あの夏の日にやり残した約束の意味は……。

佑介ゆうすけ、身体はもう平気なの? 無理に起きなくてもいいのに。それに今日はお姉ちゃんの手伝いは必要ないんだから」


「うん、もう大丈夫だよ。夏月なつきお姉ちゃんが気絶した僕をリビングのソファーまで運んで介抱してくれたんだね。助かったよ本当にありがとう」


 リビングに置かれたソファのかたわら、夏月お姉ちゃんは神妙な面持おももちのまま僕の顔を心配そうにのぞき込んでいる。その姿はこれまでの上から目線なメスガキではなく年相応の少女を思わせた。


「あれっお姉ちゃんどうしたの!? ザコキャラ呼ばわりされないとなんだか妙な気分だな」


 すっかり意気消沈してしまった彼女の様子を見ていると反対に自分が罪悪感を感じてしまうほどだ。まだ少し頭の奥が痛むがこれ以上心配をかけまいとつとめて明るい声を出した。


「お風呂場から悲鳴をあげて逃げ出しただけじゃなく、スクール水着越しに夏月お姉ちゃんのまな板な胸を押し付けられて脱衣所で無様ぶざまに気絶しちゃうなんてさ……。おまけに鼻血まで出してかっこ悪すぎるだろ。これが弱っちくなかったら何なんだよ、まさに罵声を浴びせる絶好のチャンスじゃん!!」


 つい調子に乗りすぎてしまったか? さすがにちっぱいな胸をまな板扱いしたら、さすがに怒られるだろう。僕は罵詈雑言を浴びせかけられるのを覚悟した。


「ううっ佑介、いまは何も言える立場じゃないし、罵られるのは私のほうだ……」


「夏月お姉ちゃん、そこまで気にして」


「また私は佑介に迷惑をかけちゃったね。あんたがお風呂でのぼせていたのに全然気がつかないなんてお姉ちゃん失格だよ。調子に乗って脱衣所まで追いかけまわしてラッコさんの親子ごっこなんてしちゃて。まさかそのまま気絶するなんて夢にも思わなかったから。……本当にごめんなさい」


「違うよ、のぼせて気絶したんじゃない!! 親父からは僕の退職の話は聞かされていると思うけど……。これまで前の職場でやってきた仕事の疲れが身体に蓄積してるのが多分にあると思うんだ。ははっ、まだ若いのに我ながら情けないよな。だから夏月姉ちゃんは全然悪くないし、そんなふうにこの世の終わりみたいな悲しい顔をしなくてもいいんだからさ。ほらっ!! これまでみたいに弱っちいざぁこ♡ ってののしってくれないと何だか調子が出ないから」


「ホントに本当!? これまでみたいに佑介のことを弱っちいざこざこ!! ざぁこ♡ 女子小学生のスクール水着のナイロン素材の感触に悩殺されて鼻血を出すなんてどれだけ真性ロリコンをこじらせているの!?  もしも私が本当のお姉ちゃんじゃなかったら警察に通報案件で今ごろ逮捕確定だったじゃない。命拾いしたわね、感謝しなさいよ、この下僕弟!! って虫けらを見るようなさげすんた視線で見下みくだしてもいいのね」


「そ、それは夏月お姉ちゃん、調子が出るどころかメンタルを完全に破壊されるんですけど。さらに僕の社会的生命まで抹殺する気まんまんじゃないか!!」


「あ、ごめんごめん!! てっきり佑介は言葉責めのご褒美を貰わないと満足できない身体になっちゃったのかとお姉ちゃんは勘違いしちゃったよ」


 夏月お姉ちゃんの脳内ではどれだけのド変態扱いにされちゃっているんだよ、まったくもう……。


「それはさておき一度病院に行かなくて本当に大丈夫なの? 佑ちゃんにもしものことがあったらお姉ちゃんから!!」


 まるで姉のその言葉が号令だったかのように窓の外でひぐらしが突如鳴き始めた。


 ……いや、違う。これは僕の頭の中でだけ鳴り響いている音だ。この不協和音の正体はいったい何なんだ!?


 ……異音はすぐに鳴りやんだ。僕の気のせいだったのかもしれない。


「と、とにかく、大丈夫だから……。お姉ちゃんはそんなに心配そうな顔すんな。よっこらしょ。それに僕は寝ている場合なんかじゃないしさ、水浸しになった部屋をちゃんと手入れしないと床が天然目だから表だけ拭きあげても駄目だよ。中に水分がしみ込んで痛んでしまうから」


「え、ええっ!? 何だか佑介、おうちのプロの人みたいじゃん!! 詳しすぎ!!」


「プロの人みたいとは失敬しっけいだな、こうみえても僕は住宅関係のエキスパートだよ。浅く広くの部分も多いけどひと通りの分野は経験済みだ。まあ、この別荘みたいに自分で建てるセルフビルドまではやったことないけど……。憧れるよな!! 男の隠れ家を自分で建てられるなんてさ」


「すっごおぉぉい!! お姉ちゃん佑介のこと見直したかも。じゃあこのリビングのゆかがブカブカしているのも直せたりするの?」


 夏月お姉ちゃんはリビングの向かいにあるカウンターキッチンまで移動してから足で地団駄を踏む格好をした。スリッパの下で湿った音を立てて床材がへこむのがこちらからも見て取れた。しっかりとした作りとはいえ、すでに築二十年以上が経過した物件だ。外観はリフォームされているが室内は新築当時のままの箇所も多く見受けられる。


「ああ、材料と工具があれば朝飯前だ、ちょうど親父が自分の古民家再生で使う機材を揃える手伝いをしなきゃいけないし、たしか隣町には大型ホームセンターがあったよな。今日、買い出しに行ってくるよ、あ、お姉ちゃんもついでに何か買い物あったりする?」


「うん!! あったりするする!! 佑介とお買い物デートなんてすっごく楽しそうだし。それにきょう一日、あんたのお世話係の約束は絶賛継続中なのを忘れて貰っちゃあ困るよぉ♡」


「ははっ、お手柔らかに頼むよ。そうとなったら善は急げだ!! 夏月お姉ちゃん、この部屋にはメジャーはあるかな?」


「佑介、ってお外で野球でもするの?」


「お姉ちゃん、それはメジャーリーグだよ!! 金属製の物があれば一番いいんだけど、メジャーって長さを図る巻き尺のこと」


「なんだ、最初っからわかりやすく巻き尺って日本語で言ってよね、気取って横文字を使うのは佑介、子供の頃から変わんない癖だよ。それでよく地元の友達にからかわれていたよね」


「……まったく夏月お姉ちゃんにはかなわないな、そんな昔の話をよく覚えているよ。あの頃の自分は半可通はんかつうを気取っていたんだと思う。今思い返しても可愛げのないガキだったよな。そんなふうに悪目立ちするから地元の子供たちと遊んでも生意気だってすぐにいじめられたっけ。年上のお姉ちゃんにかばって貰うのがいつもお決まりの流れでさ」


 小学生の夏休みのあいだ、帰省していた僕たちにとって、この辺りは第二のふるさとだった。大自然に囲まれた環境は都会育ちの僕には刺激に満ち溢れていた。思い返すと最後にこの地を訪れたのは、夏月お姉ちゃんがちょうど小学六年生の夏だったな。


「布の巻き尺なら持ってるけど、鉄製のほうがいいんでしょ?」


「うん、出来れば正確に床材の寸法を測りたいな」


「そうだ!! お父さんの書斎兼仕事部屋にならあるかも、でも私はあの部屋には入れないから……」


 一瞬、彼女の表情に陰りの色が落ちたのは僕の見間違いだろうか? リビングに姉を残し父親の部屋にむかう。リモートワークでも仕事場として活用していたと聞いている。この別荘の中でも異彩を放っていた。部屋の重いドアを開けても室内には外の光がほとんど差し込んでこない。壁をまさぐりながら室内灯のスイッチを入れる。父親の仕事はかなり変わった物だ。その仕事内容とは……。


「相変わらず几帳面きちょうめんな親父らしい片付いた室内だな、子供の頃に入ったときと全然変わっていないや。想い出写真復元師の仕事か……」


 奥には暗室があるのも昔のままだ。この独特な薬品の匂いを嗅ぐと少年時代にタイムスリップしたような気分になるな。部屋の正面にしつらえられた白い作業デスクの上に置かれたある物が僕の視界に入る。鈍色にびいろを放つその長方形の物体にまるで吸い寄せられるように目が釘付けになった。


「このカメラは!? 嘘だろ!! まだ現存してるなんて信じられない、いくら自分の部屋を探しても見つからなかったのに……」


 オリンパス PENーEE 110✕✕✕!? ボディ内部に刻まれたシリアル番号も確か記憶の中の数字と同じだ。


 僕がこの別荘に訪れた過去の夏休みに夏月お姉ちゃんを絶対にきれいに撮ると約束した思い出深いハーフ方式のレトロカメラに間違いない……。


 親父がなぜこの別荘に僕を急に住まわせたのか? 意味ありげに机の上に置かれたカメラを見つめていると、これこそが過去にやり残した課題を解く鍵のような気がしてならなかった……。


 次回に続く

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