黄昏の裏に狐穴
固定標識
第1話 流れ墨
【黄昏】
列車は洞穴を走っていた。トンネルではない。洞穴だ。
火傷するほど激しい照明が窓枠の影を濃く落とす。ささくれ立った乾いた床にだって歪みなく伸びるそれは、忙しなく行っては帰ってこない。
連続する影の集団に七人岬を想起して、男は目を瞑った。
しかし影が何度か瞼を踏んでゆくと、その明滅に辟易し、やがて諦めるように息を吐いた。
寝れない。到底眠れない。
列車はかれこれ六時間ほど走り続けていた。
だがしかし、乗客は男が一人。
シャツのボタンは派手に二つ外してだらしない。ネクタイは乱雑に鞄に放り込んだまま、付け直すのはあと三時間ほど後になるだろうか?
白髪交じりの頭をぼりと掻いて、男は自前の手拭で目玉を隠す。
しかし『ばごん』。爆ぜる音と共に、紺の手拭は吹っ飛んだ。
乗り心地は、良いものではない。
男の顔には無数の皺が寄っていた。けれどもそれは加齢によるものではなく、男の生来からの気難しさに起因するように思われた。男の齢は二十七。腰を曲げるにはまだ遠い。
手拭を拾っては、また目玉を覆うように叩きつける。けれどもそれも十秒もすればまた吹き飛んだ。何度も拾い直す。
「不毛だ」
手拭の裏で何度愚痴を吐いただろう。男は手持無沙汰であった。
こんな激しい揺れでは文字なんて読めやしない。ゆるり風景を眺め、旅情を嚙み締めようとしても、眼前には真白く照らされた岩肌が無限に続くのみである。
せめて何者かの気配を感じられないだろうか、などと額に念を込めてみても、あらゆる雑音が男の集中を否定する。
車内は広かった。男は広い場所が嫌いだった。
肌を撫でてみれば、どうやら空気はいやに冷えていた。しかし息を重く吐いても、透明なまま温度を失ってゆく。
(なんだ、寒気はただの思い込みか。)
安堵すると同時に、自分が怯えているという事実に、また仄暗い青色が重なってゆく。内出血の痕のように青黒い。
男は何度か、棺桶に閉じ込められる幻想を見ていた。
目的地に霊魂の囁きを求めていることも、男の肌を泡立てる遠因なのかもしれない。
首筋に手を添えて熱を確かめると、男は鞄から抜いたネクタイを頭に巻き付けた。目玉も耳も、ブ厚い生地で丸ごと塞ぐ。
あらゆる感覚の遮断が早急に望まれた。
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