるそんなお金はなく……わたくしは領地の父の元で簿記と刺繍を学ぶ傍ら家事をしてひっそりと暮らしておりました。

 そんな時、わたくしに縁談が持ち上がったのです。


「マテオか」

「はい」

「続けて」


 マテオの父、グリゴリー氏は貴族ではないのですが、わたくしの父と旧知の間柄でした。なんでも非常に裕福な家に婿養子に入り、その財力を元手に王都で不動産業で成功を収めていたと聞いています。彼は一人息子を何としても貴族社会に仲間入りさせたかったそうで、オルフェウス伯爵家の爵位と窮状に目を付けました。

 それでわたくしの父にこう持ち掛けたのです。……ご令嬢と息子のマテオをあわせて爵位を譲ってくれれば、傾いた伯爵家を立て直せるだけの資金を援助しましょう、と。

 疲れ切っていた父には、その申し出を拒むことはできませんでした。わたくしも父の立場は分かっておりましたし、領地の刺繍工房を救うことができるのであれば意味のある話だと思いました。


 もともと貴族の結婚など本人の意思とは関係なく決められて、それに従うだけのことでございますもの。


 それでとんとん拍子に話が進むかと思っていたのですが、思わぬところで養母ははがこの縁談に頑なに難色を示したのです。父はすぐにでもわたくしを嫁がせたかったのですが、彼女は頑として聞き入れず、今まで苦労をさせた娘なのだから、嫁入り前に少しぐらい好きなことをさせてやりたいと父を説き伏せてくれました。

 それでわたくしは2年間、領地で一番の刺繍職人のもとに助手として弟子入りし、好きな刺繍を本格的に学ぶことができました。……養母ははには、感謝してもしきれません。


「良い御母上を持たれたな」

「はい、本当に」


 そして約束の2年が過ぎ、わたくしは王都でマテオと結婚式を挙げました。グリゴリー家からの多額の支度金を使って、それはそれは豪華な式と披露宴でしたが、わたくしにはどこか他人事のようでした。

 マテオと会うのは結婚式の朝が初めてでございました。これがわたくしの生涯の夫となる方かとは思いましたが、それだけでした。今思うと、余計な感情を持たないようにして自分を守っていたのでしょう。

 滞りなく一日が過ぎ、わたくしは夜着に着替えて寝室でマテオを待っておりました。……夫婦となった男女が何をするのかは結婚前に聞かされておりましたし、覚悟はできているつもりでした。

 でも……


「何もなかったのだな」

 リリアーヌは膝の上で両手をきつく握りしめた。

「何もなければ、まだましでございました……」

「どういうことだ?」


 マテオはひどく酔って寝室に来ると、いきなりわたくしを立たせ、夜着を剝ぎ取りました。そして裸のわたくしを上から下まで舐めまわすように見下ろすと、こう吐き捨てました。


 リリアーヌは絞り出すように言葉を繋げようとしていたが、言い淀んでいるのは明らかだった。

 ローレンスは静かに言った。

「辛いのであれば、無理に言う必要はないぞ?」

 だがリリアーヌは膝の上の両手を更にきつく握りしめて首を横に振った。


 マテオはこう言いました。

『ふん、こんなお高くとまった貧相な女、抱けるか』と。そしてわたくしを床に突き飛ばすとどこかへ消えて行きました。わたくしはあまりの仕打ちに、泣くことさえ忘れておりました……


「なんと……」


 ローレンスはかける言葉が見つからなかった。なんという残酷な男だ、マテオと言う奴は。

「それは、酔っていたから、という訳ではなかったのか?」

「はい、そうではありませんでした。マテオは……歪んでいたのです」

「歪んでいた? どういうことだ?」

「……非常にお聞き苦しい内容ですが、お話ししても構いませんか?」

「ああ、聞かせてもらおう」


 マテオが歪んでしまったのは、母親の異常な溺愛が原因でした。

 遅くにできた一人息子を彼女は甘やかし、欲しがるものは何でも買い与えました。その結果、マテオは物心つく頃には既に手のつけられない問題児になっていたそうです。

 その後も義母からの溺愛という名の束縛は続き……やがて思春期になる頃……義母は愛しい息子が人並みに異性に関心を持つのを許さず……その……マテオの欲望の受け止め先に自分の腹心の侍女であったかなり年上の女性をあてがい……時には義母自ら……


「分かった。それ以上言わなくていい」

 思わずローレンスはリリアーヌを制した。

「すみません……わたくしも俄かには信じられませんでしたが……その年上の侍女というのが」

「あのイヴォンヌとかいうメイドだな」

「はい……」

「おぞましい話だ」


 そのようないびつな環境で育った結果、マテオは自分の母親やイヴォンヌと同じ年頃の女性にしか、欲望を感じなくなったのだそうです。逆にわたくしのような自分より若い女性に対しては劣等感に火をつけられるのか、とても攻撃的になって、結婚前に何度も問題を起こしては全て母親がお金に物を言わせて握り潰していたのです。

 もちろんわたくしには一切そのようなことは知らされておりませんでした。ただ何が起こったのか理解できず、マテオに投げつけられた言葉を頭の中で反芻しながらも、初夜の出来事は誰にも知られてはならないと本能的に思いました。

 でも翌日、泣き腫らした顔で朝食の席についたわたくしに、イヴォンヌは笑いながらこう囁いたのです。


『若奥様、いくらお美しくても、坊ちゃまお一人もその気にさせられないようでは、ねえ?……ああでもご安心下さいまし。昨夜坊ちゃまが新婚の花嫁を置き去りにしてわたくしの寝室にいらしたことは口外いたしませんから、大奥様以外にはね。……ふふ、若奥様はお人形のままお暮しになれば良いのですよ』


「なんという下劣な人間だ」

 ローレンスは沸き上がる怒りを抑えきれず吐き捨てるように呟いた。


 正直なところを申しますと、わたくしはマテオに触れて欲しかった訳ではありません。むしろ結婚式での誓いの口づけの時には背筋がゾッとして、何とも言えない嫌悪感を感じていたほどでした。

 ……でも、こんな形で、結婚した翌日に、自分よりずっと年上のメイドから、女性としての存在そのものを否定されたくはなかった……!


 ふと見るとリリアーヌの肩が細かく震えている。ローレンスは何か言ってやりたかったが言葉が見つからず、その代わりテーブルの向こう側から腕を伸ばしてリリアーヌの肩にそっと手を置いた。

「ありがとうございます……」

「それは、辛かったろう……」

 リリアーヌは少し落ち着きを取り戻し、話を続けた。


 イヴォンヌと義母とマテオの関係は、メイドがこっそりと教えてくれたのです。わたくしが気の毒で見ていられないと。いずれ大っぴらになるだろうから、その前に知っていたほうが良いと言ってくれて。

 それ以来、マテオはわたくしの前でもイヴォンヌとの関係を隠さなくなり、またわたくしのことを酷く罵るようになりました。最初は言葉の暴力だけでしたが、肉体的にも暴力をふるうようになるのは時間の問題でした。

 わたくしはマテオの暴言と暴力に怯え、イヴォンヌの嘲笑に耐え、姑からは愛する息子の妻の座についた憎い女として疎まれ、日々、ただ息をするのも遠慮しながら自分を押し殺しているだけでした。


 唯一の心の支えは、実家の両親がマテオの父からの援助でもうお金の苦労をせずに暮らせるようになったということだけでした。

 けれどそれすらも、実際は違っておりました。あの家は姑が全ての実権を握っていたのですが、彼女は大変な吝嗇家で、実際のところは義父の自由になるお金はほとんどなかったのです。

 それは息子夫婦であるわたくし達にも同じで、毎月姑に頭を下げて、なんとか最低限の生活費だけ渡されておりました。それもすぐにマテオに取られてしまうのですけれど。姑はマテオの小遣いだけは言われるがままにお金を渡していたようですが、あまりに賭場での負けが増えすぎて、毎回お金をせびることが難しくなったのでしょう。となるとマテオの標的は、わたくし以外おりませんでした。

 結婚と同時に父は爵位をマテオに譲りました。それが援助の条件でしたから。マテオはわたくしに伯爵夫人としての名義で金を借りろと要求しました。

……拒否することなど、できませんでした。断れば暴力を振るわれるだけですし、何より両親の生活がありましたから。……仕方なく、マテオに強いられるままにお金を借りました。あの男はほとんど家に寄りつかず、たまに帰って来るとわたくしを殴り、お金をむしり取って賭場へ出かけていきました。

 それでも始めは何とか、利息だけは返せていました。結婚の支度金で誂えたドレスや宝石を売って……そのうち売るものがなくなると、家にあった調度品や家具を売りました。売れるものは何でも、最後は絨毯まで……でもそれも底を尽き、利息すら返せなくなりました。

 その後のことは、ローレンス様もよくご存知の通りです……


 ローレンスは吐き気がした。

 職業柄、色々と問題のある家庭の内幕を知ることもある。貴族の夫婦のほとんどが上手くいっていないことも知っている。

 だがリリアーヌの話は、あまりにも酷かった。

 どう言葉をかけて良いのかわからず、仕方なく間を持たせようと手元にあったカップの茶を口に運んだ。


「冷めてしまったな」


 リリアーヌが立ち上がろうとした。

「入れ直して参ります」

「いや大丈夫だ。疲れただろう。話してくれて感謝する。だが貴女の話だと、今の生活くらしは貴女にとっては納得しかねる部分があるのではないか?そんな屑夫の借金を肩代わりして返済するために俺みたいな悪徳高利貸しのところで働かされて。……失礼、屑夫は言い過ぎだな」

「いいえ、わたくしはローレンス様には感謝しかございません」

「感謝?」

「……あの家から連れ出して下さったのですもの。あの日、ローレンス様がここで働かないかとお声をかけて下さらなかったら、わたくしは今頃はもう狂ってしまっていたかもしれません。仮にも伯爵夫人ともあろう者が他所よそ様のお宅の家事手伝いに上がるなど前代未聞でしょうけれど、わたくしはこのお屋敷に来られて本当に幸せでございますの」

「幸せ?」

 リリアーヌは深く頷いた。

「ここでは、わたくしは誰からも罵られたり蔑まれたりしません。ローレンス様もアランさんも必要なこと以外は一切仰いませんが、それがわたくしにはとても有難いのです。このお屋敷での時間はとても静かで、穏やかで……ここにいると自分は生きていても良いのだと思えるのです」


 ローレンスはあの日、なぜ自分があんな突拍子もない提案を持ちかけたのか、その理由がようやく少しだけ分かったような気がした。この人が何もかも諦めてしまっていたからだ。こんなにも若く美しく気高い精神の持ち主なのに。

(俺はこの人の精神を救うふりをして、自分の汚れた魂も救われたと思いたかったのだな……)

「そうか。貴女がそう思ってくれているのであれば良かった」

 その時ローレンスの頭にふともう一つ疑問が浮かんだ。


「……これを訊くことは、貴女に更に辛い思いをさせるかも知れないが……今、ご両親はどうされている?」


「両親は一年前、馬車の事故で亡くなりました……わたくしの結婚生活を詳しく知らないまま旅立てたことだけが……唯一の……救いで……ございました……」


 長い沈黙の後、リリアーヌはやっとの思いで言葉を繋ぐと、耐えきれずテーブルに突っ伏した。

 我慢の限界だった。ローレンスはリリアーヌに近寄り、両手で顔を包み込んで引き寄せた。長い黒い睫毛が濡れている。

「泣きなさい」

「?」

「貴女には涙を流す時間が必要だ。遠慮は要らない。気が済むまで悲しめばいい。さあ」

「う……うっ……ああ……あ……」

 リリアーヌの嗚咽が激しくなった。

「いいんだ、それでいいんだ。誰も貴女が悲しむことを禁じることなどできはしない。ずっと一人で耐えて来たのだな。たぶん、子供の頃から……その肩には重過ぎただろう」

「ローレンス……さま、ぁ……」

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