4ー14 松平定信・1791年(マイナス234年)

 一橋家の無血クーデターによって将軍の座に着いた家斎は、18才になっていた。田沼意次の死から3年が過ぎ、松平定信の『寛政の改革』も頂点に達している。定信は意次が敷いた経済重視の開放政策を否定し、農政偏重と緊縮財政で封建制を守ろうとした。しかし時代の流れに逆らう〝改革〟はことごとく破綻し、庶民の生活は苦しくなる一方だった。江戸市中はもとより日本全国に、田沼時代のおおらかで活発な暮らしを懐かしむ声がわき起こっていた。だが将軍にとって、庶民の暮らしぶりは関心事ではない。家斎には、父親である大御所、治済から命じられた重大な任務があった。

 一橋の血を引く子供を、できる限りたくさん産ませる――。婚姻による血縁関係を結ぶことで一橋の支持基盤を強めたい治済にとって、その一人一人が重要な駒になる。15才で最初の子を設けた家斎には、天職とも呼ぶべき任務だ。結果、家斎は生涯で55人の子供を作ることとなった。政治は、父親の治済の采配を受けた定信が行なっている。家斎に頭脳は必要なく、下半身を運動させていれば事足りた。将軍家斎は、その日も大奥に向かっていた。

 だが、定信が磨き上げられた廊下の真ん中に座り込んでいた。定信は定信で、将軍の気ままな行いに義憤をつのらせていたのだ。進退を賭けての諌言を心に決めている。対決は避けられなかった。

 日頃から口うるさく指図されていた家斎の怒りが、爆発した。

「定信め、どこまでしつこい奴じゃ! あれはいかん、これもいかんと、老中の分際で思い上がった口をきくな! 身の程を知れ!」

 定信は床に額をこすりつけてはいたが、一向に退こうとしない。

「お言葉にはございますが、今は誰もが身を清く保って国力を取り戻さねばならぬ正念場。このような非常時に、将軍ともあろうお方が大奥通いにうつつを抜かされておりましては、下々にしめしがつきませぬ。せめて、今日だけは――」

「要らん口出しだ! わしが大奥に通うのは、父上のご命令があってのこと。父上には、深いお考えがある。孔子の猿真似しかできん田舎者に、分かろうはずもないがな!」

 定信はゆっくりと顔を上げた。

「田舎者と……それは、あまりのお言いよう」

 家斎は定信を冷たく見下ろす。

「貴様……まだ田安の血を誇りにしているのか? まさか、このわしよりも将軍にふさわしいと自惚れているわけではあるまいな?」

 定信は再び平伏す。

「と、とんでもございません!」

 だが、15歳も年下の〝青二才〟に心の内を見透かされては、動揺を隠しきれない。

「図星か。大奥の風説も馬鹿にできんな。孔孟の教えなどより、よほどこの世のからくりを見せてくれるわ。貴様も少しは奥女中どもの手ほどきを受けたらどうだ?」

「もっとご時勢をお考えになり、お戯れは程々に……」

 家斎は、定信の繰り言を聞いてはいない。

「いや……貴様には無理だな。大奥で貴様ほど悪し様に言われている男を、私は知らん。女どもが貴様を嫌う訳が分かるか? いい歳をしておるくせに、やることは世間知らずの小僧っ子だからだ。その上に、役にもたたぬ学問で人の心を踏みつけにする。だいたい、己れの力で田沼を追い落としたと思っていることが滑稽だ。田沼と貴様をすげ替えたのは、父上だ。おまえが選ばれたのは、田沼のような切れ者ではなかったからだ。貴様は己れで考える頭も、人を動かす才覚も、国をまとめる胆力も、何一つ持ち合わせてはおらん。取り柄は1つ。田沼を嫌う輩に好かれていたことだけだ。操り人形にはもってこいの木偶だったのだ、山猿め!」

 定信は、わずかに腰を浮かせた。

「殿……」

 家斎は、赤子をからかうかのように大げさに驚いてみせた。

「切るか? やってみろ。刀を抜くがいい! これで田安も松平も取りつぶし。それでもできるのか! これ、猿、返事をせんか!」

 廊下を凍り付かせる緊張を、鋭い怒声が打ち破った。

「それぐらいにしておけ!」

 2人を割ったのは、いつの間にか現われた一橋治済であった。

 家斎は振り返った。

「父上……」

 治済は家斎を見つめた。

「何度も言わせるな。己れの心を押さえることを覚えろ。さっさと大奥へ失せろ。定信には、わしから言って聞かせる」

「はい……」

 家斎は定信に射るような目を向けてから、動きを止めた定信の脇を通り抜けた。いったん振り返ってふんと定信を嘲笑うと、大奥へ向けて立ち去る。残された定信は、治済の前に這いつくばる形になった。その目はじっと床を見つめ、両手がかすかに震えている。

 治済は定信を見下ろし、つぶやいた。

「定信……説教は程々にしろ」

「しかし、老中の勤めは――」

「あれは、わしの気持ちを代弁しただけだ」

「ですが――」

「まだ言うか⁉」不意に叫んだ治済は、知恵の足りない子供を哀れむように定信を見た。「やはり、買いかぶっていたな……」

 定信はようやく目を上げた。治済を、不思議そうに見つめる。

「大殿……?」

 治済はもはや、定信への嫌悪感を隠そうとはしていなかった。

「わしの要求は、貴様には荷が重すぎたのだな……」

「大殿……。いったい、何を……?」

「家斎の言葉は本当だ。常々わしが語っていたことを口走っただけだい。なりは大きくとも、まだ子供。嘘がつけるほど熟してはおらんでな。わしは家斎に『1人でも多くの子を作れ』と命じた。一族の血を引いた赤子は、一橋の力を拡げるための武器だからだ」

「しかし今は、国政を第一に考えなければならない時……」

「お前、歳はいくつだ? 今まで、世の中の何を見てきた? この世は、書物に書かれた綺麗事では動かぬ」

「しかし、国の政は――」

「国を考えるなら、田沼を切りはしない。あの男に任せれば、民も安穏に暮らせる時が訪れたであろう。それに引き替え、お前はなんだ? 世直しだと? この国をカビ臭い穴蔵に押し戻したにすぎん。だからこそ、わしはお前を選んだ。だがその役割も、そろそろ終わる。お前の無神経と傲慢さがどれほど国を痛めつけているか、息を詰まらせた町人どもは肌で感じておる。まして、尊号問題では光格天皇の不興を買い、このわしの権威さえ認めようとしない。飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこのことだ」

 当時光格天皇は、実父の閑院宮典仁(すけひと)親王に『太上天皇』の尊号を送ろうとしていた。だがその実行には、政治の実権を握っている幕府の了解が必要だった。しかし定信は、『前例がない』との理由で天皇の希望を頑なに拒否していた。定信は、天皇の願いを認めてしまえば、将軍家斎の父親である治済を『大御所』と呼んで西ノ丸に居住させることも拒めなくなる――という危惧を抱いていたのだ。それは治済の発言権がさらに強まることを意味し、改革の障害になる。だが治済から見れば、定信の慢心が悲願の成就を阻んでいることになる。この事件によって幕府と朝廷、そして定信と治済の間には緊迫した状況が続いていた。

 治済の冷酷な言葉に息を呑んでいた定信が、つぶやいた。

「この私を、犬と……」

「犬は嫌いか? ならばわしも、猿と呼ぼう」

「私を憎んでおられるなら、なぜ老中にお止めなさるのですか?」

「このような手管は、孔子の書物には書いておらぬか? ならば教えてやろう。貴様の不人気が役立つのだ。家斎が国を統べる時、お前の評判が悪ければ悪いほど、民衆はあれを歓迎する。この国は真に一橋のものとなる」

 定信は心を決めた。

「身を引かせていただきます」

「田沼に敗けたと認めるのだな?」

「いつまでも田沼、田沼とおっしゃいますな! 死んでまであのような下賎の者と比べられるとは、心外にございます!」

「お前が田沼に勝るのは、その口数の多さだけだ。お前には『アイヌの黄金を探せ』と命じた。権限も与えた。アイヌを締め上げれば、ロシアを招き入れかねないからだ。なのに、青島俊蔵を殺し、相良の田沼城を跡形もなく壊し――そうまでしても手がかりさえ得られない自分が、情けなくないか? 黄金があると分かっていながら、松前に探し出させることもできずにいる。かくなる上は、蝦夷を幕府の直轄地として探索する以外にない。隠し黄金を放っておけば、いつの日か幕府を倒す資金に化ける。なのに一握りの砂金さえ持って来られんとはな。所詮貴様は、田沼と争える器ではない」

 定信は訴えた。

「今しばらくの時を!」

「今度は命乞いか。節操のない猿だ。まあいい、あと1年だけくれてやる。それ以上は待てん」そして治済は、過去に思いを馳せた。「田沼は、男だった……。勝ち目はないと分かっていながら挑戦を受けて立ち、死してなおわしを苦しめている。できることなら、あの男と手を組み続けたかった。田沼が、あれほどまでに国の将来を想う男でなければ……。国を開こうなどと志していなければ……。あれほどまでに、才気に溢れた者たちに慕われていなければ……」そして治済は、定信に命じた。「あと1年。その間に黄金を捜し出せ。何があろうと、朝廷には渡すな。それができぬなら、貴様には猿ほどの値打ちもないと思い知れ」

 定信は再び廊下にひれ伏した。

 しかし定信は、治済の命令を実現できなかった。アイヌの黄金は幕府に所在を知られることなく、定信は36歳で中央幕府からしめ出された。以後は白川の藩主に納まり、中央復帰の機会もなく、55才で隠居、72才で没したのである。

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