女始末人絵夢6(6)猫又の湯
「大丈夫? 子猫ちゃん」
絵夢のそんな声がまるで昨日の様に思い出される。
百虎王、すなわちMは絵夢の入っている温泉を見張りながら回想していた。
お湯に浸かるのが大嫌いな小虎までもが、絵夢に連れられて一緒に入っている。
小虎はあいも変わらずMを許そうとはしていないが、絵夢とは仲良くなったようだ。
猫又は猫が歳を経て化けるもので、猫又の里の内では最年少の小虎と言えども、実際には子猫と言えないほどの歳を取っている。
猫又が猫又を産むということはないので、猫又の里では普通の家族関係と言うものは存在しない。おまけに元が猫なだけあって、皆が個人主義の塊と言っても良い。
その中でも小虎の意識だけはずっと子猫に近い。
小虎はある事情の下で、ずっと眠り続けたまま、年劫を積んで変化した猫又なのだ。
小虎はどうやら、絵夢を母猫と考え始めたようである。
猫又の里には小虎を甘えさせてくれるような猫又はいないのだ。
ただそれでも小虎が他の猫又に虐められることはない。マダラの師匠も睡羅もそういう無駄な行為を心底嫌っているからだ。
温泉には絵夢と小虎の他には当然の事ながら誰も入ってはいないのだが、油断はできない。この地域には猫又の他にもいろいろな妖怪変化が住んでいるからだ。
猫又は猫の性質が強く残っているため、温泉に入るのは酷い怪我をしたときぐらいのものだ。
だから、他の変化、特に猿の類は猫又の目を盗んで、ここの温泉に忍んで入ることがある。
こいつらは特に人間の娘に悪さをすることが大好きなのだ。
今は温泉の周りには強烈なMの気が充満して結界を成している。
そこを通り抜けようとする馬鹿は・・。
・・こうなっても仕方が無いな、とMは足下に殴り倒した三匹の化け猿の上に座りながら考えた。
Mにしては珍しく殺していない。猫又の里にも近所付き合いというものがあるのだ。
「きゃあきゃあ、もう最高~」絵夢がじゃぶじゃぶとやっている。
ふと、絵夢は目の前にひょうたんが一個浮いているのを見つけた。
ひょうたん?
変ねえ。へちまならばまだ分かるが、只の瓢箪とは実に面妖だ。
絵夢は瓢箪を手に取って見た。ぱかりと瓢箪が割れると、内側にマジックインキで書かれた字が見えた。『絵夢。お風呂の中で泳ぐのは止めなさい』
確かに元締の字だ。
「ええ? ええええええ~。 元締。どうして~」
きょろきょろと絵夢は辺りを見回した。
しかし誰もいない。
元締の言ってた温泉って、まさかここかしら。元締が冗談で書いたのを偶然にあたしが拾ったのお?
絵夢の頭の周りを『?』マークがぐるぐると回転した。
それを見ながらMはまた回想を始めた。
自分が変だと気付いたのはいつからだったろう?
猫又の里でも何かが満足できなかった。
過去には苛々が募って、人間の村を全滅させたこともある。
百虎王などと名乗って、虎の様に人を襲ったこともある。
だが・・。
絵夢の手に頭を撫でられていると、Mには何か遠い昔の事が思い出されるような気がするのだ。
自分が忘れてしまった。何か懐かしい記憶が。
変だ。妖力も回復したし。いつもの俺なら、そろそろ飼い主を殺して逃げている頃だ。
確かに百虎王は焦っていた。『M』などという顔の無い名前もそもそも嫌いだった。
夜中に寝ている絵夢の顔の前にそっと立ち、刃物より切れ味の良い爪を絵夢の咽に当てたのはいつのことだっただろう?
突然、布団の中から絵夢の手が伸びて来て、驚く間も無く寝惚けた絵夢に布団蒸しにされた。
外に出かけた絵夢の背後をつけて行って、車に飛び込ませようとしたのはいつの事だったろう?
結局は絵夢目掛けて突っ込んで来た暴走トラックを弾き飛ばして壁に激突させる結末に終わった。
夜中に買物に出かけた絵夢を密かに食い殺そうとして、間違えて女装した殺人鬼を食い殺してしまったこともある。
結局、自分には絵夢は殺せないのだと。いや、自分は絵夢を守りたいのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。
絵夢の手に撫でられ、その胸や足にすりすりすることがMにとっては最高の幸せだと気づいてしまったのだ。
いつの間にか、Mを駆り立てていた、謎の苛付きがすっかりと消えていた。
そして、Mは初めて師匠に手紙を送ったのである。
*
「そうじゃよ。ナオ。百虎王から手紙が来た時には、わしはほっとしたのじゃ。
前のままのあ奴ならば手紙など送っては来ない。そんなことなど考えもしなかっただろうからな。
もんも爺も百虎王の変化を認めたようじゃ、あれ以来、ちょっかいは出して来なくなった」
「そのもんも爺。大丈夫ですかね?
ある日、突然、Mの兄貴を殺しに来るなんて?
今でも兄貴は良く人を殺すことがありますぜ」
ナオは秘密をばらしてしまう。ナオは口が軽い。
「理由があってだろう?
ナオや。問題は因果の法によらずに人を無作意に殺すことにあるのだ。あの娘さんのように天命に従ってあらゆる事故を起こしている様な事にはもんも爺は手を出さんのじゃ。それが如何に世界にとって必要かを知っておるのだから」
「難しいことはおいらにゃ判らない」
ナオが猫流に肩をすくめた。
「若いのう。ナオ」斑の師匠が目を細める。「まあ、とにかく。あのお嬢さんには物事のツボを突く特殊な能力がある。Mもナオもツボを突かれたわけじゃ」
「へえ」
「ひたすら生きることを楽しみ、素直に生を送るものには天の助けがあるということじゃの。どれ長い話になった。歓迎会の時間じゃ。そろそろ腰を上げるかの。ナオ」
*
月は天空高くにさしかかり、森の空き地は静かな期待に満ちていた。
がさがさと猫又達が木立から出てくる。
なお~。
にゃお~。
なる~。
歓迎の歌を任された猫達が得意の咽を披露する。
きゃあきゃあと笑いながら絵夢が案内されて来る。
白い髪をしたハンサムな青年が一人、向いの林から出て来る。
身を屈めて絵夢の手を取ると言った。
「お嬢さん。私と踊ってくれませんか」
「きゃははははは」絵夢が笑った。「M。似合わないわよ、その格好」
にゃあ? 青年に化けたMが鳴いた。
しょうがないにゃあ。くるりと回ると絵夢より少し大きいぐらいの大猫に戻った。
にゃあ、これでいいかにゃあ?
「いいわよ」絵夢はにこりと笑った。
そのまま、Mの差し出した前足を掴むと、絵夢はMの背後にすすすと回った。
にゃあ?
「猫じゃ~猫じゃ、猫じゃ猫じゃあ~」
絵夢はMをがっきと捕まえると、猫じゃ踊りを踊らせ始めた。
「きゃははははは」絵夢は笑い転げた。
ナオと、マダラの師匠と、睡羅と、小虎を皮切りに皆が一斉に溜め息をついた。
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