第12話 重なり合う心


 執務室の隅で、リリアーヌがポットに淹れた茶をカップに注いでいる。

 もう既に漂う良い香りがローレンスの鼻腔をくすぐった。


「失礼します……」

 カップがデスクの定位置に置かれようとした時、ローレンスは書類から目を上げてリリアーヌを見つめた。

「今日はあちらに置いてくれ。それから……そこへ座ってくれないか」

 視線で示されたのは、暖炉の前のティーテーブルだった。向かい合う形で2脚の椅子がセットされている。

「は、はい」

 リリアーヌは上ずった声で答えると、言われた通りカップを置いてその向かいに腰かけた。

 ローレンスは書類をデスクに置くと、ゆっくりと立ち上がって暖炉の前に移動した。

 カップを手に取り、茶に口をつける。いつもと変わらない極上の味と香りだ。ふう、と息を吐く。


「リリアーヌ殿」

 俯いていたリリアーヌは驚いて思わず顔を上げた。ローレンスから初めて名前で呼ばれたのだ。だが驚きはそれで終わりではなかった。

 突然ローレンスが立ち上がると、腰を直角に曲げてリリアーヌに深々と頭を下げたのだ。

「ローレンス様! 何をなさいます?」

「先だっては、本当に申し訳ないことをした。謝罪させてほしい。言い訳するつもりはないし、許してもらえるとも思っていないが、貴女の名誉を傷つけてしまったことを、心の底から恥じている。本当に、済まなかった」

 リリアーヌも慌てて立ち上がると、ローレンスに一歩近づいて答えた。

「お止め下さい、ローレンス様。お顔をお上げになって、お座り下さい」

「だがしかし」

「いいえ、わたくしのためにそんな、困ります……お願いですから、おかけに」

 それを聞いたローレンスはようやく頭を上げた。

「では、失礼させて頂く」

 ローレンスが椅子に腰かけるのを待って、リリアーヌも再び腰を下ろす。二人とも押し黙ったままだ。


「あの、わたくし……気にしておりませんから……どうかローレンス様も、謝罪だなどと……そ、そう、不幸な行き違いですわ……お互い感情的になっていただけで、いわば事故のような……」

「そんな訳にはいかんだろう、とりわけ貴女にとっては」

「いえ本当に、もう忘れましたから。ローレンス様もお忘れになって下さい。ただ……」

「ただ?」

「わたくしは……暇を出されるのでしょうか……借金もまだ残っておりますし……それが心配で……」


「それはない」


 ローレンスが力強く言い切ったのを聞いて、リリアーヌは心底ほっとした。

「俺は、留守の間に貴女がこの屋敷から出ていってしまっていたらどうしようかと、そればかり心配していた……少し自分の気持ちを整理してすぐ戻るつもりだったのだが、予想外に仕事が手間取ってしまって……」

「わたくしには行くところはありません。良かった、帰って来て下さって……お仕事の都合だったのですね……わたくし……余計なご心配をおかけしてしまったのかと気に病んでおりました」

「本当に、何もかも済まない。貴女さえ良ければ、今まで通りここで働いてほしい。貴女のこれまでの働きには毎度感嘆している。これからも、宜しく頼む」

「ありがとうございます……」

 リリアーヌはここ数日心に抱えていた重荷から解き放たれたような気がしたが、少しの沈黙の後にローレンスが呟いた一言で再び現実に引き戻された。


「だが、まさか生娘だったとは……」

「!!」


 ローレンスが身を乗り出してリリアーヌを真正面から見つめている。

「……何故だ? 何か訳があるのではないか? あのマテオという男は曲がりなりにも貴女の夫だろう? 結婚して何年だ?」

「2年、です……」

「2年? その間、何も無しか? まともな男が貴女のような妻に対して、指一本触れないなどということがあるのか? あれか、病気か何かでなのか?」

 矢継ぎ早に質問をぶつけられて固まってしまったリリアーヌを見てローレンスが我に返る。

「……失礼。決してそういう下世話な興味で訊いたのではない。ただ何と言うか……そう、貴女の借金自体が、疑問に思うことだらけで」

「と、仰いますと?」

 ローレンスは椅子の背もたれに頭をもたせかけると続けた。

「俺は表立っては言えないが伯爵夫人や侯爵夫人といったやんごとない方々にも秘密裏に金を貸している。彼女たちが夫に隠れて借金を重ねる理由はほぼ同じで、ドレス、宝石、賭博、若い愛人に貢ぐ、だ。だが貴女はそういうことに金を使う人間ではない。違うか?」

「そういうものなのですか、王都の貴族社会は」

「ああ。だから、分からないことだらけなんだ。貴女と旦那との関係も、不釣り合いな借金も、何もかもがおかしい。今まで色々な人間を見てきたが、貴女のような女性は始めてだ」

「……」

 黙り込むリリアーヌにローレンスは畳みかけた。

「話してくれないか。……何か力になれることがあるかもしれん。貴女にあんなことをしてしまった以上、俺はもう傍観者ではいられない」


 リリアーヌはやがてゆっくりと顔を上げて、ローレンスとまっすぐ向き合った。


「お話しいたします、ローレンス様。でも長い話になりますので、どこから始めれば良いか……」

「構わない。時間はたっぷりある。心配しなくていい」

 そう言って自分を見つめるローレンスの瞳が、これまで見たこともないほど優しいことに、リリアーヌはこの人になら、と全てを委ねることに決めた。

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