俺の生きる希望

「婚約者というアデル嬢と結婚できる資格を有しているのが本当に嬉しかった。アデル嬢と一緒にいられるのが数日おきなんて不満だった。だけどずっと、自分を抑えていたんだ。俺はアデル嬢にふさわしくない、こんなオジサンに愛想をつかしても仕方ないって。俺にとって世界一のレディーだと伝えているつもりだったのに、まったく伝わっていなかった」

「テオバルト様……?」

「だから婚約破棄なんて言い出したんだろう? 俺がどれだけアデル嬢を大切にしているか知らずに」



 アデルの体がテオバルトに隙間なく包まれ、視界がテオバルトで埋まる。爽やかなコロンの香りで満たされて、アデルの全身が一気に火照った。


(し、刺激が強すぎるわ……! それにさっきの言葉は私を好ましいと思っているような響きがあったような気がしないでもなく!)


 混乱してカチコチに固まるアデルの頬を、テオバルトが愛おしそうになでて髪を梳いた。



「鍛錬ができて嬉しかったけど、アデル嬢との時間が減って寂しかったよ。でもアデル嬢が、筋肉が好きだというから一生懸命鍛えたんだ」

「そっ、それは好きですけれど……! あのっ、レティシアは?」

「レティシア? ……パン屋の?」

「ええ」



 テオバルトは今までに二度、ヒロインのレティシアに会っている。

 一度目はあまり話せなかったが、パン屋に行って再会した時はたっぷり話したはずだ。きっと、アデルとの違いをはっきり感じただろう。



「……あの子とは何もないよ。アデル嬢が望むからパン屋に行ったけれど、店で話したのはあの子の母親だ」

「え? レティシアと話していないのですか?」

「うん。……あの時アデル嬢を一人にするんじゃなかった。あんなに目を腫らして、ちょっと離れただけで早くも虫がやってきて」

「虫?」



 突然の虫に首をかしげたアデルの髪を、大きな手がなでる。

 ずっと嫌いだった自分の髪を、こんな風に愛情を持ってふれられると、テオバルトの言葉を信じたくなる。



「でも……テオバルト様も聞いたのではないですか? 私がテオバルト様を手に入れるために冤罪で陥れたという噂を」

「信じるわけがないよ。あんなに必死になって俺の危機に駆けつけてくれて、何もかも救ってくれたのに、見返りは俺との数時間のお茶だけ。それだって随分と気を遣わせて、触れ合うことも、アデル嬢が何か要求することもなかった」

「テオバルト様の時間を欲しましたわ」

「アデル嬢のためならば、死ぬまでの俺の時間をすべて捧げたって後悔はしない」

「でもっ、でも、義務的な態度でしたわ! 私を見る目にはまったく熱がなくて……!」

「俺の心臓の音を聞いて、アデル嬢」



 そうっと抱き寄せられ、アデルの耳が胸板にふれる。シャツ越しにふれるテオバルトの肌は、アデルに負けないほど熱かった。


 心臓の音を聞いてほしいと言われても、自分の心臓の音がうるさすぎて、それしか聞こえない。

 目を瞑って集中していると、自分の鼓動とは別の音が聞こえてきた。アデルと同じくらい速くて、力強い心臓の音。



「……わかる? 俺もすごく緊張してドキドキしてて……格好悪いけど」



 胸に頭を預けたままテオバルトの顔を見てみると、普段と変わらない顔色だった。アデルのように赤くなっていない。



「この年になると、さすがに少しは内心を隠せるようになるから、必死に隠していたよ。オジサンがガツガツしてたら、絶対に気持ち悪いから……。でも、そのせいでアデル嬢が勘違いしたんだよね。これからは隠さないよ」



 ぎゅっと抱きしめられ、アデルは抵抗せずたくましい体に身を預けた。


 テオバルトの本音を知り、嫌われていないことがわかっただけでも嬉しい。テオバルトの好意がどういう種類なのかわからないままだが、期待していいと思える。

 ずっと、前世を思い出す前から好きだったアデルの初恋が実る、そんな予感がした。



「俺は騎士に戻りたい。騎士の資格である貴族籍を抜けたいなんて思わない。だからアデル嬢が婚約してくれたことは、本当に本当に嬉しかったんだよ」

「ほ、本当ですか……?」

「俺は、アデル嬢にだけは絶対に嘘をつかないよ」



 その言葉を聞いた途端、アデルの目から涙があふれ出した。


 テオバルトと婚約したことも裁判を開くことも、すべてテオバルトの意思を無視しているのではないかと不安だった。テオバルトのためだと言いながら、ずっと自分のために行動していたと思っていた。

 けれど、そうではなかった。

 テオバルトの役に立っていたのだ。テオバルトの望む未来のために動けていたのだ。



「よかった……。テオバルト様のお役に立てて……」

「アデル嬢は存在するだけで、俺の生きる希望だよ」

「ふ、ふふっ、テオバルト様ったら」

「本気なんだけどなぁ……」



 つぶやいたテオバルトは、アメジスト色の瞳からこぼれる涙をぬぐい、真面目な顔をしてアデルを見つめた。



「アデル嬢はきっと、シリルが実行犯だと思っているよね?」

「ええ。テオバルト様の書類を捏造し、一年間も横領を隠し享受してきたのはレノー家でしょう」

「……シリルは、絶対に関わっていないんだ」



 アデルの頭の中で、雷が落ちたような衝撃がはじけた。


 ——シリル・レノーを悪だと決めつけないで。

 ――あの報告書に書いてある俺の発言は、すべて真実だよ。

 ――騎士団の書類は全てテオバルトが処理しており、自分で提出先へ持って行っていた。



「まさか……!」

「俺は絶対に誰かに書類を任せなかった。文官として鍛えられて慣れていたし、副団長のシリルを最初は信用できなかった。後からだんだんとお互いを理解して、決して裏切らないと誓えるほどの仲になったけど」

「そんなこと、報告書には……!」

「シリルにも立場があったから、誰かがいる時は不仲な振りをしていた。シリルは、レノー家から俺を罠にかけろと指示が出ていたから。俺はシリルを警戒して、副団長なのに何もさせないように見せかけていた」



 アデルの瞳が見開かれ、頭の中であり得ない仮説が無視できないほど大きくなっていく。



「俺はすべての書類を自分で書いて自分で提出した。シリルも、レノー家も関与できない。……提出先を除いては」

「捏造された書類の提出先は、財務署……」



 酸欠であえぐようなアデルの言葉を、テオバルトは否定しなかった。



「財務署のトップ、不正を決して許さないと有名なブライアン・カンテが書類を捏造したんだ」


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