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         ◇◆◇












 部屋が崩れ去っていくガラガラとした音が、私の存在の終わりが近づいていることを告げてくる。今はもう、あの白いソファも描いていたキャンバスも無い。ただ私は、暗いくらい空間の中、地面と呼んで良いか分からない平らな闇の上で一人、うずくまっていた。


見えない時間の中で、短いようで長い記憶の見せる夢を見る。青人とのこれまでの改変、青人のこれまで、そしていつかの時の、約束——




『にいちゃん、うみかをまもるっ!』


『……うんっ!やくそく!』




 小さなちいさな小指と小指を絡めて、結んで。そうして叶えようとした、約束。その瞼に映る光景が愛おしくて、哀しくて。胸が熱くなり、まるで強い衝撃に当てられ噴火するよう、目から溢れ出す海水に似たものが、心の傷口に入り込んでズキズキと痛みを重くさせる。


嗚咽が漏れ、表情がぐしゃぐしゃになった状態で、消えるという事実から、もう青人とは会えないことから逃げるように、うずくまって眠る。


…………


………


……





「ん……あれ、おきちゃっ、た……?」




 うずくまった状態から顔を上げ、何も無いはずの天井を見上げる。すると、小さく輝く星に、宙を泳ぐ二匹の魚。思わず辺りを見渡したが、他には何もなく永遠の闇が広がるばかり。不思議に思ってもう一度、宙を泳ぐ魚たちを見る。


並んで泳いでいたと思えば、今度は追いかけっこをしている様子。どこか楽しげな二匹は、遠くて近い過去の自分たちを見ているようだった。それに思わず笑みがこぼれる。そんな時間もすぐに終わり、二匹はやがて宙の遥か遠くの星へと泳いでゆく。


尾ひれの残像が小さくなっていく。ゆっくりと伸ばす腕は、あの星には、届かない。そんなことは分かっている。分かっていようとも、その腕をしばらく下げることはなかった。だんだんと焦点がズレていく星と宙は、不思議なことに水の中から見たようにふにゃふにゃとしている——否、泣いている。


手で涙を拭い、もう一度宙を見上げる。星も魚もすでに消えており、残るは闇。そんな闇の中から、誰かがくる——いや、ここに来るのはしかいない。




「……もう、終わっちゃうのかぁ」




 乱れた髪と服を整え、平然を装うためにふっと笑って表情を作る。そして、覚悟を決める。……別れたくないと思いながらも、それが彼の、青人の願いを叶えるためには必要なことだから。そこに私の意思は、いらない。



 

ただ祈る――彼が、この先。過去を見ず、未来へと向けるように、ただ、祈るの。












         ***












 ……目覚めた時、俺の周りに海歌は居らず、ただただ深い闇が永遠広がる空間で目を覚ました。一瞬、別の空間――強いて言えばあの世だと思いあたふたしたが、遠くの淡い光が差す場所に誰かが座っているのを見て、一安心したと同時に、思わず見惚れた。


青色のセミロングの髪がところどころボサつき、頬には涙の跡がある、しかし。両手を結んで何もないはずの宙に向かって、立て膝をついて目を閉じ何かを願っている様はまるで、神に願う姫君のような美しさ、神聖さがあった。そしてワンテンポ遅れて、それが海歌であることに気づいた。




「……海歌」




 近づき声をかける。海歌は突然のことに驚いた様子を見せたが、すぐにいつもの表情になり、こちらに目を向ける。




「来ちゃいましたか」


「ああ……」




 何を伝えるべきなのか、それとも惜しくなるから伝えないべきなのか。海歌を眼前に据えた今、その思考が走る。きっと、伝えてしまえば苦しくなる。この先に待ち受ける運命があるからこその考えだ。途端に胸が熱くなる。覚悟を決めてきたはずなのに、それでも揺らいでしまう俺はきっとまだ、弱い一人の人間だ。


暗く冷たい空間に沈黙が走る。海歌はこちらをチラチラとうかがっている。きっとどう言葉を掛ければ良いか分からないのだろう。それは俺とて同じ。互いに手を組んだり下を向いてみたりと、落ち着かない様子でしばらく無言で立っていたが、それでは先に進めないので、意を決して俺から言葉を掛ける。




「えっと、その……あとで、話せるか?改変が終わった後に」


「……わからない。もうこの空間が、私が、いつまで居られるかわからないから」


「そう……いや、今から話すと、改変に行かずに終わっちゃう気がしてさ。それは、それだけは、無いようにしたいし……でも……あぁもうっ!なんか上手くいかないなぁ」




 頭を掻きながらそう言うと、海歌はこちらをぽかんと口を開けて見ていた。その表情が妙なおかしさで、頬の筋肉と脳幹を刺激する。クスクス、やがて目をギュッと閉じ、頬を上げて口を開きながら笑ってしまった。それにつられてか、海歌も徐々に笑いだし、二人で涙を流すぐらい笑い合った。


 笑いも徐々におさまり、ひと息吐いたところで、海歌が呟くように言う。




「私ね、もう怖くない。こうして笑い合えた事実があるだけで、そう思うの。だからもう、悔いはない」


「……俺も、もう恐れない。正直、惜しいのはある。でも願いを拒否は出来ないから。必ず、改変で未来に繋げるよ」




 口端を少し上げて、強がりながら笑ってみせる。海歌は青い瞳でこちらを凝視した後、ぷいっと反対方向を向いて、あ~あとかなんとか言いながら、また呟く。




「……きっと、助けてね。私じゃない私を」


「ああ、約束する。……これ、持っててくれ」




 そう言ってポケットをまさぐり、青色の魚のキーホルダーを海歌に渡す。海歌はそれを受け取ると、オーバーオールから黄色の魚のキーホルダーを取り出し、両手でギュッとした。数秒そうしていただろうか。やがて二つとも持って、その切先を俺の胸へと突き立てる。




「私を……にいちゃんを、よろしくね」


「行ってくる!」




 突き立てられた二つのキーホルダーが胸に刺さり、身体の内から光が貫く。白い光の中で先ほどまでいた闇を想う。あそこに帰るのだ、俺は。












         ***












 光の靄がだんだんと晴れていき、見覚えのある雲と空、そして海岸線が眼前に飛び込む。――静波海岸。ここで海歌と俺は、両親が目を離した隙に渚へと近づき、奥へと進んでいった。


両親から聞いた話では、原因は離岸流による急激な波の流れによって沖のほうへと一気に流されてしまったらしい。それを防ぐのなら、一番手っ取り早いのは、未来の記憶があるが、あの日の海歌を渚へと連れて行かなければ良い。


 そうして少し気を抜きながら、最後の改変にしては以前の改変のような緊迫感のようなものがなく、なんとも拍子抜けである。そう思いながら近くに姿が見えない海歌を探していると、砂浜に立つ二人の姿が見える。両親だった。控えめな水着を着て、なにやらあたふたとしている。どうも落ち着かない様子で――




 違う、何かおかしい。




 首と身体を右往左往させる。車、木、自由の女神のレプリカ、そして両親の。空も子供が見るには低く、雲も近い。身体を見渡す。




 俺は当時の俺ではない……!だ……!!




 成熟し切った身体がその事実と異常性を伝える。手を顔や胴体に当てて、改めて理解する。――最後の改変は、普段とは違うのかっ!?しかしそうなると……そして、見えない姿と両親の慌て様。




 もうすでに二人は海に居る!!




 そう考える頃には既に、足が動いていた。少し沈む砂を散らしながら走る。海へと近づくたびに、良い知れぬ恐怖が湧き上がる。過去の出来事がトラウマとなって蘇ってくる。そんな中、渚へと足を入れ辺りを見渡せば――沖の方へと流されながら必死に助けを求める男の子の手が海面から頼りなく出ている。女の子の姿は、ない。


両親はどうやら気づいていない。他の客は皆無である。助けられるのはやはり、俺しかいない。少し震える手足を思い切り叩き、トラウマを、湧き上がる地下水を思い切り蓋で押さえつけるように封じ込める。そして想い出す……海歌との、約束を。




『まもる』




「そこの二人、ここで人が溺れてる!」




 そう両親に声を掛けて、助けを求める。それに気づいたのか、こちらに走ってくる。




「男の子と女の子だ!あなたがたは救急車をお願いしますっ!!」


「まさかあの二人……!って、危険ですよ!!」




 若き父が言う言葉を聞くことなく、海へ向かって押し返される足を一歩ずつ進めていく。




「僕が助けます!ご両親は早く、通報を!!」




 それだけ言い残し、海へと飛び込む。……!?波打ち際から途端に猛烈な流れが襲う。しかし今はありがたい。お陰で早く二人まで届くことが出来る!


そうして腕で海水を掻き分け、足の先までばたつかせ、やがて助けるべき存在の二人を視認する。俺の方は大丈夫だろう、問題は――小さい泡を口からぷくぷくを出しながら、瞼を下ろして力なく沈んでいく、海歌のほうである。その方向に、腕を伸ばしながら、聴こえない空間に声を上げる。




「うみかあぁ!!!」




 その叫びが、最後にならないように。彼女に、届くように。

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