スコポフォビア

八六

第1話 スコポフォビア

 殺人的な猛暑から逃れて、電車に乗り込んだ。座ることもなく、ハンドタオルを取り出して、額から滴る汗を拭う。昼下がりの車内はほとんど乗客もおらず、空調の機械的な音が聞こえるほど静かだった。私は落ち着き払った様子で眼球をころころと動かして車内を舐めまわすように見渡す。そうして手頃なやつを見つけては観察していた。

 少し離れて座っている女子高生らしき女は、スマホにご執心といった感じで、制服も随分と着崩していて、いかにも現代風な女だった。手持ち扇風機を人の座っていない座席に置いて、開いた手を鞄に突っ込んでイヤホンを取り出して、耳にはめた。それから目を瞑った。疲れているんだろう。少しすると頭を揺らし始めた。

視線を移す。少し呼吸を整える。

 近くで新聞を読んでいる男は、スポーツの記事を読んでいるようだった。窓に反射して記事が見えた。男が見られているなんてことは微塵も思っていない様子なのが少し馬鹿らしくて笑えて来た。男の髪は頭頂部が少し禿げていた。きっと仕事のストレスが祟ったのだろう。かけている眼鏡の位置を時折直しているところを見ると鼻あてが合っていないのだろう。また直した。額に浮き出た玉のような脂汗をチェック柄のハンカチでふき取る。顔を顰めた。気に入らない記事でもあったのだろう。はぁ、と短い溜息をついたのち、新聞を適当に折りたたんで鞄に突っ込んで、天井を仰ぐように眠りについた。

 視線を移す。再び呼吸を整える。体の芯が熱い。

 視界のギリギリにいる男子学生は、何やら分厚い小説を読んでいるようだった。下を向いていて顔はよく見えないがどこかすましたような雰囲気がして少しイラつく。髪も少し長めで、顔の輪郭線もはっきりとしない。彼は時折スマホを取り出しては何かを打ち込んでいるようだった。一体何をメモしているんだろう。見えないのがもどかしい。私はどうすることもできず、立ち尽くすばかりだ。

やつが顔を上げた。私はすっと前へ向き直す。体からじわっと汗が湧いて出る。気を抜いた。しくった。私は目を瞑った。何をも見たくなくなった。今すぐ眼球を抉り出してしまいたい。そんな強烈な欲求に襲われる。しかし、目を瞑っているからできない。ジレンマだ。肉の間を縫って忙しく血液が流れていく。血流を止めろと志向しても止まりはしなかった。体というのはどうも勝手の利かないものだ。電車はいまだ止まる気配がなかった。

 俺はより力を込めてぎゅっと目を瞑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スコポフォビア 八六 @hatiroku86

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る