彼の獄に臥すは誰そ彼や
固定標識
壱【流れ墨】
【黄昏】
列車は洞穴を走っていた。トンネルではない。洞穴だ。
火傷するほど激しい照明が窓枠の影を濃く落とす。ささくれ立った乾いた床にだって歪みなく伸びるそれは、忙しなく行っては帰ってこない。
連続する影の集団に男は目を瞑った。
しかし影が何度か瞼を踏んでゆくと、その明滅に辟易し、やがて諦めるように息を吐いた。
寝れない。到底眠れない。
列車はかれこれ六時間ほど走り続けていた。
だがしかし、乗客は男が一人。
シャツのボタンは派手に二つ外してだらしない。ネクタイは乱雑に鞄に放り込んだまま、付け直すのはあと三時間ほど後になるだろうか?
白髪交じりの頭をぼりと掻いて、男は自前の手拭で目玉を隠す。
しかし『ばごん』。爆ぜる音と共に、紺の手拭は吹っ飛んだ。
乗り心地は、良いものではない。
男の顔には無数の皺が寄っていた。けれどもそれは加齢によるものではなく、男の生来からの気難しさに起因するように思われた。男の齢は二十六。腰を曲げるにはまだ遠い。
手拭を拾っては、また目玉を覆うように叩きつける。けれどもそれも十秒もすればまた吹き飛んだ。何度も拾い直す。
「不毛だ」
手拭の裏で何度愚痴を吐いただろう。男は手持無沙汰であった。
こんな激しい揺れでは文字なんて読めやしない。ゆるり風景を眺め、旅情を嚙み締めようとも、眼前には真白く照らされた岩肌が無限に続くのみである。
せめて何者かの気配を感じられないだろうか、などと額に念を込めてみても、あらゆる雑音が男の集中を否定する。
車内は広かった。男は広い場所が嫌いだった。
肌を撫でてみれば、どうやら空気はいやに冷えていた。しかし息を重く吐いても、透明なまま温度を失ってゆく。
(寒気はただの思い込みか。)
安堵すると同時に、自分が怯えているという事実に仄暗い青色が重なってゆく。内出血の痕のように青黒い。
男は何度か棺桶に閉じ込められる幻想を見ていた。
目的地に霊魂の囁きを求めていることも、男の肌を泡立てる遠因なのかもしれない。
首筋に手を添えて熱を確かめると、男は鞄から抜いたネクタイを頭に巻き付けた。目玉も耳も、ブ厚い生地で丸ごと塞ぐ。
あらゆる感覚の遮断が早急に望まれた。
──────────・・・
目玉が飛び出るような運賃を車掌に渡すと、そのまま列車は名残惜し気に何処かへ行った。単純に速度が遅いだけだろう。急に軽くなった手のひらに怪訝な視線を刺すと男は顔を上げた。
赤茶に錆びた線路は延々続いて、大蛇の足跡のように見えた。まあつまり、蛇足ということだ。男は息を吹いてそんな愚考を断ち切った。
車掌が言うには、この村に列車が止まるのは一週間に一度らしい。つまりどれだけ早く用事を済ませても、一週間は戻れない。
男は慰みのような鉄ベンチに腰を下して、貴重な煙草を一本じっくり吸い込んだ。火の色が灰に落ちると、「よし」と、何が宜しいわけでもあるまいが膝を打つ。
村には一週間ほど滞在する予定だった。彼は、その間面倒を見てくれる【岸波】という屋敷を目指す。
果たして僕が囚われる牢獄は如何様なものかね、などと心底機嫌も悪そうに呟くと、男は革靴でやわらかい土を踏んだ。
田舎の道は広かった。土地が有り余っているのだ。
満ちた草木の青い薫風がいっぱいに吹いた。どうも、都会には吹かない風だ。
男はその景に一瞬呆けてから、誰かに言い訳するみたいに口角を意地悪気に引き上げて
「悪くないロケーションだ」
そう、独り言ちた。
「九朗様。こんな遠い所までよくぞお越しになってくださいました」
「電報なんて僕も初めてでした」
「ご不便を……」
言って岸波家の女中はもじもじした。まだ初々しさを保つ、きれいな卵肌である。
対して男──九朗は半月型に潰れた視線を家屋の隅々に突き刺していた。埃でも探すような、いやらしい目つきである。
なんじゃなんじゃとやって来たのは、恰好を見るに庭師と調理人だろうか。二人とも、まだ若いように見えたが、腕周りなんて九朗の二倍はありそうだ。
「ああ、こちら東京からいらっしゃった九朗様です。なんでも怪談を蒐集してらっしゃるとかで」
庭師と調理人の口元が不味そうに歪む。うさんくせえと言わんばかりであった。
しかし九朗も慣れっこなのか何処吹く風に落ち着いて
「違います」
言った言葉に女中は目を丸くした。
「あら……確か幽霊のお話を集めてらっしゃるとお聞きしたのですが」
「そうですね。確かに僕は霊に関する話を集めている」
何度も口にしたのだろう。生意気なほどに澱みなく、九朗の口は回る。
「霊は。生への執着だ。生きたいという想いの権化です」
埃探しも飽きたのか視線を漸く持ち上げた。
「それのどこが恐ろしい怪談なんですか」
山々の合間に染み出た水溜まりのような村の名は『矢切村』と言う。名産品は絹糸だとか言っただろうか、九朗はどうも興味を惹かれなかった。観光に来たわけではない。
もう数本列車を間違えれば白川郷にも行けたのに、などと繋がる空を眺めれば、妙に広く感ぜられた。東京の空を覆う高い建造物が、ここには一切存在しない。
濃い青色は九朗に季節の暦を意識させた。そろそろ、夏至が近い。
岸波家は矢切村で一番の名家である。らしい。
山に囲まれた田舎の名家など、大したモノではなかろうと高を括っていた九朗は、漆黒の鳥居のような門を見上げて思わず溜息を吹いた。その額に浮かぶ玉の汗は、気温故か緊張故か、なに故か。
彼は広い家が嫌いだった。不必要な物を溜め込んで血流を悪くして、これではまるで膨れた腹を撫でては愛でる、肥満の中年ではないか。日差しで家屋は黒光りして、脂汗の様にてかてか調子いい。これもまた気分が滅入る。
しかし歴史が深ければ、たるんだ腹にも因縁は潜む。
岸波家が発生して、もう二百年ほど経つらしい。まあこれも、あくまで聞いた話だが。
けれども長年の歴史があってなお、驚くべきことに、矢切村と岸波家に関する資料は無い。情報も無い。
九朗はこの村を訪れる前に、東京で大量の資料を漁った。周辺地域や民俗学の資料を片端から漁ってなお、どれも、どうも要領を得ない。まるで忘れ去られることを望まれているかのように、記録がすっぽりと抜け落ちている。国土地理院の資料ですら、興味なさげに薄かったあたりで九朗は背もたれにより深く体重を預けた。
面倒事になりそうだ、と息を吹く。
彼は根拠のない逸話を唾棄していた。
九朗は確かに霊に関する話を集めている。しかし悪戯に聖域や境界を弄んではしゃぐような人間を、彼は足蹴にするほど嫌っていた。
彼は存在と理屈、そして由縁を何よりも重んじたから、似たような趣味を持つ集まりの中でも、彼のことを嫌う者は多数いた。
敵が多く、味方は少ない。けれどもそれで充分だと考えてしまう。そんな在り方は彼も感ぜぬところで不器用であった。だから、
『狐穴の幽霊について調べていただきたいのです』
なんて、薄い言葉を信じ込んで、こんな噂ばかりの村に遥々労力を割いてまでやってきたのは……ただの気まぐれなのだろう。
九朗は部屋に通された。
しかし、ここもあんまりに広かったものだから断りを入れて、押し入れを貸していただいた。襖を閉める寸前、ちらと見えた女中の笑顔もそろそろ枯れ果てそうだったので、九朗はさっさと光を遮った。
襖を叩く音で目を覚ますと、女中が飯を持ってきた。
飯はこれで四度目だった。
「ああ、態々ありがとうございます。いやあこれは豪勢だ」
「いえいえ、お呼び立てしたのはこちらですので……それで、あの」
「はい」
「狐穴の調査は、いつ頃からになりそうでしょうか」
女中の不安そうな声に、流石の九朗の眉も歪む。
大方、他の家の者に急かされたのだろう。現時点では、九朗はただの押し入れに巣くって飯を喰らうよそ者である。
妖怪退治を頼んだら妖怪がやってきた。まあ溜まったものではない。
「それでは今から参りましょう」
「今からですか」
「はい。馳走になりました」
「あ、お残しになられるのでしたら一緒に持っていきますよ」
「もう食べました」
「何時ものことながらお早いですね……」
味わって食べて欲しいものですわ、と嘯く女中にへえへえと頭を下げて、狢は穴倉から這い出た。
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