藍色の中に

神薙 神楽

黄色、緋色、青色、藍色。

 夏休みも終わりに近づく頃、夏の陽気に日焼け止めを塗った肌は、汗に濡れたシャツが貼り付き、夕顔の蕾は大きく膨らむ、そんな時の事だった。

 後ろから自転車を引いた、私と同い年の少年が声を掛けてきたのは。


 私は高校前のバス停で、部活終わりに遠出する為にバスを待ちながら、スマホを弄っていた。


「シラザキさん?」


 何処か聞き覚えのある声が私を呼んだ。私は条件反射でスマホから顔を上げ、その人物を観察した。

 男子にしては少々長めな艶のある黒髪で、前髪は少し目にかかっている。線が細く、痩せぎすで、薄い体躯は少々骨っぽい。

 何処かの制服なのか、陽光を一身に浴びて輝くような白いポロシャツには、胸に小さな紋章がプリントされている。穿いているスラックスは黒く、糊が利いていて折り目がはっきりとしている。靴は有名なブランドのスニーカー。草臥れた様子こそ無いが、少し色褪せたその靴は彼の足には合っていないように見えた。

 引いている自転車はチープな青色で、黒い塗料で描かれた英字のロゴが白色で縁取られている。前籠には黒く実用的なデザインのリュック、飲みかけのペットボトルなんかが入っている。

 そんな彼に、私はほんの少しだけ、見覚えがあった。


「アズマ?」

「ああ」


 彼の口から出た肯定の言葉に私は驚いた。

 アズマは今年度の始めに転学し、それ以前も休みが目立っていた元クラスメイトの名前だ。顔を合わせる機会が少なかった為に、答えた私自身、半信半疑だった。


「久しぶり、そのー、よく分かったね」

「別に元クラスメートの顔くらい誰でも覚えていると思うけどな」

「そんなことないよ。私、人の顔全然覚えられないし」


 これがコミュ強か、そう私がアズマに慄きの感情を向けているのに構わず、彼は言葉を続けた。


「あーあとそれ。ジャージに名前があるんですね」


 そう言ってアズマは私の左胸と太腿のあたりを指した。

 確かに今私の身に纏う高校指定の体操服はシャツもジャージも刺繍の名入り。見る人が見れば、通う高校から学年、下手すれば所属する部活まで分かってしまう、個人情報保護の観点から見れば最悪もいいものだったが、それが裏目に出た結果か。

 私は自分の格好を見下ろして、そう一人納得した。


「ちょっと意外だった」

「何が?」

「アズマが私を覚えていたこと。」

「別に逆の方が言えると思うけど」

「くっ」


 これがブーメランか。そう思うも、悲しいことに人の顔を覚えられないと、自己申告した時点で明白なことだ。


「あと、」

「まだあるのか」

「私に話し掛けるとは思わなかった。ほら、嫌われ者だし、接点無いし」

「えー別に、シラザキさんが嫌われ者とは思わないけどな」

「それは陽キャの理屈ですー」

「あ、シラザキさんって夏休みどこ行った?オレは――」


 それから私達はバスが来る直前までの十数分間を世間話に費やした。最近やっているゲーム、クラスの様子、部活の事。接点は少なくてもアズマの話題の引き出しは多かった。


「あーなんでもっと早くアズマと話さなかったかな」

 そう思わず口に出るくらいアズマとの会話は楽しかった。しかし、時計の針は刻々と時を刻み、バスのエンジン音は間近に迫っている。


「でも、アズマと話せて良かった。」


 きっと最後になるからね、と余計なことを飲み込んで笑った。


「シラザキさんは何処で降りるんですか」

「終点で」


 さようならと、そう言って私は後ろを向いた。


 日は未だ沈まない。


 ――――


 バスに乗るのは好きだ。勿論バスに限らず、車や電車なんかの誰かに運転された乗り物に乗ることは楽しいと思う。

 下を見ると酔ってしまうから、本やスマホが見れないのもいい。おかげで余計なことを考えなくて済む。

 道の凹凸で車体が揺れ、程よい衝撃が加わる。

 ふと、昔に思いを馳せた。いつか観たテレビ番組で、電車で眠くなるのは母体の胎内に似ているかららしいが、本当だろうか。本当なら、このバスもそれに似ている。

 ビル街、ショッピングモール、住宅街、公園、疎らな田畑。車窓の景色が万華鏡の様にくるくる変わる。少し速すぎると思うようなギリギリの速度で、次々と別の場所に私を連れ去っていく。その様子は見ていて飽きが来ない。

 ずっとこのまま乗っていたい。けれど、現実は非情なもので、必ず終わりが来る。来てしまう。


 今日私が乗ったバスは終始がらんとしていた。そうは言っても、一人入って、何処かの駅で他の乗客が一人去っていく、あるいはほんの数人で。そんなことを繰り返しを続けていたから、常に乗客は一人か二人はいた。


 終点一つ前の駅に着く旨のアナウンスが流れ、前方に座っていたもう一人の乗客はガサゴソと身支度を始めていた。

 バス停に止まって、バタバタと彼が走り去っていく様子を見届けてバスはゆっくりと走り出す。


 その様子に溜め息を一つ落とした。

 終点一つ前と終点までの距離は殆ど無い。私もずっと手に持っていたスマホのアプリに表示された文面をちらりと見て、電源を落とした。抱え込んでいた鞄以外に私の荷物が無いことをよく確認する。

 前に飴の包装を落としていた事があったので、特に手に持っている荷物が無かったとしても、バスに乗った時はよく確認することにしていた。そうでなくとも、このバスに私のものを置いていくようなことはしたくなかった。

 止まったバスの中でゆっくりと立って前方に向かって歩いた。終点といえど、街の郊外にある駅だ。急かす乗客は私の他にいない上に、運転手は無気力に待っていた。

 が刻印されたICカードを合わせる。ピィと、甲高い音を響かせ、私はバスを降りた。


 空気の抜けたような音がして、少し遠い背後で扉が閉まって、エンジン音が遠ざかる。一歩、二歩、とゆっくりと歩き出す。じゃりっと、砂を噛んだ音がスニーカーのゴム底から聞こえる。蹴った小さな石ころが排水路の蓋に当たってカツンと響いた。


 私が選んだ道は街外れのここが繋がる道の中でも人通りが皆無と言っていい道だった。私は、私の他に誰もいない道で、西日を左手に歩いていた。

 荒れた道は灰色と影で覆われていた。道路は空き地や駐車場、それなりの高さのある建物などに面していた。アスファルトの道は荒れ放題で、穴だらけな上に、雑草が隙間に生えている。白線は掠れ、書かれていた文字か、線かは、見る影も無い。更には、傍の空き地から流れ出たのか、歩道には砕石や土砂が散乱していて、それが荒涼とした空気を際立たせている。

 そして、建物や生えた背の高い植物は私に濃厚な陰を被せ、空の端は左の頬を微かに黄色く染めた。

 空は黄色と青色に覆われている。空の青色は鬱屈をはらんでいて、西の黄色は耿々こうこうとしていて、宵の明星は孤高に浮かび、その空を拒む雲は欠片も見当たらない。

 その何時も通りのはずの景色が私の不安を無性に掻き立てた。


「――――つらい」


 私が砂利を踏む音と遠くで走る電車の音だけの静寂を誤魔化すように言った。

 声に出ないくらい小さく呟いたそれは、灰色の上に立つ陽炎と共に消えた。


 ――なんで泣く?

 ――社会のルールすら守れない愚か者が、犯罪者が、死を望まれるのなんて明白だろう?淘汰されるのは当然だ。

 ――周りを見てみなよ、ほら。あなた一人死んだら、恩恵を受けられる人が沢山いる。彼らの喜びと社会に貢献出来ないあなたの命のどっちが大事?あなたは誰かの代替品でしかない。いくらでも代わりは効く。死にたくないなら、せめて感情を殺して、自分を削って、あなたのせいで消費される資源を減らして、小さく縮こまっているべきだ。

 ――嫌われるのが嫌だ?あなたが出来損ないの怠け者だからだろう?あなたに文句を考えて思う権利なんて元から無い。平気な顔して約束を破るあなたの存在価値なんて焼却場以外の何処にあるんだ。きっとこの世どころか、地獄にすら無いよ。

 ――さあ、来たる闇に乗じて消えればいい。簡単なことだ。紐を取って、輪を作って、ドアノブにでも掛けて、首を預ける。最初は紐が邪魔かもしれない。大丈夫。直ぐに分からなくなる。もしくはあなたが何時も飲んでいるそれを何時もより多く飲めばいい。副反応ですごく苦しむかもしれない。でも、今までのうのうと生きてきたのだから最後ぐらい苦しんでもいいんじゃない?

 ――この先の橋から飛び降りるのも良いんじゃない?


 私の中の昏い感情が堰を切って溢れ出す。それらは悪魔の女の囁きだ。重油のように、深い色で粘度の高いこの憎悪は、冷たく、今も昔も、私の心臓を雁字搦がんじがらめにして、それを引きずり込もうとしている。今にもこの身を切り裂かんと、その一点にのみ澄み切った願望は、夜を緋色に染める夕焼けに似ていて、彼女悪魔の言葉はどうしようもないくらい正論に思えた。 ただ一つの事に埋め尽くされた脳は、それ以外の物事にリソースを割く余裕は作れなかった。この生き地獄の中で私は八つ当たりのように悪態を零す事だけが精一杯だった。


「――この悪魔が」


 言い訳がましいけど、私は人通りが無い場所故に周囲に気を配るなんてことは全くしなかった。もし、しようとしても自分がどのように見られているかという客観視すら儘ならなかった。

 だからこそ、その言葉が落ちてくるまで私は気が付かなかった。


「大丈夫ですか?」


 陽の落ちた緋色の黄昏においてその言葉は、私の唯一の光だった。


「アズマ」

「様子がおかしい気がして、急ぎの用も無いから家に帰るついでに」


 驚いて見上げた先にはアズマが苦笑いを零して、頬を掻いていた。

 何時の間にか、私はバス停から少し離れた橋の上で耳を押さえ付けてうずくまっていた。耳がもげるのではないかというほど強く。

 何か言おうとした私を制して、アズマは道の先の向こう側を指して言った。


「コンビニ。寄って行かない?」



 コンビニまでの道のりは終始静寂が支配していた。それも当然だろう。私はいるとは思わなかった人間に痴態を晒し、更にはその好意に付け込んでいる。そして、彼は多分、いや、きっと、私の事は体調不良くらいに思っているだろう。声を掛けないのも、気を使ってくれているからだ。


 コンビニを出る頃には空を覆っていたあの青色と黄色は既に消え去り、代わりに緋色と藍色が空を支配していた。

 先程の混乱した頭とは別の意味で、私の中は混沌としていた。心の中では浅葱色の悲しみに似た感情があの悪意の塊を強引に塗りつぶしている。水面のように凪いでいるようにみえて、その下では、空虚な想いと相反する怒りを抱えていた。混ざりそうで混ざらない、反発し合うもの同士を無理矢理形にして抑えていた。ほんの少しの刺激で崩れ去る儚いものだ。

 それでも買った菓子とソーダを抱えながら歩く。橋が見えて来たあたりで、アズマは私が押し通していた沈黙を破った。


「シラザキさんは何をしようと思って此処まで来たんですか?」

「えっと、」

「シラザキさんって電車通学だった気がするんですけど、こっちは駅からは反対じゃないですか」


 アズマの言う通り、私は電車通学だ。駅に向かうのにもバスは使わない。


「探偵みたい」


 私は小さく呟いた。

 会った時から見透かされていたのか、ただのあてずっぽうか。そんなこと私に知る由もない。

 嬉しく思った反面、隠し事は通用しないと暗に言われたように思って、憂鬱な気分になった。

 彼になら、何もかも投げ出せる。なんて甘い考えを抱いて、何回も何回も考えて、結局、


「ずっと死にたかったんだ」


 私はそれに出来る限り何時も通りを装って答えた。動揺が、涙が、震えが、態度に出ないように、淡々と。

 泣かないように。私の独白に付き合わせるのだから、せめて同情させる余地も無いというくらい、固く、冷たく、単調に。


「私は、努力家とか、真面目とかいう言葉と無縁な人間で、小学校の頃から提出物の一つも出して無かった。

 まあ、小学校の頃はまだ良かったよ。地頭が良かったのか努力しないでも成績は維持できた。提出物が出なくても困るような物は殆ど無かった。」


 アズマはただ私の言葉に相槌を打っている。


「まあ、そんなのずっと続くわけないよね。小学生の私でも、分かってた。」


 そうだ、ずっとこうなるって思ってた。


「まず注意された。教科書もノートもプリントも忘れた人間がヘラヘラ笑ってるんだから、当たり前だよね。」


 目を閉じれば、ハッキリと聴こえるあの怒声。


「変わろうとしたけど、本来なら努力の範疇にすら入らない当たり前だけど、頑張った……と思う。まあ、変わらなかったけど。それ以前も、以降も、同じだった。」


 努力をしたという経験が大切なんて言われるけど、そんなこと意味が無いと思う。少なくとも私の経験はそれだった。


「それからだよ、死にたいと思うようになったのは」


 自分の声が震えていることが恐怖心から現実と切り離した心でも分かった。

 その理由も明確に思い出せる。透明で空っぽな、ついさっきまで中身の入っていた、瓶とコップ。強烈な眠気と、今でも思い出せば、不気味に思うほど穏やかな心境。何時の日にか使うだろうと溜め込んだ鉢巻や靴紐にコード。ついぞ己の肉体に傷つけることは叶わなかったカッターナイフ。何時か見たいと思った花。腰掛けた柵のすぐそこにある怪物の背のような夜空色の水面と、くすんだ銀色の波。紅い、赤い、液体が見える。


「いや、確実に、出来る限り残酷に、死にたいと思うように」


 嗚咽混じりのこの声は届いているだろうか。恐怖ばかりのこの言葉はどうか届かないでほしい。私には心を殺すなんてことは出来なかった。その安易な手段を用いるには、私は余りに恵まれすぎている。せめてそれ以上迷惑を掛けないようにしたい。


「だから、私は死ぬために」


 此処に来た。その最後の言葉は全く声に出せなかった。

 私達の間に再び沈黙が漂う。

 もう、別の日にしよう。判断が遅いが、人に迷惑は掛けられない。改めてそう思う。

 彼から学校の誰かに漏れたら、それは私の不始末と受け入れよう。そう私が決意を固めた時。糸を切る声がした。


「オレはシラザキさんの事情に首を突っ込むつもりは無かったんですよ。まあ、今こうやって首突っ込んでる時点で説得力は無いんですけど、」


 そう言って苦笑交じりに頬を掻いて、そもそもシラザキさんと会えるとも思ってなかったしと、付け加える。


「オレも死にたいと思った事があって、やっぱ人間なので。それでもシラザキさんみたいに本当に実行する程ではないし、それくらい死にたいって思いに人として寄り添えるわけでは無いんですが」


 そこまで思うなら、何も言わないまま開放してほしい。私の思考は決して周囲には受け入れられない、異質なものだ。受け入れられるかもなんて甘い幻想を見せないでほしい。


「生きたくても生きたい人とか、生きていれば希望があるとかって、こう、やっぱ、こっち側のエゴだし、世の中にはやりたい事が出来ない人もやりたくない事を強制される人も沢山いるじゃないですか。だから、」


「もし、シラザキさんが生きることを望まないなら、死ぬことも一つの選択で勇気ある行動だと、オレは思いますね。」


 真っ直ぐに私を見据えて、そう言い放った彼は、もちろん、こんなこと言うべきでは無いし、言うようなことがあってはならないと思うけど。と、付け加えた。

 私の肩を叩いて、同じ真剣な目で、言った。


「大丈夫。誰もお前を笑わない。」


 彼は欲しい言葉をくれた。私の行為を肯定してくれる。その言葉がただ嬉しかった。


 緋色はもうとっくに地の果てに消え、空は広く濃い藍色が覆っている。川岸にはビルが立ち並び、人工的な光が煌々と星のように点いている。


 ありがとう。私のヒーロー。


 矛盾するようだけれど、絶対に口にはしないけれど、




 ――――それでも私は否定してほしかったよ。


 段々と遠ざかる悲しげなアズマの顔をしっかりと目に焼き付けて、内臓が掻き回されるような浮遊感と湧き上がる幸福感に身を委ねて、私は目を閉じた。

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