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 一年の夏休みに付き合ってから三ヶ月。夏の暑さもすっかり影をひそめ、木々が赤や黄色に染まり始めた頃。いつものように俺の部屋で、テレビを観ながらゆったりする海夏と、黙々と絵を描く俺がいた。


確かこの時あたりから『あの絵』を描き始めていたと記憶している。とは言っても下書き段階であり、今の絵とは全く違う様相だったはずだ。


 バラエティー番組を一通り観終わった彼女が立ち上がってこちらに近づき、絵を覗く。




「これってなに描いてるの?」


「ん~とね、なんて言ったらいいか分かんないんだけど、脳裏に浮かんだものを描いてる」


「ふーん……この女の子がそれ?」


「え、うん。一応そうだけど……」




 いつもの彼女ならもっと踏み込んで質問をしてくるはずだが、この時はなぜかそこで会話が終わってしまった。それにどこか不満そうな顔である。


基本的にいつも描いている絵は、幻想さに内在するリアリティを追い求めているため、魅力的な風景の中に人物を置くようにしている。そこに性別は関係なく、合うと思った人間を住まわせているため、彼女が『女を描いている』ということに不満を持っているということはないだろう。だからこそ不思議なのだ。


彼女が俺の絵を見て、あんなにも不満の意を隠さず表情に出すことは。


 それからほぼ毎日、いつものように彼女との日常を過ごしていたある日。いつかは言われてしまうと感じていた言葉を、彼女の口から言われた。




「ねえ、その絵やめない?」




 この時俺は、自身の創作活動を彼女に止められたことに対する怒りではなく――驚き。そして悲しみ。


彼女が俺の創作活動を止めることは今まで一度もなかった。前々からアドバイスや批評をもらったことはあるが、こうして直接止められたことに驚きを隠せなかった。しばらく手を止め、海夏へ質問する。




「どうしてそう思ったの?」


「……たぶん青人くんは無意識にやってるのかも知れないけど……今までの絵と全く違うよ」




 あの時はその言葉の意味が分からなかった。実際今でも分からない。そのまま彼女は続ける。




「今までの絵だったら絶対、どこかに温かさみたいな……その絵に対する愛情があった。でもこの絵は違うの!……どこか仄暗くて、寂しくて、そして忘れ去られる。そんな怖さが、ただある」


「……君にはわからないよ」


「え……?」




 知らないうちにそんな言葉が出る。それだけ、どうしてもこの絵が描きたかったのかも知れないが。


その言葉は彼女の胸に深く突き刺さったのだろう。当たり前だ。今までずっと、この大学に入ってから俺の絵を見続けてきた彼女が、当人に――君にはわからない、と言われたのだから。顔は引き攣り、胸の前で結んだ手が小刻みに震えていた。




「……ごめん、今日はもう帰るね」


「……うん」




 そう言って荷物を持って、玄関扉を開けて帰っていった。この時いつも軋む扉の音が、いつもより悲しげに響いた。


 それから俺の絵を彼女が見ることは無くなった。彼女も俺もたぶん変人と呼ばれる人種であったからか、絵を描くそして見るという一種のコミュニケーションを失ってから、互いに素っ気なくなっていった。


俺自身は彼女との関係を失いたくはなかった。絵を見てくれる存在として虹輝という親友はいたが、強い関心を持って見てくれたり、さまざまなアドバイスをくれた彼女を手放すことは、何か大切なものの欠片を失うようで、怖かった。


しかしこの絵を諦めることは出来なかった。今までしてこなかった自身の脳裏に漠然と浮かび続けたものを絵で現実へと浮かび上がらせるという事象に、自身のプライドをかけていたこともあると思う。


結果としてその後、彼女からはメッセージアプリ越しに別れを告げられた。酷く短い文章だった。












         ***












 金曜二限の授業を終え、昼食を買うべく大学内のコンビニではなく坂道をおりきった場所にある別のコンビニへと歩みを進める。今日は虹輝と授業が被っていないため、一人である。


歩いている最中、考える。海夏との関係を終わらせないために、過去に戻ってなにをすれば良いだろう?虹輝のときとは違い、一時的な感情で激昂したことで関係が歪んだわけじゃない。だからといってあの時の彼女になんと言えばいいか……。


 踏み切りを越えてコンビニへ到着。入店音とともにカゴを持って、店内の目ぼしい商品をカゴへと無造作に入れていく。飲み物、カップ麺、お菓子に昼食。自炊もまともにできない学生にとって、大事なものである。


重たくなったカゴをレジへと持っていき、会計を済ませる。レジ袋を持って店の外に出ると、やけに疲れた様子の虹輝がコンビニの駐車場から歩いてきていた。こちらに気づいて、小さく手をあげてくる。

 



「おー青人。授業終わりか?」


「お疲れさん。さっきぶりだな」


「俺も買い物してくるからちょっと待っててくれや。一緒に帰ろうぜ」


「はいよ」




 そう言ってコンビニに入っていった虹輝は、よほど俺と帰りたかったのか一、二分も経たずにコンビニから出てきた。そのわりにレジ袋が大きい。一体どんなスピードで買い物したらこうなるんだ……?




「んじゃ、行こうぜ」




 二人並んで坂道を上る。その間に絵の話、夜勤の話、あの教授がどうだあの講義がどうだの、実にくだらなくしかし、実に嬉しい時間であった。一回失った関係……それがどれだけ俺にとってかけがえのないものであったかを思い知らせるのに、時間は要らなかった。


やがて互いのマンションの分かれ道にさしかかり、意を決したかのように虹輝がいつもより大きな声で言った。




「お前、海夏ちゃんのことはあんま気にするなよ~!あと、SNS使いたくなったらいつでも言えよなー!」




 ……いい奴なんだか、悪い奴なんだか。


 虹輝には見えないように小さく笑い――おう、じゃあな。とだけ伝え、右手を挙げて別れを告げた。

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