第11話

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 現代文の授業。担任の岡崎先生が宮沢賢治の『永訣の朝』を朗読中に頭に包帯、腕に新品のギプスを巻いた羽田さんが登校してきた。スクールバッグ、体操着に片肩だけで背負ったクラシックギターのケース。なで肩から今にもずり落ちそうだ。

「おい、誰でもいいから手を貸してやれ」

 誰でもいい、なんて曖昧な言い方なせいで私も含めてクラスメイト達は他力本願にお互いをジロジロと見合う。仕方なく先生が羽田さんの後ろの席の子を名指しして手伝わせた。

「すみません。登校中に足を滑らせて駅の階段から転げ落ちちゃって」

 羽田さんは小さく苦笑いを浮かべ、スカートを折って着席。

「流石に生徒の利き手までは覚えていないんだけれど、右?」

「いいえ、左利きです。折った方が利き手です」

 先生は頭を掻いて、それから隣の席の私の名前を呼んだ。

「悪いんだけれど仲真、羽田の板書手伝ってやってくれないか? お前は隣の席だし内職も睡眠学習もしないし」

 私は論理的な拒絶方法を逡巡。脳内コンピューターをフルスロットルで回す。嫌だ、面倒くさい。羽田さんの介護を請け負うために、真面目に授業を受けているのではない。

「はい、喜んで。困った時はお互い様ですもんね」

 検索結果、エラー。凌げる程よい理屈は思いつきません。

死ぬほど嫌だ。気を散らさないで授業を受けたい。詩なんて特に気張っていきたい。行間だとか奥行きって呼ばれる……私には理解できない何かを察しとれるようになりたいのに。

 でも、ここで「羽田さんも普段内職に勤しんでいるので私は必要ないと思います」って断ったら『やさしいどうとく・一ねん生』に反してしまう。それは己の何年もの苦労を無下にする愚行に他ならない。

 私はニコニコと自然な笑顔を意識的に作り、机を羽田さんにくっつけた。

「授業を真面目に受けないお前ら、期末テストクソほど難しくしてやるからな。覚えておけよ」

 先生は笑っているけれど、そのまなじりは細く鋭い。

 まあ、それでもその発言はコケ脅しに過ぎない。難しくしたところで、全員百点なのだから。

 英語などの文系理系共通科目以外、洋学院高校の三年生は全科目百点に採点される。共通科目以外の配点を平等にしないとポイント制に不平等が生じるためだ。

 つまり、現代文は内職と睡眠の時間なのだ。授業を聴かんでもノートを取らんでも、どうせ満点の答案用紙が返却される。

 羽田さんがぎこちない動作でペンケースを開くと、消しゴムが飛び跳ねた。飛び跳ねてそのままコロコロと教室の端まで飛んでゆく。

 誰も拾おうとしないので代わりに先生が消しゴムを拾った。腰を曲げて摘まみ上げて視線を上げる。その眼前。机の上に堂々と広がる英単語帳。

 先生の首に薄っすら青筋が浮かんで次の瞬間、その生徒に向かって思いっきり消しゴムを投げつけた。ぺちんって痛烈な音が響き渡る。消しゴムはコロコロとまた、転がっていく。

英単語帳の生徒は自らの額を撫でながら、

「入試本番で『永訣の朝』が出るのでしょうか」

 滔々とそんな弁を述べた。語気は少し強く私には無理に表情を殺しているように見えた。

「本当にこの学校は狂っている。何が小さな競争社会だよ」

 先生は踵を返して消しゴムを拾い、羽田さんの机に置く。

 私としては短い本文なのだし早く朗読に戻って欲しいのだが、先生の脱線は続く。黒板にデカデカと小説のタイトルを書きだした。北杜夫『夜と霧の隅で』。

「機会があれば読んでみてくれ。ナチス政権下の精神病院の話だ」

 誰も反応を示さないどころか顔も上げないのを確認して、

「来年の共通模試で出題されるぞ」

 刹那、誰もが電光石火に顔をバッと上げてメモを取り始めた。私も素早くメモを取った。私だって一応受験生なのだ。

「嘘だよ。なんで俺が試験の内容を知っているんだよ」

 先生はお腹を抱えて一笑いして、それから『永訣の朝』の朗読に戻る。

 

 現代文の授業が終わって休み時間。席に突っ伏しながらチャイムを待つ。耳だけは澄ましていると、茜と隣の席の羽田さんの会話が聴こえてきた。

「お前、本当に階段から落ちたのか?」

 茜は行儀悪く私の机に腰を下ろす。尻が頭にぶつかるから端にずれてやった。

「余計なおせっかいだって百も承知なんだけれどさ、どう転んだら左腕だけ折れるんだよ」

 羽田さんに向けての言葉だけれどなんだか私にも語りかけているような気がした。

「頭に包帯ってことは顔から地面に激突したんだろ? 背中からならギターケースがクッションになるし。折れるシチュエーションって本当に限定されるよな。例えば、下り階段で思いっきりつんのめったとしたら、両手で受け身を取るんだから折れはしまいだろうし、利き手だけ折れるはどうも考えにくい」

 茜は一拍措いて、

「つまりさ、故意ではなく不注意で左腕だけ骨折したのなら上り階段で思いっきり後ろ向きにジャンプして、身体を捻って左手だけで着地……とかそういう無茶苦茶なシチュエーションになっちまうだろ?」

 目を開けてちらりと二人の方を見た。茜の後ろ姿とどうとでもとれる表情の羽田さん。困惑の表情ですと言われても、図星の表情ですって言われてもそれっぽい。

「思いっきり背中からダイブして左身体を捻って左半分で着地。左腕だけで全体重を支えようとしたから折れた。これが偶々なんてことあるか?」

 いやいや、何のために? って心の中で思った。骨折って悶絶するくらい痛いのに。

そんな私のテレパシーを受信したのか。茜が丁寧に説明を付け加えてくれた。

「大繩に参加しなくて済むために、だ。利き手を壊せば縄回しも難しい。片手でもロープを腕に巻けば回せないことは無いけれど、慣れない反利き手では縄の制御は難しいし筋力や握力だって利き手に劣る。縄回しも御託を並べて拒否ができるって訳だ」

ていうか、そもそも跳ぶのも免除して貰えるのか。跳ぶのって脚さえ無事ならばいくらでもこなせるもんじゃないのか?

「別にアタシは自分の意志で折ったのならとやかく言う気は無いんだ。でも、もしそうじゃないならもう一度言うけれどさ、余計なお世話だけれど……何か力になれないかと思っただけだ」

 羽田さんがようやくゆっくりと口を開く。どういう心情なんだろう、その微笑は。

「ありがとう。だけれどこれは私の不注意のせいで偶々折ってしまっただけだから」

 声音は随分と落ち着いている。

「ギプスって腕の面積が広がるでしょ? その分、縄に接触のリスクが高まるから跳ぶのを免除してもらえるの。学校側も一回、そういう前例を作って以来、ルールの改正はしない方針なんだって」

「だから他のクラスでも骨折者が続出しているのか?」

 基本的に学校の話題に疎い私にとって、続出ってフレーズは寝耳に水だった。かなり驚いた。

「ううん、皆、運良く偶々折ってしまったってだけ。ポイント式のこの学校において一人のマイナスはクラス全体に影響を及ぼすでしょ? 一人のせいで全体が不利益を被ってはいけないと思うの。私の骨折はクラス全体の利益に繋がるんだから私はこうなってよかったんだよ」

 茜は口を開いて何かを言いかけた。でも結局押し込むように黙る。

チャイムが甲高く鳴り響いて休み時間が終了。世界史の先生が教室に入って来たのに合わせて茜が自分の席に戻った。私もむくりと起き上がり欠伸を噛み殺して号令と共に起立。


さてさて、体育の授業。

授業は競技場で行われた。まあ、ぶっちぎった。中段に控えて足を溜めて第四コーナーで我ながら見事なごぼう抜き。

「捉えきった! 突き抜けた! 強かった!」

 もはやどう実況されるのかが楽しみで走っている。ていうか放送部の生徒は自分の練習に出席しなくていいのかな。あと角田君らティックタックマンも。

まあ、私の気にするようなことじゃないしどうでもいいか。実況ある方が心躍るし。前回みたく終始先頭を独走せず控える形をとったのも、その実況を気にしてのパフォーマンスなのだ。

 角田君は一ハロンごとのラップタイムを毎回計測する。一ハロンがどのくらいの距離かは知らない。ルールブックに記載があるらしいけどもう捨ててしまったので確認の仕様がない。あれ無駄に分厚くてかさばるし。

「仲真さん、二走目は最初から手を抜かずに最初から全力で走ってあげなよ」

 一走目を終えて休憩中。苦い顔の角田君に言われて首を傾げた。

「どうして? 問題なく勝てるし悪いこともしていないと思うよ」

 次は最後方からまくってごぼう抜きがやりたい。焦らして中々進出しなかったら、実況はどんな反応を示すのだろう。それが楽しみで仕方がない。

「一応、きちんとした理由もあるよ。角田君が教えてくれたんじゃん。スローペースの時は前が有利でハイペースだと後ろが有利だって。ペースが早そうだったから意識的に後ろにいたんだけれども」

「本番では役に立たないとも言ったじゃん。個人戦でラビット……つまりペースセッティングしてくれる人を用意できないのだから」

 まあ、そう言われるとぐうの根もでないのだけれど。

「皆のプライドをへし折っちゃっている。仲真さん自身にそんな気は無いのは分かっているんだけれどさ。なんだかあんまりに気の毒過ぎて」

 角田君は項を掻きながら明らかに不快そうな相好を浮かべた。私なんかに不快だってバレるくらいには露骨な表情だった。そんな気は無いのは分かっている、といいながら本心では悪気があるもんだと決めこんでいるのかもしれない。

 でも、言われた側の私の衝撃ったらない。だって悪気がないのだから。脳天から楔を打ち込まれたような気分だった。

「そっか……そうなるのか……次から……真面目に走る」

 奥歯をぎゅっと噛みしめる。私の人生の指針は『やさしいどうとく・一ねん生』だ。もし、気が付かぬうちにであれ人を傷つけていたのなら、私は自らに課した指針に反していたということになる。

 二走目。あわあわと放心状態で走ったから全く記憶がない。それでも今度は文句なしの完勝。ゴールした私の耳に轟く謎の実況。

「女王は俺だけ!」

 何故か私は俺っ娘にされていた。まあ、そんなことはどうでもよく今度は上手くやった。大丈夫だろうと後ろを振り返る。またまた脳天に楔。

 どういう訳か、陸田君に睨まれていた。彼の背後にはポロポロと泣きだす他の走者達。

「どうして? 手を抜かずに走ったのに」

「手を抜いて接戦を演じた後にぶっちぎったから……むしろ深くプライドを傷つけちゃったね」

 絶句した。そういうレスポンスが返ってくるって、先に教えてよ。

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