幕間劇4 赤目熊(後編)
赤目羆が出たという噂を聞いたとき、自分の運命の瞬間がついに訪れたのだと、木村才蔵は確信した。
父と母と妹二人そしてまだ幼子の弟までをも目の前で食われたのは二十年前。吹雪に閉じ込められて山小屋での話だった。
手の平よりも大きな弾丸を転がしながら、心は遥かなる過去へとさ迷い出る。
がりごりと、赤目熊の顎の中で砕けて行く両親の頭蓋骨。ぽきぽきと乾いた枯れ木のように折れ果てる姉妹のアバラ骨。肉も血も皮も一つの赤い塊と成って、暗い空洞と化した大熊の口の中へと消える。
それから吹雪の吹き込む半壊した山小屋の外へと、赤目熊の背は消えた。
動かなかったのではない。
動けなかったのだ。
そんなつぶやきが無意識のうちに、才蔵のくちびるから漏れた。
おびえた目つきで、才蔵は家族が喰われてゆくのをひたすら見ていた。
そのとき自分の中の何かが壊れた。
確かにそれを感じた。
生き延びても、生きた実感がない。
目をつぶると避けようもなく、屠られる家族の肉が浮かんだ。自分の心が、自分の人生があの瞬間に閉じ込められていると、心の片隅では判っていた。
止める事できぬ惨劇。
死への恐怖。
生への渇望。
無力な己への絶望、そして軽蔑。
自分には生きる価値がないのだと思い知らされること。
山小屋の中に残ったすべてを売り払い、才蔵は都会に出た。
そして下働きをして生きた。
死んだ心のまま大きくなった。
体が十分に大きくなると、歳を偽って大人の中に混ざって働いた。汗臭い男たちの中で半端仕事を貰って生きた。
赤目熊は密やかに語られる恐怖だった。
事故の後片付けに来た警邏が、麓の村の連中と話をしていたのを盗み聞いたときに、それは確信に変わった。彼らもまた恐怖に彩られた声で話をしていたのだ。あの怪物にまたやられたと。
噂になっていなかったのは、警邏たちが必死で口を閉ざしていたからだ。そんなバケモノがいると世間に知られれば、自分たちがそいつの相手をする羽目になる。
そういった人々の怯懦の結果を受けさせられたのが自分たち一家だったのだ。
才蔵はそう理解した。
普通の猟銃ではあのバケモノには意味がない。それは判っていた。
子供が見た熊は、実物よりは大きく見える。恐怖という彩りがつけば尚更だ。だがそれを差し引いたとしても、赤目羆の大きさは尋常ではなかった。
山小屋を半壊させ、中の人間を襲うような化け物だ。
普通の猟銃では歯が立たないのは父親が銃を撃ったので分かっていた。その毛皮は並みの銃弾では通らない。
とすれば、もっと大きな銃がいる。もっと大きな弾がいる。
そのためにも金が必要だった。それも大金が。
成長するまで十年かかった。酒も女も博打もやらず、人の三倍働いた。できる限り力仕事を選び、体を大きくした。鍛えられた筋肉が肩に盛り上がるようになり、背も伸びた。やがてごつい髭が生えるようになると、彼をからかう連中は誰もいなくなった。
青年となった才蔵はまたもや山に入った。マタギの技を覚えるためだ。銃の撃ち方を覚え、獣の追い方を覚え、そして熊の殺し方を覚えた。
さらに十年が経つと、多くの山々で熊殺しの才蔵の名前が轟くようになった。
才蔵が山に入ると、その一帯から熊は一匹もいなくなる。才蔵が狩り尽くしてしまうからだ。
熊の毛皮も肉もすべて金に変わった。一番高く売れるのが殺したての熊の胆嚢であり、これを干した生薬である熊の胆は胃腸病や肝臓病の特効薬として高く売れた。
十分な金が貯まった頃合と見るや、才蔵は山を降り、外国人の店を訪ねた。
その店の名前はマグルス商会と言った。ドイツ製の輸入の銃を扱う店である。納入先は主に軍であったが、民間の好事家たちにもこっそりと卸していた。
青い目をした店主は初見である才蔵を最初は軽く見ていたが、目の前に壱円金貨の山を積まれると目の色を変えた。
「手付だ」才蔵は言った。「要るだけ持って来る。だから俺の話を聞け」
才蔵の注文は年季を積んだ銃砲店の店主にしても絶句する内容であった。
銃が欲しい。それも人間が撃てる最大の銃を。
東洋人がそんな銃を手に入れて、日本に居るはずのない象でも撃つのかと、店主は聞き返した。
それに対して、赤目羆という名の化け物を撃つのだと才蔵は答えた。その瞳の中に揺れる狂気の暗さが、亭主の反論を押し止めた。
ドイツにあるマグルス商会の本店は、高価な有線電信経由で送られてきたこの注文を最初は笑い話として、そして最後は自分たちの仕事に対する挑戦として受け止めた。
個人が撃てる最大の銃。それも、象撃ち用の最強銃など、赤子の玩具でしかないと思えるようなものを。相手は象の大きさで、しかも鉄でできている。
冗談のような話でも、積み上げられた金貨の重みがそれに真実性をもたらした。
試行錯誤の末に設計されたのは、40口径42ミリの単発ライフル銃であった。
これは銃などという生易しいものではなく明らかに砲であり、ためにマグルス商会は砲のサイズ表現を使ってきた。つまりこれは直径42ミリの弾丸を160センチ長の銃身で撃つということだ。
これ以上の太さでは銃が重過ぎて人力では運べなくなる。かと言って重量を軽減しようと銃身の肉厚を薄くすると、発射の際に銃ごと破裂してしまう。
こうして出来上がった代物は、銃身の全長が2メートルと10センチ。重量に至っては破格の38キロもあった。
弾丸はもちろん特注の鋼鉄製だ。動物などの柔らかい標的には、鉛などの柔らかい弾丸のほうが効果的なのだが、それでは発射時の衝撃に弾丸自体が耐えられないことが判った。
この銃は基本的に単発だ。大量の火薬が爆発するときの衝撃には、どのような連射機構も耐えられない。そもそも本家の象撃ち銃でさえも、水平二連の、いわば単発銃なのだから無理もない。
一番の問題はこの銃の反動だ。砲は発射時の反動を殺すために後退機を持っているし、支持架も展開する。だがそれらの反動を人間がすべて受けるとなると問題は各段に難しくなる。
撃つことだけはできる。弾も正しく飛び出す。だが撃った人間は潰れて死ぬ。
その結果は見えていた。だから設計者はあくまでも実射可能なというだけの飾りとしての銃を作るのだと勝手に解釈していた。
ドイツでの試射の際には大事になった。
轟音と共に銃を支えた試射台が台座ごと折れてはじけ飛び、弾丸が命中した標的は瞬時に消失した。標的の背後に置かれた緩衝用の砂場も爆発音と共に空中に粉塵となって消失し、その後ろの20ミリの鉄板には大穴が開いていた。
その先にある建物のコンクリートを半ばまで突き抜け、中で仕事していた連中が地震かと思って飛び出してきたことを知って、このモンスター銃を製作した職人は満足のうめき声を上げたという。
時はまだ第一次大戦の前。その後の後に来る戦争になって初めて登場する戦車砲の世界に一足先に飛び込んでしまったとは露知らず、この銃は海を渡った。
最初の一発の反動で、木村才蔵は肩の骨を折った。だがその激痛を越えてなお、幹の真ん中から真っ二つに折れて倒れた大木の残骸をみて、木村才蔵は笑った。
ここ二十年来の中で初めて、本当に幸せそうに笑った。
その後は、ただひたすら壊れた肩を治すことに才蔵は専念した。
この銃の威力は判った。
その反動を殺すことよりも、最初の一発を確実に命中させることにのみ才蔵は集中した。どのみち初撃を外せば二発目を装填する暇はない。赤目羆はそれほど容易い相手ではないことを、時折流れてくる噂から才蔵は悟っていた。
驚くばかりのその巨体に加えて、並の熊には見られぬ狡猾さと、それらの資質を遥かに凌駕する獰猛さを兼ね備えた化け物なのだ。
自分の精神力を鍛えるために座禅もやった。山籠もりもやった。滝にも打たれたし、有名な武道家も訪れた。すべてが鬼気と狂気に彩られた必死の行動であった。
そして今、彼はここにいる。自分の身長よりも長い、必殺の銃を持って。
木村才蔵は運命の瞬間にいた。
いつの間にか、赤目熊は海を渡って蝦夷地へと流れていた。
報せを受けて駆け付けた先の総勢わずか十五人の北海道開拓村はすでに全滅していた。
一歩の差で才蔵は遅れた。
男も女も子供もみな食い荒らされていて、ただの肉の塊となっている。血まみれの土間には雪が積もり始めており、すぐにも雪と氷がその本来の領域を取り戻すことだろう。
いまここに降っている雪は、あのときの雪だ。才蔵はつぶやいた。
喰われた連中は俺の家族、そしてここにいる俺はあのときの俺。
だが今度は俺の手にはでっかい銃があり、俺は大人になり、しかも熊を殺す経験を積んだ。今度ばかりは死ぬのはヤツの方で、その肉を俺が喰ってやる。
赤目熊を追って雪が積もる森の中を才蔵は追った。
三日目についに赤目熊に追いついた。
森の中に、葉擦れに、降り積もる雪の中に、押し殺した殺気を感じた。
静かに才蔵は銃を構えた。赤目羆はその信じられないほどの巨体を、見事に森の闇の中に隠すことができる。移動したとしても、枯葉を踏む音すらさせない。
それでもいまの才蔵には赤目羆の動きが判った。
左斜め前。距離は約四十歩。その茂みの後ろで、やつは息を潜めている。
装填できる弾は一発のみ。外すことはできないし、外しはしない。外せば弾を込め直す暇など貰えるわけがない。だとすれば弾は最初から一発だけと決めて持って来た。
才蔵の鋼鉄のような筋肉が、憎悪という名の燃料を得て、恐ろしい重さの銃を易々と持ち上げる。
手の平よりも大きな弾丸をホルダーに固定し薬室に入れると、固く固定した。
来い。これがお前と出会う最後だ。思わずつぶやいた。
この戦いが終わったら、才蔵は山を降り、そして二十年前に失われた人生を再開するのだ。女を抱き、子を為し、家庭の中で静かに老いて行く人間としての生活へと戻る。
復讐鬼の名前を棄てて。
才蔵から恐ろしい殺気が放たれた。周囲の森がざわめくほどの。
森の闇が二つに別れ、茂みから赤い目が現れた。巨体が木々の間に膨らみ、牙が剥かれた。
恐ろしく大きな赤目熊が二本足で仁王立ちになる。
それこそが突進の前準備と知れた。
己の纏う分厚い毛皮が、並の銃弾など止めてしまうことを熟知している狩人殺しの突進だ。
馬鹿め!
才蔵の心が吼えた。そのための銃だ。地獄の大砲だ。
驚くばかりに冷静な氷の心が命じるままに、赤目羆の心臓に狙いをつけた。
そいつが後二歩前に出た瞬間に引き金を引く自分の指が見えるような気がした。その結果として、才蔵の肩はまたもや砕けてしまうだろう。だがそれと引き換えに放たれる恐るべき力を持った銃弾は、赤目羆の心臓を跡形なく吹き飛ばす。
それが定めというものだ。
羆の赤い瞳が大きく広がった。
来る。才蔵が引き金にかけた指に力が入る。
とそのとき、赤目熊の巨体が何かにぶつかったように空中で止まる。
照準がずれて、才蔵の銃口が揺れた。
いかん。俺は何を動揺している。照準を付け直せ。
焦る才蔵の目の前で、派手な地響きとともに赤目羆が地面に転がった。
才蔵は目を疑った。赤目羆の背後から白い猫が現れたからだ。
毛足の長い白の体毛、長い尻尾に、色違いに光る両目。確かに猫だ。小さな白猫だ。
だがその猫は赤目羆の後足を咥えていた。
逃げようたってそうはいかないぜ。猫がそうつぶやいたのを、確かに才蔵の耳は捕らえた。
ぎりぎりとでかい音が聞こえた。
太い金属をもっとでかい機械が押しつぶす。そんな音だ。
音はその白猫の口から出ていた。
ぎゅりぎりばきべきぼきんぼきん。
聞いているだけで歯の根が浮きそうな音がするたび、赤目熊の体がじりじりと後退する。あり得ないことに白猫の小さな口の中に赤目熊の下半身が徐々に飲み込まれていっている。
体を砕かれる激烈な苦痛に悲鳴をあげようと赤目熊の口が開いているが、そこからは声は出てこない。
白猫が才蔵の方を横目で睨んだ気がした。
ぎりぎり。音は続く。ときおり赤目熊の鉄より硬いはずの骨が砕ける音が混じる。
このまま呑みこまれてたまるかと赤目熊が前足を爪ごと地面に突きたてる。だが赤目熊の山をも揺るがす膂力も、その白猫が呑み込んでいく恐るべき力には抗すべきもない。
「た・・す・・けて」
赤目熊が人語を発する。
戦車砲と見紛う大銃を構え引き金に指をかけたまま、才蔵はぴくりとも動けない。
動け、俺の体よ。目の前に仇がいるのだ。才蔵は己を叱りつけた。
その仇が横取りされようとしているのだ。
だがどちらを撃てばいい?
赤目熊か、それともその背後の白猫か。
仇の赤目熊はもうわずかしか残っていない。ついに肩までも呑み込まれている。両前足が畳み込まれ、太い鉄骨が曲がる音を立てながら白猫の口の中に吸い込まれる。
赤目熊の頭だけは最後まで残った。だがそれもついに飲み込まれ、邪悪に赤く輝く白猫の口の中へ消えた。その口の中から小さな断末魔が聞こえてくる。
それは才蔵には地獄へと通ずる洞窟に思えた。
白猫は口を閉じると、自分の前足を舐めた。口の周りを長い舌でぺろりと舐めてこの楽しい踊り喰いを終わりにする。
「ごちそうさま」
初めてはっきりと言葉を放つと、白猫は才蔵の方に向き直り、自分に向けられた銃口を覗き込む。その体の後ろで二股に分かれた尻尾が左右に揺れている。
「さあ、お前はどうするね?」
白猫の言葉とともに才蔵の体を縛っていた鎖が解けた。
疲れ切った腕から銃という名の鉄の塊を下ろす。
「俺の願いは果たされた。やっとウチに帰れる」
それだけを言うことができた。
相手は・・このバケモノを越えるバケモノはどうするだろう?
俺を殺すのは容易いだろう。俺も食われて赤目熊と一緒にこいつの腹に収まるのか?
そう才蔵が思ったとき、白猫はにゃあと一声鳴くと消え失せた。
今になって足から力が抜け、才蔵はへたり込んだ。
己がいつの間にか小便を漏らしていたとは後で気づいた。
*
龍九架寺の和尚様は穏やかでいつもにこにこ笑みの絶えないお坊さんとして知られている。
村中の子がそこの境内を遊び場にしている。
和尚様はだいぶん大柄な人で、暇なときはいつも村の中を歩き回っては、修理の必要な建物や柵を見つけては誰に頼まれたわけでもないのに直している。
子供たちは愛称として彼のことをダイダラボッチと呼んでいる。
この寺の本尊は彼が手彫りした大きくて粗雑な仏像であったが、村人は誰もそんなことは気にしなかった。
ある日、村の嫌われ者が何か金目のものはないかと本堂に忍び込み、その仏像の後ろにある物が隠してあるのを見つけて腰を抜かした。
それは巨大な大砲に見えた。持ち手はついていたがとてもに持てる重さではなかった。
そこに間が悪いことに和尚様がやってきた。
怒るかと思われた和尚様は笑いながらそれを軽々と持ち上げると、また元の隠し場所へとしっかりと据え付けた。
これは何かと尋ねられ、秘密だよとこう教えてくれた。
「若気の至りというヤツだよ。ワシはまだ若くて、人には届かぬもの、また人が関わってはいけぬものがあることを知らなかった。こうしてワシが生きているはただの幸運の為せる結果。お前も決して見つからぬものを探すのは止めて、地に足をつけなさい」
いつものお説教が始まると知り、嫌われ者がほうほうの体で逃げ出すと、和尚様はまた微笑まれて、本堂の真ん中で座禅を組み始めた。
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