恋愛ごっこ


あの日を境に、貸出当番日の図書室は空気を変え、私が行波先生から『恋愛』を教わる場所になった。



「今日は、抱きしめさせて…」


そう言って後ろから優しく抱きしめてくれる行波先生。

そんな先生の体にスッポリと収まる。



人肌が温かくて…微かな力強さがあって…気恥ずかしい。



「秦野…小さい」

「先生が大きすぎます…」



どうすれば良いか分からず、突っ立ったままの私。

心拍数だけが、経験したことの無いくらい早まっていた。



「…先生」

「ん、どうした?」



少し体に力が入る。

率直に気になったことを…行波先生に聞いてみようと思った。



「先生の好きという感情がどんなものか…教えて下さい」

「えっ」

「私、分からないから。…知りたいです」

「……」



先生の顔は見えない。

けれど、私を抱きしめている腕が少し震え始めた。



「…聞いたこと、後悔するなよ?」

「え?」



先生は小さく息を吐いた。


そして体を屈め、私の耳元に口を近づけ…囁く。



「冷静で居るよう努力しているんだけど。…近くに居ると緊張して、心拍数が上がる。触れたくて、抱きしめたくて、キスしたくて…めちゃくちゃに、抱きたい。好きになると、考えるだけで胸が苦しくなって、欲しく……」

「あ、ありがとうございます。わ、分かりました」



ぎこちなくお礼を言って、その言葉を遮る。

行波先生の言葉に…私は耐えられなくなった。


自分の耳が真っ赤になっているのが分かる。


あまりにもストレートすぎて…何だか恥ずかしい。

聞かなければ良かった。



「聞いたこと、後悔した?」

「…少し」

「後悔するなよって言ったじゃないか」

「…はい」



実際に経験は無いけれど。

恋愛小説だけは沢山読んできた。



だから、さっき行波先生が言った言葉の意味は、全部理解できた。



「今言ったのは秦野に対して、ずっと前から思ってること。だけど、大丈夫。『恋愛ごっこ』の間は、抱きしめる以上のことはしないから」



そう言って私から離れた。



「さて、今日は図書委員としての仕事が少しあるんだ。やってくれる?」

「あ、はい。勿論です」



仕事というのは、行波先生が作った書籍管理用バーコードを本に貼るという作業だった。


単純作業が楽しい。




私がひたすらバーコードを貼っている間、先生はパソコンと向き合っていた。





そんな作業の中、さっき先生が言った言葉を思い返す。




『恋愛ごっこの間は、抱きしめる以上のことはしない』



「……」



正直なところ。


いつ、キスされるのか。

少しだけ…ほんの少しだけそんなことを思って、勝手に1人でドキドキしていた。




ていうか……私、行波先生にキスされることを、期待していた?



「…っ!!!!」



心臓が飛び跳ねると同時に、体も飛び跳ねる。

勢い余って…椅子から落ちてしまった…。



「秦野!?」

「…痛い…」



いや私、何を考えているの。

怖い、自分が怖い…。


そんなこと考えるなんて、自分で自分にドン引きだ。



「秦野…どうした…」


心配そうに駆け寄ってきた行波先生。


先生は私の体に手を添えて起こしてくれる。

もう、それだけで再び心臓は飛び跳ね、心拍数が上がり、呼吸が苦しい。



目に涙が滲んでくる。


初めての感情に、頭が追い付かない。




「…先生、私…体調が悪いかも」

「え?」

「だから、すみません。当番の途中ですけど、帰ります」

「え!?」



震える体を抑え、急いで立ち上がる。


「秦野、待って!」


行波先生の言葉に何も反応せず、鞄を持って図書室から飛び出した。





分からない。


分からないよ。




先生がすぐ近くにいる状況なんて、これまでも当たり前にあった。


何も感じなかったのに。


ただ、近くにいる。


それだけだったのに。




今の私は、行波先生が近くにいると


心臓が跳ねて


心拍数が上がり


胸が苦しくなる。




これが、恋をするという感情?


私は、行波先生のことが好きになっているの?





分からない。


分からないよ。


何も、分からない…。




責任を持って、全部教えてよ。


行波先生…。











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