私を殺した蜘蛛びとの忌み子を愛そうと思う
クラウド安見子
第0話
山の天気が気まぐれなのはわかっていた。
知識としては。
それでも、世の中は「自分だけは大丈夫だ」と準備を怠るのが大多数なようにも思う。
私は、そのうちの一人だ。 大勢の同意を得たとて、今のこの状況を打破できるものではないが、自分だけがこの愚かな選択をしたのではないと安心したいのだろう。
私は、子どもの頃に駆け回った野山に一人で登山に来ていた。
登山とは言っても、子どもの頃に慣れ親しんだ山だ。登山の準備など、必要だとも思っていなかった。
そもそも趣味ですらない。
私はこれまでインドアな趣味しか持ってこなかった。それでも四十を来年に控え、体力の衰えと人と関わらずにすんでしまう趣味に、今後の人生を不安に感じた。
そこで新たな趣味を探る過程で、登山を思いついた。基本的には一人でも可能。だが、山で出会う交流は、都会でのそれよりも濃厚な、親密な印象を受けた。そのいずれも、ネットでの検索結果でしかないのだが、他の趣味よりも興味を惹かれたのは確かだ。
それでも初心者の登山がいかに危険かは、たびたびニュースになる遭難事故で理解しているつもりでいた。だから、小学生の時分に庭として親しんでいた山ならば最適だと思ったのだ。
それさえも甘かった。
私は今、足を滑らせて落ちた崖を見上げている。落下地点との距離は、七メートルはあるだろうか。無事だったことに感謝をしつつも、大の字のまま体が一向に動きそうにないところをみると、本当に無事かどうかは疑わしい。事故にあったときはショック状態だから痛みなどを認知しにくいが、交通事故にあって自分で起き上がり現場から去ったものの、自室で冷たくなっているなんてこともあるくらいだ。
雨がしとしとと、体を濡らしている。
動くこともままならないから、唇を伝う雨水は甘露ではある。だがそれと同時に、私の体温を奪ってもいた。
どのくらい気を失っていたのかわからないが、日が暮れそうになっていた。
夏とはいえど、このままでは危ないのではないか?
ゾッとしたところで、遠くに物音がした。
草をかきわける音。
人か?
奥深き山ではないから、熊などの危険な動物の存在は考えていなかった。
首さえも動かないことに愕然としながら、目だけを音のする方へ向ける。
子どもの姿が見えた。
ほっとして声をかけようとする。
「っ」
声が出ない。というよりも、大きく息を吸い込もうとすると、体がどうしようもなく痛んだ。
生い茂る草に紛れて、私の存在が見逃されるのではないかと恐怖を感じた。
だが、懸命に目で追う子どもは、真っ直ぐに私の方へと向かっている。
助かった。
子どもの頃の私のように、山で遊んでいたのだろうか。
最近の子どもは外ではめっきり遊ばなくなっているとニュースで報じていたが、そんなことはないではないか。
助けてもらった後のお礼をなににすればいいか思い浮かべながら、私は子どもが近づくのを待っていた。
子どもが触れられる距離まで近づくと、姿形がわかるようになった。
ただ逆光で、表情は窺えない。
身長からするに小学校高学年から中学くらいだろうか、髪は肩まであるが昨今では男女どちらかわからない。
その髪は夕闇が手伝ってか、白銀に見える。
私を見下ろしたまま微動だにしない子どもは、目だけが光り、両目の色が違って見えた。
「見つけた……」
背筋が凍った。
目と声に満ちる憎悪。
私は突然初対面の子どもから敵意を向けられ、動揺した。「子ども」と「憎しみ」が私の中でうまく結びつかない。
その子は底冷えのする目で私を見下ろしたまま膝をつき、光る何かを左手に持っていた。その先端から雨の滴が落ちる。
刃渡り四十センチはあろうかという両刃の剣だ。私の目がおかしいのか、子どもの腕と剣の境目が曖昧だ。肘下から剣と一体化でもしているかのように見える。
その剣に釘づけになっていることに気づいた子どもは、ニタリと笑った。赤い舌が覗いたのが見えた。
「死ね……」
私が状況をうまく咀嚼できないうちに、その子はおもむろに腹部に剣を突き刺した。
「ぐっ」
驚きと混乱。
なんだ?
なんなんだ?
夢か?
体から剣を引き抜くと、子どもの衣服や周囲の草木に私の血が飛び散った。それも構わず、今度は馬乗りになると心臓を除いたあらゆる箇所を滅多刺しにする。
「死ねっ、死ねっ、死ねっ」
「死ね」と言いつつ心臓を避けるということは、私を最後まで苦しめたいのか。
だが、なぜこんなにも憎しみを向けられているのだろう。まるで親の仇でもあるかのようだ。
私はこの子と会ったことがあったのか?
それともこの子の親となにかしらの因縁でもあったのか?
私は後からやってきた痛みに耐えかね、他人事のように考察することで現実逃避しようとしていた。
崖からの墜落で傷ついた体は、こんな小さな子どもの凶行を止める力さえ失っていた。
流れ出る血と雨が混じっていく。子どもが心臓に止めを刺す前に、私の命は流れ出た。
寒い。
最後に感じたのは寒さだった。
彼の命が消えていることに気づいたのは、心臓が動きを止めて数分経ってからだった。
「あれ」
返り血で真っ赤に染まった子どもは、乾いた声で男に聞いた。
「心の臓を刺す前に、死んじゃったの?」
目を見開いたまま事切れた男の顔には雨が降り注ぎ、泣いているようにも見える。
「そっか。死んだんだ」
子どもは立ち上がり、空を見上げ両手を広げるとじっと目を瞑った。
血が雨に洗い流されるのを待った。彼の体を穴だらけにした左手の剣は消えている。
びしょ濡れの体からは血の色が薄れたが、左手には血の臭いが染み付いている。
左手を鼻に近づけると、子どもは顔を顰めた。
「くさい」
男の死体を一瞥し、右手で引っ張る動作をする。
すると男の体からひどく細く透明な糸が抜き出された。
もう一度、子どもは男に視線を向ける。
そこにはもうなんの感情も浮かんでいなかった。
子どもはそのまま去り、男は目を閉じることもなく雨晒しのまま放置された。
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