熊蝉

@Alan_Smithee_0902

熊蝉

 大学に入学して故郷を離れた。親元を離れたからといってそれほど生活が変わることはなく――朝起きるのだけは辛かったが――、起床して授業を受け、食料を消費して眠りにつく、そのリズムを繰り返していた。静かで慎ましい時間が、少しずつ、しかし速度をもって過ぎていった。

 夏が来た。エアコンの効いた部屋で布団を敷いて、いつものように床についた。電気を消して瞼を閉じるが、それほど眠気が来ていないので、実際に眠りに落ちるまでには相当時間がかかるだろうということもわかっていた。視覚が遮断されて、聴覚が研ぎ澄まされる……窓に何かがぶつかる音がした。普段なら気にも留めないような小さな音が、ひどく意味ありげなものに聞こえた。起き上がって窓を開け、ベランダに出た。エアコンの室外機の上に転がっていたのは、小さな虫。大方、誤って窓ガラスに激突してしまったのだろう。特段憐れむことも愛おしく思うこともなかったが、何か惹かれるものがあって、その虫を拾い上げた。

 刹那、その虫は激しく喚きだした。蝉だ。普段聞く、規則正しい鳴き声とは似ても似つかない、ひどく濁った、醜い声。生きるために、なりふり構わずもがいている。

 その声を聞いた瞬間に、突然息苦しさを感じた。全身に広がる倦怠感、気管支の詰まる感覚、そしてその奥にある快さ。一瞬目の前に木々と山道が広がったような気がして――しかしそれらはすぐに消える。そこにあるのは、ゆったりとしたパジャマに包まれた身体と音を立てて熱風を吹き出す室外機、そして死にかけた蝉だけ。蝉は今なお生を求めて呻き続けているが、もはや幻想は喚起されなかった。

 ほんの一瞬だったが、その光景には見覚えがあった。私が走るのは、蝉の声と木々の葉に包まれた道。眼下に広がる町を、沈みかけた夕日が照らす。頂上にたどり着くと、そこには戦没者追悼の記念碑があって、その前に立って一息ついた後、猛然ともと来た道を駆け降りる。幾度となく繰り返した、部活動のトレーニングだ。最終地点にある階段を一気に下ってタイムを計測する。大きく息をついて腰を下ろす。水を飲み、天を仰ぐ。そして地面に目をやると、

 腹の白くなった蝉は、もう長くは持たない。最後の力を振り絞って、歩き、鳴き、飛ぶ。その時もそうだった。不格好に、醜く、しかし生き生きと――まるで、ほとんど全力を尽くしてランニングを終えた私のように。よくわからない、ほとんど傲慢といってもいい親近感を私は思い出した。

考えてみれば東京の夏は、明らかに異質なものだった。蝉が鳴かない。私にとって蝉といえばクマゼミだ。朝の早い時間に鳴く、あのシャアシャアシャアシャアという喧しい鳴き声が、学校に向かい、勉強し、走る私の耳に突き刺さっていた。東京で、私はクマゼミを一度も聞かなかった。

 まだ断続的に泣き喚いている蝉をベランダの外に放った。蝉は一瞬鳴くのをやめて不器用に飛んだ。電柱に何とか捕まって、再び鳴きだした。

想像していたよりもずっと、私は故郷が恋しかった。


(終)

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