女始末人絵夢3(7)一等賞を取ったのは誰?

「今日は美人さん。ありがとございましーた」

 カラナザン三世が大きな手を絵夢に差し出した。夜の遊びだけはいつもの『お忍び』のメンバーでやるつもりだった。

 ある日、突然見知らぬ女性が「あなたの子よ」などと言いながら尋ねて来ることだけは、一切やらないカラナザン三世であった。肝心な所は決しておろそかにしないからこそ、彼は元首の地位を保てるのだ。

「はい。お役に立てたなら光栄ですう」

 絵夢がこれ以上は無いという、にこにこ顔で答える。やったあ、これで仕事はおしまい。

 後はでっかいボーナスを貰うだけ。

 どうしても顔に笑みが浮かぶのを止めることができない。



 喫茶店の中で本を読んでいた男がふと読書を中断する。

 背は高いが細身の男だ。恐ろしく高そうな目の詰まったカシミヤのロングコートを背もたれにかけている。

 胸ポケットの中でスマホが静かに震えた。それを取り出して耳に当てる。

「頭脳?」相手の問いかけは短い。

「ああ」とこちらも短く答える。

「作戦は失敗です」報告する声に脅えが混ざっている。

「知っている」

 答えながらも読んでいた本に栞を挟んで閉じる。タイトルは『孤独の深き穴の中で』だ。作者はアルフレッド・ザイルマン。ある日自室の中で自分を三十七の断片に分離して死んだ男だ。

「『右手』も『左手』も壊滅です。これからどうしましょう」

 声に焦りが籠っている。ついさっき、革命組織『黎明の大地』は大打撃を受けたのだ。構成員のほとんどが挽肉に変わってしまった。

「ああ、それなら大丈夫だ。戸棚の中の四番と描かれた箱を開けてその指示に従え」

「分かりました」

 受話器を持ったまま相手がごそごそと動く音が聞こえて来る。

 男は閉じた本の横にスマホを置いたまま、『神経』役の男の動きをその音だけで追う。

 やがて声がした。

「ああ、あったあった」

 箱を開けている音。

 息を飲む音。

 慌てて逃げようとする音。

 足が縺れて床に倒れる音。

 大きな獣の咆哮。

 何かを破壊する騒音。

 そして悲鳴。

 その後はゴリゴリくちゃくちゃとの咀嚼音。

 男はスマホを切った。

「これでよし。今回のは手間をかけたのに全部パアか。今からじゃ取り返しはつかんか。カラナザンが日本で殺されるのがツボだからな」

 独り言を呟くとコーヒーカップを持ち上げて、残りの冷えたコーヒーを啜りこむ。

 しばらく空のカップを見つめながら男は考えていた。

 また新しい組織を作らなくては。今度はもっと大きな組織を作ろう。

 それと・・十人の魔女たちの件もある。あの組織は邪魔だ。

 そちらの方は自分が直々に殺すという手もある。遠回しな手を使うばかりも面白くはない。

 だがあまり派手にやるのにも問題がある。

 自分の本当の正体があいつらにバレる恐れだ。せっかく苦労して作り上げた偽装が台無しになるのは良くない。

 考えることはいくらでもあった。

 もう一杯コーヒーをお替りし、今度は熱いままに飲み干す。

 さてと立ち上がったときに、首筋にちくりと痛みが走った。

 思わず伸ばした指の先に摘まんだのはなんと針だった。

「これは!?」

 驚くその手の中の針がふわりと浮き上がった。

 針は宙を飛ぶと、いつの間にそこに座ったのか傍らでカップを両手で抱えている青年の下に戻った。

 もちろん古都総十郎である。

 総十郎は立ちあがると男の前に立った。

「やっと『頭脳』を捕まえた。少しだけ遅かったのは残念だけど、これで仕事は終わり」

 男の視界が歪んだ。体から力が抜けてテーブルに突っ伏した。

「即効性の毒だよ。君はもう助からない。因果が廻ったというわけだ」

 男の体から命の最後が抜けていくのを冷たい目で見守る。

 『神経』役の男は妖獣に食われていた。完全に死ぬ前にそこに辿り着けたのは幸運だった。でなければこの『頭脳』には辿り着けなかっただろう。

 あんな化け物を使う以上はこいつの正体も妖魔の一匹かと予想していたのだが、この男の体からは一切の妖気が感じ取れない。ただの人間だ。

 考えすぎだったかと、総十郎は己を諫めた。

「じゃあな」

 その言葉を最後に総十郎は消えた。


 不思議なことに誰も男が突っ伏したテーブルには目を向けなかった。

 さらに一分が経過した頃、倒れた男の背中がピクリと動いた。

 そしてまるで何事も無かったかのようにムクリと起き上がる。

「古都の末っ子か。しつこい野郎だな。だがこうもあっさりと騙されるようではまだまだだ」

 空のカップを取り上げるとその中に緑の液体を少しだけ吐き戻す。嫌な臭いが立ち上る。

「確かに猛毒だな。人間なら死ぬのは間違いない」

 うんと伸びをした。

「末っ子め。目の前にいた仇を見逃したと知ったらさぞや悔しがるだろうな。どうせこの偽装も終わりだから、後でそっと本当のことを教えてやろう」

 心底楽しそうにくっくっくっと笑う。他人の苦しみを想像するただけで嬉しくなってしまう。

 本を回収し、ロングコートに手を通す。

「しかし百虎のヤツめ。丸くなりやがって。いかんな。アイツはもっと不幸でないと」

 コツコツと自分の頭を叩く。

「あいつは最悪最強で最恐にして最凶の猫又でないといけない。人間の女と家族ごっこなどあってはならん」

 陰で蛇と呼ばれている男は店を出ると雑踏の中へと消え去った。

 彼・・いや、ソレは忙しい。ソレにはいつも次の災厄を創る仕事が待っている。



 なお。

 声がしてMが振り返ると血を流したナオがいた。ナオがぶるっと体を震わせると傷跡はみるみるうちに塞ぎ始める。

 人が見ている前ではあまり怪奇現象を起こしてはいけないのは妖魔の鉄則だ。見た者を必ず殺す場合はその規則は適用されないが。


『どうした? ナオ。その傷は?』

『兄貴、あいつに逃げられました。おっそろしく拳銃の腕のいい野郎で』

『・・にしても・・』

『それに、肩の辺りに死神が憑いていました。ありゃあ、きっとスポンサーですぜ』

『じゃあ、仕方が無いな』


 たまに妖魔に対抗できる人間はいる。

 ごくまれに妖魔を殺せる人間もいる。

 そして本当にレアだがその姿を見ただけで妖魔が逃げ出すようなヤツもいる。

 その一人にナオは遭ってしまったわけだ。


 だがこの騒動ももうすぐ終わりだ。

 たったいま、絵夢がカラナザンに別れの挨拶をしたところだ。

 立ち去ろうとする絵夢のお尻をカラナザン三世の手の平が大きく撫でた。

「きゃあ。何するんですかあ!」

 絵夢の手が素早く回り、握りしめたかんざしがぐさりとカラナザン三世の首筋に埋まった。

 しまった・・つい・・。絵夢が青くなる。

「ああ、大変! 大丈夫。カラちゃん。しっかりして~」

 だが絵夢の努力虚しくカラナザン三世はその腕の中で死の痙攣を始める。ゴロゴロと断末魔の息がその肺から漏れる。

 即死である。

 即死ではいかに妖力とはいえ治療はできない。瀕死と即死の間には深くて広い河が流れているのだ。

 Mとナオが猫に非ざる深い溜め息をついた。

 どうしてこの人はという深い諦めの気持ちが籠っている。


 ここまで来て~しょうがないにゃ~。


 何とかしてごまかすしかない。この仕事が失敗に終われば絵夢が荒れるのは間違いない。

 Mの左目が青く光ると、ゆらりとカラナザン三世が身体を起こした。

「・・だい・・じょうぶ・・びじ・・んさん・・、さようなら・・」

 そのまま、ゆらりゆらりと覚束ない足取りでゾンビのカラナザン三世はホテルへの帰路についた。



 訪日したカラナザン三世の三日目の会議は、一昨日の元気の良さはどこに行ったのか非常に具合が悪いようで、話す内容もぼそぼそと聞き取り難かった。

 だが全体としては有利な契約が出来て間抜けな議員達は深く考えずに上機嫌で彼を見送った。

 続く三日間はMとナオが交替で家を抜け出て、彼を操った。

 彼の身体がそろそろ匂い始める頃には、スケジュールは消化され尽くして、帰国と相成った。死体を操るために飛行機に潜り込んだのは可哀そうなナオである。もちろんMに殺すぞと脅されて仕方なくである。



 ふかふかふかふか! すりすりすりすり~

 Mは御機嫌であった。

 ぷんぷん、ぷんぷん。

 絵夢は不機嫌であった。


 帰国したカラナザン三世が自分の宮殿のベッドの上で謎の死を遂げたためである。

 発見されたときには死体がすでに酷い腐敗の状態にあったとか、大きな黒猫が宮殿の中で発見されたとかの不気味な噂が飛び交う中、謎の組織『始末人』へ約束のお金を払おうと考えた者が誰もいなかったのは無理の無いことである。

 宮廷内の跡目争いは続き、今や莫大な利権の絡んだ諸国を巻き込んで大問題に発展しそうな状態だった。


 ・・つまりは今回の絵夢の仕事はタダ働きになってしまったと言うわけだ。どこかの誰かが言ったように、濡れ手に『泡』になってしまった。


 もう、元締ったら、どうして前金でとっておかなかったよ!

 絵夢は怒り続けていた。


 がらり。

 ぼろぼろに汚れたナオが少し開けた窓から入って来た。


「あ。ナオ。一体、どこ行ってたのよ~」

 絵夢が膝の上のMを振り落してナオに駆け寄った。

「ボロボロじゃない。大丈夫? お腹は空いて無い?」


 にゃああああ。すりすり。

 ここぞとばかりに、哀れな鳴き声を上げて絵夢に甘えるナオ。それを見て、Mはまたぷいと背中を向けて尻尾をぶらぶらさせ始めた。

 左の青い目と右の黄色い目の両方に嫉妬の炎が燃えている。

『渡さない。誰にも絵夢は渡さない』

 密かに決意を固めるMであった。

 やはりナオは殺そう。そう決心した。

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