第三十一話 鬼と領主と砂掛婆

 カワベエの力で作られた水脈は、水の中というよりも泥に近い感覚だった。

 水よりも重く、纏わりつくような感覚があるのは、やはり周りが元々地面だったからだろうか。

 カワベエの加護によって呼吸は問題ない。それどころか目鼻や耳、口から水も泥も入る様な事はない。

 それを事前に聴いていて分かっていても、反射的に体は異物が侵入しないように動いてしまう。


 結果として、カワベエの背に捕まって地面に潜るという貴重な体験は、常に目を閉じ必死に背中にしがみつくというなんとも情けない結果に終わってしまった。


「おい、着いたぞ」

「し、死ぬかと思った……」


 心待ちにしていた一言が耳に届いた瞬間、俺はようやく生の実感を得る。大げさかもしれないが、泳ぐのが苦手な身としてはそれくらい必死だった。

 以前海中から商船に侵入したときは魔法で能動的に水の性質を変化させて誤魔化したが、水中で動ける方がよほど俺にとっては摩訶不思議だ。

 そんな俺の様子を見て、カワベエは少し馬鹿にしたように口角を上げて、俺を背に乗せたまま「人間は情けねえなぁ」などと宣っていた。


「俺は泳げないんだよ……」

「水の魔法使うくせにか!?ぶははははは、なんだそりゃお前、滑稽すぎるだろ!ぶははははっははうおぉぉぉぉあああ!!」

「うおぉぉぉぉあぁ!!?」


 俺の言葉を聞いて大笑いしていたカワベエが、突然大声を上げて俺を放り投げる。

 直後に巨大な質量から生まれたであろうぞっとする風圧が顔を通り過ぎて、全身から血の気が引いた。


 目の前には棘付きの巨大な金棒。

 即座に敵襲と判断し、咄嗟に周囲の水のエネルギーを集めて水刃輪を作る。

 もしやすでに内部まで侵入されていたのか、と内心冷や汗をかきながら、俺とカワベエを攻撃してきたその主の姿を視界に収めた。


「ほっほーぅ。酒をこっそり漁りに来てみりゃ鼠が来たかと思ったが、やっぱ躱すかぁ」


 その言葉に内心舌打ちをしたくなる。ギリギリで躱せた。というよりも、気付けるようにして躱させたといった様子だ。

 その言葉を発した相手の額からは、天を衝くように伸びた二本の鋭い角。そして虎の柄の派手な羽織。


「……鬼……?」


 その出立といい、武器と言い、目の前の相手はまるで昔話に出てくる鬼だ。

 ただその顔は非常に整っている。俗にいうイケメンというよりは、ハンサムとか美丈夫という言葉が似合いそうな顔立ちである。

 一方で服装と同じく髪は派手で、まるで鬼灯のように鮮烈な朱の色と相まって歌舞伎のかつらの様だ。

 そしてゆったりとした格好だからか露わになった大胸筋が凄い。ちょっと羨ましい。


「ははぁ、どうも外にいる連中とは違う様子だなぁ。それにその力……、お前さん方、蘇芳の使者様かい?」

「そうだが。そういう貴方は?」

「おっと、こいつは悪かった。俺は酒呑童子。瑠璃領主さんにはちょいと恩があってな、義によって味方して……あ?どうした?」


 しまった、思考が追いつかずぽかんとしてしまった。

 河童や塗壁といった存在がいるのだから、不思議な事ではない。

 だがこんな大物がいるとは思いもよらなかった。

 酒呑童子と言えば、前世の世界では昔話に出てくる鬼の首領。いわゆる妖怪のボスの一角だ。


「いや、少し驚いただけだ。ひょっとして貴方がこの砦にいるっていう猛将か?」

「猛将とは、こいつぁ嬉しい事を言ってくれる!だがまあ、俺が強いってのは本当だ。そんな俺の攻撃を躱すとは、あんた達もやるじゃあないの!!」

「うん。まあ誉め言葉はありがたく頂戴する。しかし此処は?蔵?」

「ああ、食糧用の蔵さ。吉祥きっしょうの姐さんの力で食い物は心配ないんだが、酒は好きな時に飲めなくってなぁ。

 我慢できずにちょっとだけ拝借しようと漁ってたらお前さん方がやって来たってわけだ」

「成程……」

「とりあえず、ここじゃあなんだ。姐さんの所へ連れてってやるよ。俺の事は……まあ適当に呼んでくれ!」

「じゃあ酒呑で」


 酒呑童子はなんとも自由な性分なのか、この切羽詰まった時に酒を漁っていたという。

 呑気というか大物というか、名前の通り酒がよほど好きなのだろう。

 

 ただ、話していて悪い気はしない。気持ちのいい男だ。

 折角案内人がいるのだから、いまはついて行った方がいいだろう。

 というか、この男には俺とカワベエがうまく連携できたとしても恐らく敵わない。


「助かる。ただ」

「あん?」

「あそこであんたに吹っ飛ばされてひっくり返ってるうちの連れをまずは助けてからだ」


 親指で指示した先には吹っ飛ばされたカワベエ。

 ひっくり返った亀宜しく、起き上がれなくてじたばたしている。

 自力で起き上がれないのは、崩れてきた荷物が邪魔だからか。


「おい桃ォ!!話はいいからさっさと起こせぇ!!」


 口は悪いが、その姿にちょっと可笑しさを感じてしまう。

 元は敵であったとはいえ、カワベエにはどうにも憎めない愛嬌のようなものを感じてしまう。

 俺は笑いを堪えながら酒呑とカワベエの上の荷物を片付け始めるのだった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「おう姐さん、戻ったぜ」


 酒呑童子の案内でたどり着いたのは、殺風景な広間だった。

 さほど広い空間ではないが、とりわけ頑強そうな扉に守られているその広間は、やはりというか最上階に位置している。


 そしてその奥、これまたカムナビではあまり見ない異国情緒のある長椅子に、一人の女性がしな垂れかかる様に腰かけていた。

 殺風景な広間の中という事も相まって、そこだけが切り取られた別の空間の様に華やかに見える。


 傍には着物の女性がもう一人立っていて、着物の袖の中に両の手を差し入れて目線だけをこちらに寄越してくる。

 傍に立っている女性は老境に入っているようだが、砂色から薄く紫のグラデーションがかかった髪といい見た目の印象は派手だ。


 おそらくは月代つくよ様と似たような年齢だと思う。

 しかし月代様がどこかの旅亭や旅館で女将として出てきそうな雰囲気なのに対し、こちらの着物の女性はスナックに居そうな感じ だ。

 スナックに行ったことないので生前のテレビドラマのイメージなのだが。



「この匂い……酒呑童子よ、お前また酒をくすねていたな?」

「だっはっはっはっ!!やっぱバレたか!酒が無いといまいち気合が入らないもんでよ、大目に見てくれや」

「あまり飲み過ぎなければよい。お前がいるからこそここまで私が永らえて居るのは事実だからな。それで、そこの二人は……」


 少しばかり不機嫌そうにため息をついて、目の前の女性は此方に視線をよこす。

 俺と同じ濡れ烏の長い髪に泣きボクロのある切れ長の目、巫女の様か神官な装いの、水色の袴。

 装飾の入った羽織からは白蛇のようにしなやかな腕が伸びて、頬杖をついている。

 その彼女の切れ長の目が、こちらを認識した途端に僅かに見開かれたような気がした。


「そなたらは……義兄上あにうえの寄越してくれた使者殿、ということでいいかな?」


 僅かに崩していた姿勢を直した女性の、品よく紅を引いた唇が開かれる。


「はい。この度は瑠璃領主様の援軍と、恵比寿えびす様の策の共有の為に参りました。桃と申します。こちらはカワベエ」

「お初にお目にかかります。カワベエです」


 改めて名を名乗って、手をついて礼を示すと、目の前の女性もそれに続いて名乗った。


「そうであったか。私は瑠璃領主、葛葉吉祥くずはきっしょう。此度の援兵と救援、感謝する。そこのばあ沙羅さらと言う。沙羅、この者達は味方じゃ。警戒を解いて良い」

「吉祥様がそう仰せであれば」


 沙羅と呼ばれた着物の女性は吉祥様の言葉で袖に隠していた両の手を抜き去り、体の前に重ねて真っすぐに居住まいを直す。

 袖の中に武器でも仕込んでいるのか、この老婆がどれほどの実力か分からないが、ただ者でないことは確かだ。


「悪いなお前ら。この婆さんこんな見た目だが生真面目でな!」

「あんたはもう少し真面目にやらんか。まったく、もう少し瑠璃領主様方の妖怪達の頭領という意識を持ちな」

「そりゃあすまねえな。だが俺に真面目を期待されても困る。馬鹿は死んでも治らんからな!真面目な反応はこの婆さんに求めてくれ」

「だれが婆さんだい。あんたの方が遥かに年上の爺だろうが。酒の飲み過ぎで耄碌もうろくしたかい」

「見た目はあんたの方が婆だろう?あいにく俺は歳喰っても大して見た目が変わらんからな」

「実年齢の話をしてるんだよあたしは!それに婆婆とうるさいよ!」

「おっと」

「うぎゃ!!」

「「「あ」」」


 小気味よい口論の末に、沙羅が袖から砂を取り出して酒呑童子めがけて投げつける。

 酒呑童子はそれを軽口を言って躱すと、代わりにその射線上にいたカワベエの顔に砂がぶつかった。


「目が!!目があぁああああぁぁぁ」

「カワベエ!目ぇ開けろ目ぇ!」


 砂が目にダイレクトに入ったらしいカワベエが目を抑え叫びながら左に右にと転げ回り始める。

 今回ばかりは流れ弾を食らった形のカワベエに若干同情しながら魔法で目を洗い流してやると、「口が……顔が……じゃりじゃりする…」とうわ言のようにつぶやいた。

 後で顔も洗ってやろう。


「あー。すまねえな。うちの婆さんが」

「お前が避けるからだ。馬鹿者。とはいえ、砂を投げたのはあたしだ。すまなかった。」

「だっはっはっはっは!俺が避けたせいでもあるな!すまん!!」

「笑ってごまかすでないわ全く」

「っと、桃。一応改めて名乗っておくぜ。俺はしがない酒好きの風来坊だ。人間達からは酒呑童子と呼ばれているロクデナシさ。だが今は縁あって瑠璃領主様側の筆頭として武働きをしている。因みにこっちの婆さんは……」

「沙羅という。この度はご助力感謝しよう、蘇芳の使者殿。私もそこの酒呑童子と同じ、瑠璃領主様側についておる妖怪じゃ」

「この婆さんの砂の魔法はまあ凄くてな。夜の間は砂塵で結界を張ってくれてるもんで、俺らも楽できるんだわ」

「褒めたってなんもでやせんわ」


 何となくそんな気はしていたが、沙羅殿も妖怪の様だ。

 先ほど酒呑童子に投げつけた砂。あれが彼女の能力なのだろう。

 さしずめ砂掛婆といった所か。

 そして瑠璃領主側とわざわざ名乗る当たり、やはり妖怪達も二つの勢力に別れているとみていい。


「とんでもございません。吉祥様、酒呑童子殿、沙羅殿。ご無事で何よりでございました」

「優秀な兵たちのおかげでな。なんとか逃げおおせることができた。領主としては無様この上ないが」

「危険な状況でありながらここまで耐え抜いた兵の士気の高さは、間違いなく吉祥様のお力に寄る物でしょう。それにこれよりは、我々蘇芳も味方いたします」

「本当に心強い。あとで恵比寿には礼を言わねばな。其方、桃といったな顔を上げよ」

「……?はい」


 突然名指しで指名をされて、言われた通りに顔を上げる。

 ひょっとしてなにか失礼なことをしてしまっただろうかと不安になったのもつかの間、吉祥様は俺の顔をじっと見つめた。

 部屋に入った時に見せていた、何処か張りつめていた顔とはまた違った、観察するような表情だ。

 そのままするりと、柔らかい手が俺の頬に添えられる。


「え……っと……」

「すまぬな。もう少し、顔をよく見せてくれ」

「はぁ」


 瑠璃色の瞳にじっと見つめられて、恥ずかしさから居心地の悪さを感じてしまう。

 それでも我慢してじっとしていると、吉祥様は満足そうに柔らかく笑う。


「やはり、よく似ておるな」

「え?」

「こちらの話……、いや、其方にも関係あることか。この戦が無事に終われば、其方に話そう」

「……わかりました……」


 吉祥様の表情と言い、気になる事は多いが今はそれどころでないのは事実だ。

 早い所その表情の意味を聴きたかった、それはこの戦いを終わらせるまでお預けだ。

 よけいな情報を頭に入れたばかりに集中が鈍っては元も子もない。


「そういえば、此処には吉祥様達だけですか?寡兵にせよ、もう少し人が多いと思っておりましたが」

「いや。私達だけではない。お前たちも見たかもしれないが、この砦の門扉や各階の広間には兵が少しずつ詰めている」

「なるほど。他に将は?」

「将に関してはそこの二人だけだ。夫も含め一緒に逃げてきた将はまだいるが、別の任を負ってもらっている。今頃は任を果たしてこちらへ向かっているだろうさ」

「信頼されているんですね」

「音に聞こえし蘇芳の白鯨の弟君にして、私の夫だからな。それで桃よ。そなたらが来たのは何も兵力としてではあるまい。妾はどうすればよい?」

「っと、そうでした。恵比寿様から策を預かっております。その下地を作るためにまずは、敵方に一筆書いていただきたく」

「ほう」

「降伏の書状を作ってください。その際、将兵と吉祥様の命を保証する条件も必ず添えて」


 その言葉を聴いて、沙羅が控えめに抗議の声を上げる。


「桃殿、この状況で降伏など聞き入れられるはずがありませぬ。まして人寿郎めの目的は吉祥様の命でございます」

「だからこそです。吉祥様の命が狙いだからこそ、相手は降伏を聞き入れない」

「ではなぜ」

「こちらの戦意が削げている。そう思わせるのが恵比寿様の狙いです。その為に工作部隊が動いています」

「なるほど、相手の油断を誘うためか」


 吉祥様が割って入る形で、その工作の狙いを言い当てる。

 まさしくその通りで、相手の油断を誘うのが今回の策の肝だった。


「その通りです。徹底して相手に此方には既に戦意が無いと思わせる。だから迎撃も最低限に、あくまで吉祥様の命を永らえる為という体で戦ってください」

「そこまでうまく騙せるかねえ。俺も散々暴れ散らしちまったし」

「酒呑童子殿は迎撃には積極的に出ず、本番までお待ちください。迎撃は俺が行います。工作部隊に偽の情報を流させます」

「暫くは暴れられねえかぁ。まあ仕方が無い。我慢した分本番とやらにぶつけてやるさ。その代わり、面白い大舞台を用意しておいてくれよ」

「お任せを。といっても用意するのは恵比寿様ですが」

「ふむ、では早速一筆認めよう。義弟殿の策、乗ってやろうではないか」

「結構は蘇芳軍が陣を張る三日後。それまでたっぷりとお相手には枕を高くして眠ってもらいましょう」

「では、白鯨と呼ばれた蘇芳領主の若き臣の力、見せてもらおう」


 吉祥様が形のいい唇の口角が上げて、ばさりと布のはためく音を立てながら立ち上がる。

 そこには先ほど俺の顔を覗き込んで見せていた柔らかな微笑とうって変わった、領主としての顔があった。

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