パラレルジャンプ、うたかたの夏
碓氷 蓮華
第一話 The First Jump
チャイムの音が、朝の青空めがけて響いている。まだ6月の上旬だというのに、太陽が私を焼こうとしているのではないかと感じるほど、気温が高い。
「ぎ、ギリギリセーフ」
田舎の島だからと言って、高校のドアはいつまでたっても古びた木製なのはいかがなものなのか、と思いながらドアをまたいで、教室に入った。私の汗が木製の床に垂れる。
「チャイムが鳴り終えるまでに着席していることがルールだ。残念だったな」
担任の田貫先生にチクりと言われたので、ケチ、とぼやいてみた。
「ケチじゃない。テストの点が取れるからと言って、遅刻ばかりしていたら成績落とすからな」
狸みたいに少し丸みを帯びた先生は、私に軽く脅しをかけた。田貫先生は、悪い先生ではなく、授業も活発で分かりやすいのだが、来年受験だ、受験だ、とうるさいため、生徒人気は二分されている。私は、田貫先生の言葉をそのまま通り過ぎ、窓際の席に座った。教室に入ってもエアコンが効いていることはなかった。太陽の光をしのげるだけマシだが、体にまとわりつくような暑さと湿気は変わらなかった。
どの家の窓からも、宝石みたいにきれいな青い海が見えるこの島では高校らしい高校は一校だけで、もう1つはお母さんが学生ぐらい……大体30年前くらいになくなったらしい。島あるあるだと思うが、学校の生徒はもちろん、地域の人のことも17年間の人生の中である程度知り尽くしてしまっているので、毎日が同じような日々だ。お昼ご飯を友達の葵と遥と食べていた私はふと、そんなことを思ってしまった。
「玲はさ、彼氏とかいないの?」
「絶対モテると思うんだよ、頭いいし、運動できるし、かわいいし」
「だよねだよね、この黒髪ポニテが嫌いな男子なんて居ないよ!」
私の前で大きく親指を立てた葵と、それにそうだそうだと賛同した遥は、今年から同じクラスになって、本格的に話し始めた友達だ。
「彼氏ね、いないんだよ。いないどころかできたこともないよ」
「まぁまぁ、あの人がいますからね」
「だよね、彼から玲の正妻ポジションを奪える男はなかなか居ないよ」
「やめてよ、そんなんじゃないから!」
きっと、というか間違いなく、彼とは遼のことを言っているのだろう。その場合、正妻は私ではないのか、と思ったが。桜井遼は、私の幼馴染で、家族ぐるみで仲が良い男の子だ。年齢が一桁のころは、私の方が背が高かったのに、17歳になる年齢である今では、遼の方が10cm以上も高くなってしまった。遼は私にとって大事な友人だけど、恋人という感じではない。ルックスが島の中ではかっこいいと言われていて、優しさもついているとなれば、高校では女子の引く手あまたであるとも聞いているし。
「私は、白馬の王子様みたいな出会いが良いの!」
この島では、そんな出会いがないことはわかっている。けど、私はつい夢を見てしまうのだ。
「例えばどんな出会いよ」
「例えば……何だろうね」
葵と遥のズコーと聞こえてきそうな典型的なリアクションを見て、私は笑ってしまった。
「でもわからなくもないなぁ、運命の出会いみたいなもの、欲しいよね」
「さっさと卒業して、三人で東京出よう!そしたらきっとどこかでできるよ!」
遥のテンションがぐんと上がったあたりで、次の授業が始まるチャイムが鳴った。私たちの会話は強制的に終わりを告げる。
授業をすべて終えてから、そのままアルバイトに向かう。学校の前にある坂を下り、家に向かう途中に私のアルバイト先はある。アルバイトといってもほとんどお客さんの来ない古びたコンビニの手伝いのようなものだ。仕事内容と言えば、一週間に1回くらいの品出しと、商品管理。そして何より店長と何気ない会話をずっとしているだけの楽な仕事だ。
「今日も暇ですねー」
「そうだねぇ、ここのお店の売り上げはほとんど、小学校の給食の材料だから、潰れるってほどではないんだけどねぇ。何せ暇だねぇ」
「そうですねぇ」
50代後半のおじさん店長は、島では「昔はイケメン」だったらしい。半年くらいここに勤めているけれど、たぶん50回は昔の女たらしトークをされている。うん。正直イケメンだった想像が浮かばない。
今日のバイトが終わって、明日の課題を終える。母と父も島出身で、妹がいる私は、4人揃って夜ご飯を食べることが、半ばルールになっている。
「今日の学校は何か面白いことあった?」
この母の質問は、よくある質問だ。これといった話題がないとき、よく聞かれる。
「しいて言うなら、また店長の元イケメンエピソードを聞かされたよ」
「もうそろそろ100回目じゃない?」
「さすがにそこまでいかないと思うけど、でも笑っちゃうよね」
「お姉ちゃん、そのイケメン店長と付き合えば?」
「何言ってんだ、私はおじさん趣味はないよ」
妹の有菜は、最近同級生と付き合ったらしい。先を越されたというわけだ。まだ14歳のくせに。
「彼氏が居るってのはいいよ~、自慢にもなるし、愛されてる感がたまらないね」
「こら、そんな風に彼氏君を扱わないの、ものみたいに扱ったらフラれちゃうわよ」
「そうだぞ、というかお父さんに彼氏を紹介しなさい」
「いやだよ、お父さん私が彼氏できたって言ったとき露骨に顔しかめたでしょ」
だんだん有菜の方に話題の主軸が移っていく。あまり食事中に話すのが得意ではないので、私としては助かる。決して、彼氏に関して、有菜に先を越されたことに劣等感を抱いているわけでは無い。決して。
母に話題を求められた時、噛み飽きたガムみたいな店長の話題を出したように、学校に向かって、先生や友達と話して。アルバイトに行き、家族と話す。
これが私の毎日だ。ルーティンというわけでは無いのだけど、この島の中では、これ以上の出来事もあまりない。
しいて言うなら7月、つまりあと1か月くらいしたら行われる夏祭りだろうか。島内のカップルがこぞって参加するので、私のような女には、そんなにいいものでもないのだけど。
ある日、ふと疲れたと感じた。別に何かあったわけではない。ただ田貫先生の口調が、コンビニの店長の自慢話が、普段は気にならなかったのに、なぜか、なぜか気になってしまった。思い返せば朝、お母さんに起こされてから、少し憂鬱な気分ではあった。けれど、朝がつらいなんてみんな感じることだし、朝ごはんがずっとお米とみそ汁とハムかベーコンなのも、ずっと今までと何も変わったことではなかった。でも、なぜか、なぜか感じてしまったのだ。
——いつまでこれが続くんだろう。
それは漠然としすぎている疑問だった。まだ17歳で、島の外には出たことがなくて、お酒もたばこも知らないし、恋愛をしたこともない。自分がまだ子供なのもわかっていたのに、ふと、これから、いつまでこうして生きていくのか、終わりまでの距離を考えたときに、どうしようもない不安に襲われてしまった。
歩いていたら、神社の石の鳥居が私の右手に現れた。現れたというよりもちろん元々あったものだ。島の真ん中のあたりに位置するこの神社は、いまいち名前も、どんな神様が祀られているのかも知らない。年に一度の夏祭りの会場になるためにあるのではないかとも感じるほどである。
でも今日はふと、神社に行きたいと思った。多分、普段しないことをしたかっただけだと思う。鳥居をくぐって、階段を上る。夜の8時を過ぎても、蒸し暑く、頬に汗が垂れ始める。一歩進むごとに、不思議な雰囲気を感じる。湿度や気温によるものとは少し異なる気がする、オカルトは信じないが、神聖な雰囲気という言葉が一番近いと思った。1分ほど歩いたら、小さな広場に出た。ここが夏祭り会場の場所だ。もちろん祭りは行われていないので、人は誰もいない。
夏祭りの活気のせいかいままで気が付かなかったが、広場の奥に大木があることに気が付いた。惹かれたような気がして、大木の方に向かう。御神木というものなのだろうか、それとも単なる自然な木なのだろうか。少し畏怖すら感じるその大木の根本には、人一人が入りそうな空洞が空いていた。根が私より太いので、その根と根の間に隙間が空いていたのだ。
——理由はない。でもなぜか惹かれた。その空洞に。
無意識的に入っていた。空洞に入って気が付いたことは、私が入ってちょうどいいくらいのサイズで、居心地の良さすら感じた。理由はなかったのだ。けれど、その空洞に入ったことで、周囲の不安が見えなくなった気がした。静かな時間が流れていく。時間の感覚がなくなっていく。私の視界も狭まっている気がする。暗くなっているだけかもしれない。けど、そのなんとも言い表せない安心感に、ふと身を任せてしまった。
チャイムの音が、朝の青空めがけて響いている。まだ6月の上旬だというのに、太陽が私を焼こうとしているのではないかと感じるほど、気温が高い。
「ぎ、ギリギリセーフ」
田舎の島だからと言って、高校のドアはいつまでたっても古びた木製なのはいかがなものなのか、と思いながらドアをまたいで、教室に……違う。
私は、昨日あれからどうしたんだっけ。神社に行って、木の空洞に入ってみて……いまいち覚えてない。
「いつもギリギリだね、玲ちゃん」
田貫先生ではない、女性の声が聞こえる。数学の田貫先生ではなく、国語の田中先生が立っていた。
「お、おはようございます、田中先生」
「はい、おはよう、あんまりそこに立ってたら、遅刻扱いにしちゃうわよ」
理解が追い付かない。気が付いたら学校に居て、田貫先生ではなく、田中先生が出席を取っている。出席簿にも「担任:田中」と書いてあった。昨日帰った記憶もない。何が起きてるんだ。
「おはよう、玲」
葵と遥が授業間の15分休憩の間に話しかけてきた。
「おはよう、二人とも」
「なにかあった?なんか、いつもと比べて変な顔してるよ」
「変な顔?失礼だな、今日も私はかわいいでしょ」
「いや?今日の感じだと、遼君にフラれちゃうぞ」
「いやいや、遼とはそんなんじゃないから」
「遼君の隣にいる人っていえば、玲って私は決めてるんだよ」
葵が前に見たような親指を突き立てるジェスチャーをする。なんとなく、いつもと同じような会話に安心感を覚えた。
混乱しながらも授業を終えて、アルバイトに向かった。シフト制ではないうちのアルバイトは、好きな時に出勤していいアルバイトなのだ。それが一番の魅力で、いまも勤務している。
「おはようございます」
簡易的なタイムカードを切って、店長に決まった挨拶をしたとき、すぐに気が付いた。今までの正直小汚い小太りの店長ではなく、髪型も服装もきれいにしている店長だった。田貫先生のように、別人というわけでは無い。店長は店長なのだ。ただ、今の店長が「昔はイケメンだった」と話したら、手放しで認めてしまうほど、清潔感があるおじさんになっていた。いわゆるイケオジというやつになっていた。
「おはよう玲ちゃん、あと少しで、いつもの時間だから、覚悟決めてね!」
「いつもの時間?」
そんなものは今までなかったが、店長に聞く前に、その”答え”が来た。
「いらっしゃいませ」
店長の活気のある挨拶とともに、学校終わりの高校生、中学生、夜ご飯の総菜を買いに来るお母さんたちがどんどん増えてきた。時刻は18時半。確かに時間的には混む時間かもしれないがコンビニがこんなにお客さんで埋まったのを見たことが無かった。接客とレジを店長と二人でこなした。いつものアルバイトは、後半時計の針が進むのを見ることくらいしかしなかったのに、今日は、時計を一度も見ずに、気が付いたら辺りは真っ暗になっていた。時間がすっかり経ち、近所に住むおばさんパートさんが来たころには、徐々に客足が遠のいたので、おばさんとバトンタッチをして家に帰ることにした。
「ただいまー」
玄関を開けると同時に、今までで一番汚い”ただいま”が自分の口から出た。今のは本当に私だったのか、という疑問は、有菜の「うわ、お父さんじゃなかったわ!」という女子高生に対する発言としては考えられない発言のおかげで、私の口から出たものだったことが証明された。
夕飯は、何も変化がなかった。お米とハンバーグ、みそ汁とサラダという、テンプレートのような食事は、我が家では月に2回は見かける料理だった。夕飯の間は、テレビで他愛もないニュースが淡々と流れていて、それに対して誰かがコメントをするような形で家族の話題が進んだ。と言っても、田舎の島をピックアップするようなニュースはなく、東京で異常な暑さがーとか、京都で迷惑客がーとか、そういった類のうちには全く関係ないニュースばかりだったので、みんな興味はなさそうだった。
23時をまわり、みんなが眠くなり始めたころ、なんとなく神社に向かいたくなった。お父さんは寝室でいびきをかきながら寝ていて、有菜とお母さんももうすぐ寝るころだ。私と有菜はそれぞれ自室で寝て、両親二人は1つの部屋で普段は寝ている。その部屋のすべてが二階にあるため、私は一度自分の部屋で、心にひっかかる違和感を考え直すことにした。
1つ目は、昨日の記憶が全然ないこと。私は昨日、神社の木の中に入るという今思うと奇行以外の何物でもないことをしたが、入った後、気が付いたら学校へ向かっていた。
2つ目は、少しずつ何かが違うこと。田貫先生ではなく田中先生が担任だったり、店長が少しだけかっこよくなってたり、めちゃめちゃコンビニが混んだり……
ほかにも探せばあるかもしれないが、何か違和感を感じる。コンビニが混むことぐらい起こる可能性は普通にあるが、担任が違うというのは、単なる違和感として過ごすことはできないし、何より昨日あの後私は何をしたのか、全く覚えていないのだ。
そんなことを考えているうちに、誰かが階段を昇る音が聞こえた。そのすぐあとにまた昇る音が聞こえたので、有菜とお母さんが上に来たことを確信した。念のため少し時間を待ってから、ゆっくり私の部屋のドアを開け、そろりそろりと階段を降りることに成功した。そしてそのまま玄関まで向かい、神社へ向かった。もうすぐ7月といえど、夜はさすがに涼しかった。自転車のペダルを踏むたびに感じる風は、これこそ人が自転車を使う理由なのではないかと感じるほどに心地よかったが、そう感じたのは最初だけで、少し疲れが出始めた。
「体力、こんなになかったかな」
と、誰もいない夜道に話しかけても、もちろん返事はなかった。
そんなことをしながら、再び神社に到着した。こんな頻度で来たことはなかったし、「神社に行くぞ」という気持ちで来たこともなかった。しかし意識して見ると、石の鳥居は意外と荘厳に見え、もしかしたらこの神社何かすごい神様が祀られているのではないかと、ふと考えてしまうほどだった。
境内というには廃れた広場へ向かう階段を歩いているとき、明確に、神秘的な何かに見られている感覚があった。神社だから、神様がいるのはそうなのだろうけれど、こんなに何かに見られていると感じたことはなかった。少し怖くなって、引き返そうとしたけれど、でも昨日から続く違和感を解消したくて、昨日の記憶をたどりたくて、再び大樹へたどり着いた。
「ここだ……」
強く風が吹いた。草木の揺れから放たれたガサガサという音は、私に恐怖心を覚えさせた。私はごくりと息をのみ、覚悟を決め、昨日と同じように、木の幹の空洞に入った。
あ、と声を放つと、小さく反響するその空間には、昨日と同じ安心感を覚えたが、昨日と違うことが1つだけあった。それは、私自身の身体の支配が効きにくいと感じたことだ。手のひらをピンと開こうとしても、小さく開く程度で止まってしまう。慌てて出ようと思っても体が思うように動かなかった。
――その瞬間、世界がひっくり返った。
―――木の幹の中からでも感じられるほどに強く風が吹いた。
――――木の幹が回転、いや私が回転し始めた、いや木の幹が。
―――――とにかく頭が追い付かない。
重力も感じなくなって、脳に直接情報が流れ込んでくる感覚がした。目の前がどんどん眩しくなっていった。今私はどんな顔をしているのだろう。きっと人に見せたらお嫁にいけない顔をしているのだろう。でもそんなこと考えられない。
――あ、パジャマのままで来ちゃってたのか、何も考えてなかったな。
それが初の”パラレルジャンプ”直前の思考だった。
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