高校当時の服装は

緑青 那奈畸

第1話 汐子は小さな大天才

「ショウタロウ・コンプレックスって知ってる?」

わたしは、その人に言われた言葉を一生忘れない。


「おはよう~」

ベッド脇に飾った、ミニチュアシュナウザーのぬいぐるみに声をかける。

時刻は午前六時。

スマートホンのアラームがなる前にパチリと目を覚まし、すぐに通知音をオフにする。

予備で十五分ごとになるようにしてあるが、ほぼほぼいらない。我ながら都合の良い身体をしている。

部屋から出てくると、向かいにある両親の寝室ではアラームがまだ鳴り続いている。

まあ、なんとかなるだろう……。

早めに起きて、部屋がある二階から階段を降り、居間で日課にしている朝の書写をする。

青空文庫から適当に選んで、薄いノートに書き写していく、いつものルーティンワーク。

今日は佐藤春夫にしよう。そう思い、愛用の万年筆で書いていく。これは小学生から続いていて、ずっとかかせない。

『感傷肖像』より、「摘めといふから ばらをつんでわたしたら」と書き写す。

そうこうしていると、父も下の階にやってきた。

まだ眠そうだ。もにゃもにゃ言いながらテレビをつけている。

時計がわりに朝の情報番組をつけているのだ。

父はあまりにも合理的というか……浮世離れしたところがある。もっと世間の情報に関心を持ったほうがいい……と娘ながら心配になってしまう。

でも、多分なんとかなるんだろうーーーーーーうちには、あの人がいる。

「お父さん、おはよう」

「おはよう、汐子」

テノールの声でのほほんといいながら、朝食の支度をする父。

うちはいつもオートミールを食べ、チアシードを麦芽飲料に入れたものを飲む。

父は納豆をオートミールに掛けるので、私もそれを真似している。結構おいしい。

「あ、汐子」

「ハイハイ、わかってます」

二人しかいない食卓なのに、何故かもう一人分の器がある。

それをトレイに乗せ、二階に上がる。夫婦の寝室のドアをコンコン叩く。

「お母さん?」

「はあい」

のんびりした声が扉の向こうから聞こえてきた。

「ご飯、置いておくね」

「ありがと~」

「今日はどう?調子」

「まあまあってところだよ~」

「無理しないでね」

「う~ん、わかったぁ」

父、母、わたし。これが今現在のわたしの家族構成。

父は工場勤務。

わたしは高校生。

そして、母はーーーーーーひと昔で言う、引きこもりってやつ。


わたしは、ここ数年、母の顔を見ていない。

昔は社交的な人で、なんでも大学時代は旅行に行ったり、ボランティア活動に精を出したりしていたが、とある出来事で身体のバランスを崩してしまい、そのまま病がちになってしまったらしい。

さらに、とどめを刺したのが、七歳上の兄の死。

兄は、バイクが好きで、カメラを趣味にする数寄者だったのだが、大学を卒業し、社会人生活もこれからというタイミングで交通事故にあって急死してしまった。

もはやかすかな記憶だが、緑色の恰好良いバイクに乗っていたことを覚えている。

なんか……ニンジャ?だったかな……

そんな名前の……特徴的な名前だったので、なんとなく覚えている。玄関に、兄がそのバイクの前で笑っている写真が飾ってある。

自撮りをあまりしなかった兄の、唯一といえる記憶の肖像である。


「汐子、用意出来た?」

「うん」

我が家では、通学時の送り迎えを父が担当してくれる。歩いて通えなくもないのだが、母がここだけは言い張った。

大事な女の子をほっつき歩かせてはならないと、断固たる意思を持っていたらしい。

父は能天気なので、エ?そうなの?みたいな反応をしていた。男兄弟で育った父は、どうもこういうのに疎い。

その癖、可愛い女の子に憧れているらしく、小さい時はたいそう少女趣味の服を着せられたものだ。

若干、父にはロリコンのけを感じなくもない。

実際、母とはそれなりに歳が離れていたような……うろ覚えなので、何歳違いかはあやふやだが。

自宅からちょっと離れた高校に送ったあと、父はそのまま車で自分の勤務先に向かう。

父だけなら徒歩で通えるぐらい、父の会社に近い我が家である。

今日は小春日和、車内は程よくあたたかい。窓を薄くあけると、前下がりのショートボブにした髪が、さらりと揺れる。


いつもどおりに登校し、いつもどおりに授業を受け、いつもどおり、父が迎えに来てくれる時間まで学校の図書室で読書をして、そして帰宅する。

そんな日常を過ごすはず。その時のわたしは、そう思っていたのだ。あの人と出会うまでは。


図書室のドアを開けると、カウンターに見慣れぬ女性が座っていた。

あれ、と思う。

うちの学校には図書室に常駐している先生はいなかったはずだ。

ようやく赴任してきたのだろうか。


小柄な人だった。

つやつやのワンレングスをリボンのついたバレッタで留めている。

丸いメガネにはグラスチェーンがついている。よくメガネを掛けたり外したりするということだろうか。

小さな卵型の顔の下半分は、顔に合わない大きなマスクで覆われている。

小声でブツブツ何かを呟きながら、すごいスピードでページを捲っている。

本当にあの速度で読めているのだろうか。


と、彼女はこちらに気がついて、声を掛けてきた。

「ホホ。利用者さんですか?初めまして。森山と申します」

「あ、ハイ……一年の小泉汐子です」

「何をお探しで?」

「ええと……」

母が薦めてくれた、架空戦記もののシリーズの名前を告げると、彼女は嬉しそうにホホと笑う。

「私もこれ、好きですよ。ちなみに、同盟派?帝国派?」

「同盟が好きです」

「私は帝国派ですね。じゃあ、こちらも知ってますか?」

同じ作者の、三国が争う、これまた架空戦記ものを挙げる。

それなら、母の手持ちの本にあった。ハイ、と答えると、

メガネ越しに覗く目が弧を描いた。

「あら、気が合いますね」

それでは、と彼女はすうと息を吸った。

「『やし酒飲み』は知ってる?『聊斎志異』は?『サラトガ手稿』は?『ほんものの魔法使』は知ってる?」

今まで穏やかに話していた口調が、急に速くなった。


この人、わたしよりも本読んでる。

わたしは、もっぱら国内のエンタメ小説と、母から薦められた本しか読まないが、それでも、なかなかの読書量であると自負している。

だが、彼女は間違いなく、それ以上に本を読んでいる。

だって、さっき挙げた本、全部知らない。

『やし酒飲み』?『聊斎志異』?『サラトガ手稿』?『ほんものの魔法使』?

ナニソレ……まったくわからない。そんな本あるの?って思ってしまった。

あまりにも色々読んでいて、ますます、そのメガネとマスクに覆われた顔が妖しく映る。

「あら、知りませんでしたか?」

小首を傾げ、ホホ、と笑う彼女の耳から垂れ下がるイヤリング。

その金属のパーツが鳴らす、しゃらり、という音がいやに蠱惑的に響く。

思わず、ごくりとのどを鳴らしてしまった。

図書室の中には、彼女とわたしのふたりだけ。

午後四時、そろそろ夕暮れ時だ。

こういう時に、人は何かに化かされた気持ちになるのだろうか。


帰宅して、今日あったことを寝室のドア越しに母に話した。

う~ん、と唸る声がする。

「多分だけど、お母さんと同じ体験した人だと思うな~」

「え?そうなの?」

「多分ね~」

そういった母、少しの沈黙ののち、こう言ってきた。

「汐子、森山先生の出身地、考えてごらん」

「は、はあ……」

「そうだなあ……三月までの宿題ね」

三月、それはうちでは特別な月だ。

「それが終わったら、家族旅行、しようか」

「え?で、できるの?」

「さすがにそろそろ、お母さんも外出たいな~と思って」

「……わかった。お医者さんには、話つけとこうか」

「あ~、いいよいいよ。こういうのって本人がやるべきことだし、さすがに娘にそこまで気を遣わせるのは悪いよ」

「お父さんとは、お話するんでしょ?」

「そりゃね~、夫婦だもん。あの人、おっそろしく鈍いから、またとことん話して聞かせないとね」最近おとなしく話を聞いてきたけどさ、とドアの向こうで笑う声がする。

「まあ、大人のことは子供が心配する必要ないよ~」

「……そっか」

母は、姿を見せないが、とにかく頼れる人だ。

いつもどうにかして、大仕事をやってのける。

なんだか、うちの付喪神みたいな人だと思っている。

あまりに頭が回るので、もはや人外なのではないかと勘ぐってしまうこともしばしばだ。

本当に、今何歳なんだろう……生年月日までわからない。謎の人。

だが、家族を愛し、周りの人を愛し、義に生きる熱い人なのだ。

そんな母が動くと聞いたら、娘であるわたしも動かなければならない。

三月までにこの宿題を終わらせようと強く思うのであった。

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