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 海歌がぷくぷくと口から泡を出して沈みゆく中、水を掻き分けて、だんだんと近づいていく。海歌の上には在りし日の俺がバタバタと水中でもがいていた。すると、パッと一瞬目が合う。こちらに精一杯助けを求めながらも、その助けは妹である海歌へと向いている。どうか、いもうとをたすけて!そんな悲痛の声が、表情と海歌を指す右手に込められていた。何も変わってなどいない、昔も今も。


それに応えるように、海歌の左腕を掴んで、海面に向かって苦しむ身体を動かす。海歌の身体は浮力を受けているというよりも、何かおもしのように、重たい。これが海中のゴミならばすぐに離していただろうが、絶対に離すことは出来ない。右手の握力が限界を迎えていたが、歯を食いしばって耐えた。そしてバタ足を死力を尽くして上昇し、水という死の空間からなんとか顔を出すことが出来た。それでも海歌が目を覚ます気配はない。


荒々しく肩を上下させながら呼吸をして、肺にいっぱいの空気を取り込み、もう一度潜水する。今度は俺自身を助けなければならない。


 在りし日の俺はバタバタとしていたからか、海歌ほど沈むこともなく比較的浅い場所にいたので、すぐに引き上げ、海面上へと顔を出させた。だいぶぐったりとしているが、なんとか自発的に呼吸は出来ているし、今にも泣きそうな表情で海歌を見つめていた。……ここからが正念場だ。


 離岸流は長距離短幅の異常的な海流だ。そのラインから逸れてさえしまえば押し戻される心配はない。それは良い。問題はどう二人を砂浜まで連れていくかだ。一人の力ではどうしたって無理だ。俺にそれを成し遂げるだけの体力と水泳能力があれば話は別だが、スイミングサークルに入っていた程度の泳ぎである(海歌との記憶に蓋をした後、両親によって入れられた)。そしてもう一つは――




「にいちゃん、うみかがっ……うみかがぁ……!」




 そう、もう一つは、海歌の反応がないこと。呼吸が乱れる中、その音や波の音を自身の世界から排除して、海歌の口もとに耳を寄せる。……自発的になんとか呼吸は出来ているようだが、こちらの呼びかけにも反応せず、ぐったりとしてぬいぐるみのような状態だ。在りし日の俺の右腕を掴み、もう片方の腕で海歌を支える。波の揺れと不自然なまでに強い風に当てられて、常にギリギリではあるが、唯一浮力によって助かっている。


どうすればこの状況から抜け出せる、どうすればここから二人を救える?手足の感覚が麻痺し、視界が揺れる。二人を掴んでいるだけでゆっくりと沖へと流されていく。このままじゃ……いや、諦めてなるものか。ここで諦めてなるものかっ!誰かに、俺に、負けてなるものか。喪失感と罪悪感と、諦観にうなだれ半ば自暴自棄に絵の世界へと入り込んだのは、逃げたのは誰か。


そうして過ごした世界で失ったものを、失った海歌が願ってくれた。友情もある種の恋も家族も、その全てが俺の一部として幸せになっても良いのだと、そう願ってくれた、海歌のためにも。唯一の俺が、この先逃げるわけにはいかないのだ。唯一の彼女を、死なせることなどあってはならないのだ。そうしてもらった、そうお膳立ててもらった。その先にある運命は、俺が掴むのだ。歩まなくてはならないんだ。


 だから、どうか俺よ。もう少しだけ、あとほんの少しだけ……!




「私がいる、大丈夫」




 波と、太平洋の遥か彼方から届く懐かしいような音に混じって、すぐそばから、これまで聞いてきたの声が聞こえた。振り返らずともわかる声。それにどれだけ感情が動かされてきたかは言うまでもない。それまで感じていた疲労感や抗うと決めた諦観は飛んでいき、感覚をなくした右腕は、再び血が通い、恐れとなって先ほどまで停滞していた血が、勇気となって胸に還る。つかない足をくるりと回し、身体を声の主へと向ける。




「海歌……!どうして!?」


「説明はあとっ!とにかく上がろう!このままじゃ全員もれなくあの世行きの潮流に乗るよ」


「っ!!……ああ、分かった!そっちを頼む!」


「任せて!散々暗闇を歩いたから、体力はあるっ!……私を、よろしくね」




 そうして現実に干渉することが出来ないはずだった海歌が海へと現れた。俺の腕の中には海歌、海歌の腕の中には青人。俺たちは、俺たちを。二人で一つだった私たちを、俺たちで。




「いこう、海歌!」


「うんっ!いこう!」




 ゆっくりと海水を蹴って、離岸流の末端から逸れて、海岸へ向けて再出発を果たす。海歌との合流に勇気づけられた身体。しかし疲労はすでに限界を迎えている。ギュッと、腕の中の海歌を抱き止め、そこから発現する激情という麻薬によって足の疲れを海底に捨てる。死力と、最後の活力を振り絞って、隣で同じ場所、同じ結末を願う彼女とともに、太陽に照らされて白く輝き、運命の煌めくあの海岸へと。


片手と両足と勇気で泳ぐ、いや、諦観も後悔もやるせなさも全て、その全てを尽くして泳ぐ。現実をどこか絵空事のように泳いできた俺が、ゆっくりと、しかししっかりと泳ぐ。泳いでいる。押し寄せる海岸からの自然現象でありながら、その存在を否定するような波を受けながらも、だんだんと近づいていく。横目で海歌を見れば、その時、海で海水に似た瞳でゆっくりと、その海を流していた。それがまた、俺の推進力となる。


はぁはぁと息を切らしながらも、足裏から僅かに感じられる地面の感触。それはやがて――




「あしがっ……」




 もう少しで地面という所で、足の力が完全に抜ける。もう一歩だって、一ミリだって動かすことが出来ないということを、本能で悟る。眉をひそめ、歯を歯が割らんばかりに噛み締める。




「私にっ……任せて!」




 後ろから海歌が押す。背中に確かな手のひらの感触とエネルギー。海歌の吐息が聞こえる。否、聞こえるほどに大きい。ぜぇはぁと俺以上に息を切らし、途中で意識を失ったらしき青人を片手でおぶって、もう片方の手を俺に当てていた。そうしてやがて、地面に足が着く。海水に浸された砂利の感触に安堵し、ふらふらと戻ってきた足の力を振り絞って、渚へと上がる。そうして二人を波が来ないところで寝かせ、俺たち二人は倒れ込むようにして座り込んだ。




「ハァハァ……なんとか、たすけっ!られた……」


「はぁ……泳ぐのって、はぁ……けっこう、キツイね……!!……ぷっ」


「……っ、ははっ!」




 海歌が吹き出し、それにつられて俺も口を開け、軽快な笑いが込み上げる。そうして二人で大笑いをして、地面へと転がっていた。それをどのぐらいしていたかはわからない。しかしそれが少しおさまった時、すでに俺たちの両親がそばまで来ており、近くには救急車とその隊員が来ていた。




「あおと……よく無事で……!」


「うみか……よかった、ごめんなぁ……っ!!」




 眠り込む双子の側で座り込んで泣く両親を見て、なんだか、全てが終わった気がした。……すると突然、横にいた海歌が俺の右手を両手で握ってきた。少しびっくりしたが、やがてその意味を知り、優しく微笑みかける。それに反応して、海歌も目を細め、頬を軽く上げて、俺が想像していたを、その口から発する。それはどことなく、満足げであった。






「帰ろう、あおと」






 それに頷き、瞼を閉じる。そこで意識は、プツリと途切れた。












         ***












「起きて、あおと」


「ん……はっ!?……ここ、は?」


「帰って、きたんだよ」


「そうか……俺は、俺たちは、私たちを救ったの、か」




 上体を起こして見渡せば、限りなく闇。しかし、海歌の背には青白く光る、ドーム型のアクアリウムが薄らと映る。そこで瞬時に、感覚的に理解した。――ああ、これが、最期なんだな、と。


 海歌は無い椅子にゆっくりと腰掛け、こちらを覗き込む。その瞳はどこか揺れているようで、見つめる場所は一点である。それが何を意味しているのか。気づけばゆっくりと立ち上がって、身体を海歌の方へと向けて、話しだした。




「……これで、未来の今は変わるかな」




 何故か、いつもの口調より丸みを帯びる。




「変わるとも。私は、その世界に行けないだろうけど……それでも」




 そこで指を髪に向け、やがてするすると指に髪を巻きつけ、悲しく笑い、続ける。




「それでも、もし。また生まれて逢えたら……そしたらっ、また、妹になれるかなぁ……?」




 海歌の頬にスッと一筋、幕が降りていく。柔らかそうな肌に流れて、顎からポツリと落ちる。そして彼女の足下で波紋となる。彼女の気持ちに、後悔とやるせなさが湧き上がる。あの翁とも会話の中で確認したが、今なら自身の感覚としてハッキリと分かる。。報いかあるいは、代償。どこかで代償という表現を口上でしたが、良くも悪くも、と言う点においてはきっと、報いなのかも知れない。


 海歌の問いに、わけもわからず見えない力が働く。その刹那、息に乗せて言葉を紡ぐ。それが糸のように、俺たち、私たちを繋ぎ止めるように、と。願いながら。




「きっと、なれるさ……いつになるか、それとも。俺が死んで、来世というものでなるかも知れない。その先か、そのまた先になるか……それでもっ!」




 乱暴に息をして、もう一度、同じように紡ぎながら話す。流れる涙も汲み込んで、編んで、繋ぎ止める糸にするのだ。




「俺は……おれはっ!……もう一度、海歌に、君にっ、会いたいっ……」


「……そっか。なら、心配ないよねっ!」




 腕で涙を拭って立ち上がる海歌は、ポケットをまさぐって、二つのキーホルダーを取り出す。それはいつかの、別れ印。右手のひらにスッと置かれたそれを、俺の方へとゆっくり差し出す。




「これ、持ってて。それにもう一つは、青人のだし!……それにこれが、これがあれば、また出会えるかも、ねっ」


「……いつまでも、待ってる」




 左腕を上げ、手のひらでキーホルダーを掴んだ、その時。




「……あ、れ?」




 瞬きの奥に焼きついた、海歌の泣き笑いは、浴室の鏡へと変貌を遂げ、情けなく立ちすくむ俺自身の姿が目の前に現れる。




「なんで……まだ、話してないっ、のにっ……!なんでぇっ!!」




 拳にあるキーホルダーを強く強く握り、ただ涙を流した。暖色の中で一人しばらく、嗚咽がこだまする浴室内で、うずくまっていた。


 ……つぎに目が覚めた時、濡れた着衣からは潮の香りがした。それに気がついた時、もう一度、泣いた。……それから、着衣で湯船に浸かっても、もう二度と、あの空間へは行けなかった。












         ◇◆◇












「もう、終わっちゃった、かぁっ……」




 静かに立ち尽くし、自身の終わりが来るのを待った。背後から近づくアクアリウムが、それを暗に意味している。




「もっとっ……はなし、たかったなぁっ……!最期ぐらいっ」




 溢れてくる、これまでの全てが、身を焦がす。どうしてこんなにも熱いのか、こんなにも、苦しいのか。簡単だけどそうじゃない、情動が生まれていたが、それが臨界に達するよりも早く、崩壊する。




「いつまでもっ……、いつまでも。あなたが安息の中で、息ができますように――私が、息ができなかったぶんまでっ!」




 崩壊が身体を貫き、やがて、溶けていく。その時が訪れる、数秒前に——再会の言葉を、祈りとともに。




「またねっ」

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